六月の開発局

「業界の人」じゃないよ

そして青い森へ旅立った

今年の夏は調子に乗って予定を入れていたら七月の週末のうち3回を遠出しており、大変なことになった。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221121j:plain

七夕の週は京都に瑞風が吹いた。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919215857j:plain

新大阪駅の空。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220028j:plain

このあと、地下鉄に乗っていたら路面電車に化けていたという怪現象に出会う。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919215926j:plain

大津線はまた乗りに来たい。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220002j:plain

三連休は毎夏恒例のグランツーリズモに友人と出かけ、淡路島で朝を迎えた。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220103j:plain

小松島は祭の鼓動を湛えていて、それはとても素敵なものだったけれど、写真には写らない。映画になら、写せる気がする。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220621j:plain

練習艦が見学できるとのことだったので、時間まで近くを歩いた。こういう、何気ない景色が好きだ。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220407j:plain f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220441j:plain

今まで中を見させてもらった自衛艦の中で一番古い船になる。今回も隊員の方にいろいろおもしろい話を聞いた。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220746j:plain

四国を横断し、八幡浜の港まで行った。今度は、列車で来てみたい。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220817j:plain

船まで時間があったので、近くの店で夕食とした。テレビから聞こえるオールスターゲームの音は、夏の輝きに深さをくれた。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220837j:plain

別府を経由し、鹿児島の3年ぶりに来た銭湯で朝風呂とする。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220858j:plain

海を越えて、宇宙への玄関口へ。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220915j:plain

連れて行くか迷っていたのだが、出かけに連れて行く決断をしてよかったと思えたショット。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220944j:plain

魔法の時間には、なぜ今日が映画のための日ではないのかと思うこともある。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221110j:plain

フルサイズ不在の夏夜は彼女のポートレート撮影に費やした。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221519j:plain

朝の獣たち。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919222613j:plain

フェリィと自称する貨物船で文明と離れた時間を過ごした。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221440j:plain

宮崎を掠めていく。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221354j:plain

このとき後ろ髪引かれる思いで走った道から見える空の色はとてつもなく美しく。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221427j:plain

三重の夏には志摩風が吹く。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220217j:plain

大旅行の終わりの夕暮れ。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220234j:plain

宇宙への玄関口からの帰り道、地球への扉が清水の夜に見えた。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220317j:plain

最後の週末。水上の雨の中、鉄騎はその勇姿を披露する。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220338j:plain

雨色の信濃川を眺めたり。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221151j:plain

映画を撮るんだ。再び。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221309j:plain

この小さな旅行から帰って来て、僕はこの駅から夜行列車に乗り、青い森へと旅立った。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221321j:plain

こうして写真を撮っていて、自分の周囲の人に見せると「上手いね」と褒めてもらえる。「壁紙にしても良いか?」とか聞いてくる人もいる(当然だがそういう使い方であれば好きに使って構わない。私的複製の範囲なので、僕が押しとどめられることでもない。誰に対しても許可を求める必要はない)。とても嬉しい。

そして、僕が小説や文章、絵を売っていることを知ると「なぜ写真集を売らないのか」ときいてくる人たちが、実はかなりいる。

僕は、自分の写真が売れるとは思えない。僕よりずっと上手い人が山ほどいて、そういう人たちの写真に対する、特に色に対する追求にとても敵う気がしないからだ。いくらカメラに高い金を払い、旅費を費やして、枚数を稼いでも、写真を撮ろうとしている人間と、シーンを、自分の中だけに生まれた映画の一瞬を、引き戻す手がかりを切り出そうとしている人間が勝負になることはない。そう思っている。

でも、ちょっとやってみようとおもって、コミケにはそのつもりで応募した。数えたら、この5年間で9度も訪れていた青森の写真集になる。それには恐山もねぷたもないし、どうかするとねぶたもないし、竜飛崎もない。弘前の名所もなく、食べ物の写真もない可能性は高い。

僕は5年前の夏、東京で映画を撮っていた。それは未完成の映画になってしまったけれど、その時得られた輝いたショットはこの夏の終わりにすべて使いきった。そして僕はそのショットに自信を持っている。その自信があるから、一歩前に踏み出してみよう、そう思ったのだ。なぜそんな自信が持てたのか、それはいつになるかわからないけれど、その作品を公開する日がくればきっとわかるだろう。

ただ、言葉で説明するなら、そこには、僕の観る絵の強さがある。小説としては歪でとても勝負にならないものを作ったかもしれないが、お話としては戦えるものを作った。同じように、写真集としては勝負にならないものかもしれないが、絵としては戦えるものにできる、そう思えた。

「ああ、豊住はこれだけの話を作れて、これだけの絵を作れて、これだけ時間を作れるのだから、その力が発揮されれば本当にすごいものを作れるんだろうな」と思ってほしいから、作れる、そういう気になった。

なので、今はたくさんの写真を選別し、焼き直している。

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演技についてのノート(約1万5000字:まとまっていない)

はじめに

立場柄、演技というものの向き合わずにはいられない。専門の教育を受けたわけではないし、受ける気もないのに、気づいたら演出の全決断権を有しており、さてどうしたものか、と思い悩むことを繰り返し既に10年近くが過ぎた。

素人が熱心に勉強と訓練を重ねてきた役者や、昨日まで素人だった役者の演技を指導し、映画を演出することの困難さは、難しいという言葉で言い表せるものではなく、どちらかというと闇が深いと表現したくなるものだ。そこには何か指標が存在するわけではなく(少なくとも僕は見たことがない)、頼るべき正義も見当たらない。難しいものは時間をかければなんとかなることが多いが、闇が深いものは自分が闇の中に入り何が正しいのかわからなくなってしまう。だから、僕は素人として信じられるもの、自分が理解できるものを積み上げて、それ以上のことは役者に任せることにしてきた。その積み上げた成果のようなものである。

本来なら「こうすべきだ」というのが固まった時点で、FILMASSEMBLER のサイトに記事を掲載すべきである。しかし、なかなかそこに至りそうにないので、とりあえず今わかっていることを書いてみようと思う。

だから、結論や答えはない。まとまってもいない。ただ、演技について考えていることをつらつらと書いた、メモのようなものだ。期待しないでほしい。ほとんど推敲していない。

念のため書いておくが、僕は基本的にソフトウェア開発で金を稼いでおり、前述の通り映像に関わって10年近く経つが、映像業界との関わりはほぼ全くない。したがって、用語の扱いは僕が普段用いているものである。「業界の人」と話をするときに、こういう扱いをするとトラブルのもとになるので、やめよう。それから、例によって、すべての資料を再確認している余裕がないので、うろ覚えで書いている。気をつけてほしい。ここは、そういう文章を載せる場所とはしていない。

なお、人間以外の例えば怪獣や、水や煙の演技、それからアニメにおける声優以外の演技についても書きたかったのだが、もう文章があまりに巨大になりすぎていた。ので、書いていない。

何が演技を構成するか

昨年夏に「君の名は。」を見た。演技について一番強く印象に残ったのは中に宮水が入った瀧の演技だった。神木氏の技術について特に書くことはないが、この演技で僕は決定的に宮水という女が嫌いになった。

理屈を説明する。瀧は、宮水が中に入ると、明らかに声色が変わる。なよなよした、さも「女の子ならこうだろう」という声を出す。これが、瀧がこち亀の両津のように「宮水と入れ替わったんです、という演技をしている描写」なら、これについて僕はすんなりと受け入れるだろう。だが、ここは「本当に瀧の身体に宮水が入っている」のだ。つまり、宮水三葉という女は「普段から"女の子のように"声を出そうとしている、キャラを作っている女」ということになる。

僕は、女性が普通に喋っていて、女性らしい声を出すのはそれは無垢な声だと認識している(30年近く騙されているのかもしれない)。例えば、徹の前での鶴来民子は「作っている」が、松前緒花の前では「素」だと捉えている。でも、どちらの声も、女性らしい声だ、と思っている。武部沙織だって、普段から信三郎の前の声ではないし、一年生に「先輩は今まで何人ぐらいの男の人と付き合ったんですか?」とツッコまれれば変な声も出ちゃうわけだ(茅野様の変声は最高である。最近だとあかりおねいちゃんがおばさん呼ばわりされた後の声が良かった)。黄前久美子だって、塚本秀一の前だとあからさまに声のトーンが落ちるが、それでも女の子らしいかわいらしい声である。そしてそういう声において意識して作っているのはあくまで「どーでもいいやつ」に対する部分で、女の子らしい高い周波数を作ろうとしてはいない。その声への偽りの愛を語りティラミーが土田香苗の追求を切り抜けたように、女の子の声にヤラれる男子は少なくない。女の子の自然な可愛い声は武器なのだ。

さて、宮水が中に入った瀧は、明らかに声の周波数を上げている。もちろん、男の中に入ってしまった宮水が、その違和感を解消するためにちょっと声色を変えている、という演出と捉えることもできる。だが、「カフェ!?」の声で「ああもうこれ完全に染みついてるわ」という印象が拭えなくなってしまった。宮水という女は日頃から可愛い声を努力して出力しており、それが予想外の喜びにおいても剥がれることのない鉄壁の偽装である。D機関の職員も真っ青の深層心理に染み付いた可愛い子演技である。「このカマトトが」以外の感想はない。

本作における神木氏の演技の評価は高いが、先にも書いたように神木氏の技術について評価したいのではない。肝心なのは、僕の周囲の何人かがそうであるように、おそらく一部の人は「宮水が中に入っている瀧は"ああいう声"を出すのが当然で、普通に喋るなんて選択肢に理由が存在するとは考えもしなかった」ということだ。むしろ、僕の言うように、宮水が中に入った瀧が普通に喋ったら「なんで中身が女の子に入れ替わってるのに声色が一緒なんだ。神木氏の演技はダメだ」という評価がなされたかもしれないし、新海監督はそういう点も考慮して、神木氏に演技計画を伝えたであろう。でも、僕にはダメだった。もう、宮水という女に対して「ぶりやがって」という評価しか持てなくなった。好みの問題である。

「宮水が入った瀧の演技」についてここまで細かく書いてきたのは、ここに演技の評価を困難にする要素がたくさんあるからだ。ここには「宮水をどういうキャラクタとするか」という脚本の要素、次に「瀧の中に宮水がいるという状況をどう描くか」という演出の要素、その演出を技術的に実現できるかという演者の要素、そしてそれをどう受け止めるかという観客の要素、4つの要素がある。この4要素について分解した時、僕はどれも間違っているとは思わない。新海監督の脚本も演出も「宮水が中にいる瀧」の演出として真っ当だし、それを神木氏はプロとして忠実に実行したものと容易に想像できる。でも、見ている豊住は新海監督の例外(想定外ではないと考えている)の受け止め方をし、それを新海監督は初めから切り捨てている。一言で言ってしまえば「残念な話」である。

演技の問題に向き合うこと

僕は演技について考えなきゃいけない立場だから、こうやって自分の違和感を分析して、評価と感想を切り分けなければならず、結果的に作品に対する言葉は良いものも悪いものもむき出しになって分割して出力される。ところが、普通の人間はそうではない。自分がなぜ、そう感じたかということを「脚本」「演出」「役者」「自分」に分割して出力なんかしない。運が良くて「キャラがキモすぎ感情移入できないこんな映画に高評価なんて日本の映画は終わってる」、運が悪けりゃ★1で終了である。逆パターンなら「泣けました最高の映画です全人類が見るべき」と★5である。

が、これも問題ではない。どんな感想でも尊いものだからだ。映画の感想など個人の勝手、右へ倣えする必要などない。

「演技を決定しなければならない監督である僕」にとって問題なのは「一体、普通の人がいう演技が良くないとはどういうことなのかわからないので、良くしようがない」ということだ。最終的に受け手の問題であることはわかっている、けれども、受け手に届けなければならないのも事実だ。その結果をどうするかはともかく、新海監督がおそらくそうしたように「対象外の受け手を極限し、対象の受け手を最大化しかつ最大効果域で届けるにはどうしたらいいか」という問題を解いた方が良いだろう。

こうやって文章に起こすとそういう問題なのかと認識できた気がするが、実際のところ規格化され校正のなされた評価器は存在しないわけだから、事実上問題を認識できてもいない。問題とは認識できればあとは解決するだけなので、真の問題は認識が難しいのだ。長年問題になっていることでも、本当はその問題がどうして問題なのか認識できていないのである。

演技の問題は難しいため、ボールがゴールラインを割りそうなのでマイナスのパスを出したときに「なんで攻めないんだ!腰の抜けたパスを出すな!」みたいなことを言う頭のおかしい人間もめちゃくちゃ多い。単にその作品や演技が趣味に合わなかっただけなのに、「好き・嫌い」の問題を「いい・悪い」にすり替えるわけだ。そして、そいつの声がデカく、おまけにボールみたいに簡単に位置が見えないので間違いを指摘されても理解しないことが容易なのである。こうして演技をどう捉えたらよいかという問題は混迷を極めていく。

そして混迷が解決して書いているわけでもないので、この記事には結論がなく、僕は以下つらつらと「おそらくこれも問題に関わっているのだろうな」ということを記していくだけになる。

ただ、結論のようなものを記せるのなら「演技を構成する要素も評価軸もあまりに無数にあるので、そのすべては不可能だができるだけ多くを拾い意図的に取捨選択をすることが大切である」ということ、それから「もしあなたが誰か監督に協力する時があるのなら、自分の見ている軸を伝えることが作品の品質を高める手助けになるだろう」ということを記しておきたい。

「お話」と「脚本」の違い

よく、作品を見て、そのお話が気に入らないと「脚本が悪い」という人がいる。でも、これは本当に脚本が悪いのかというと、実はそうでないことも多い。

演技がそうであると同じように、構成要素をひっくるめて「脚本」としていることはよくあることで、本質的に何が悪いのかわからなくなっていることも少なくないからだ。 例えば、こんなシーンを考えてみよう。

「昨晩、加茂島製薬の研究所が何者かに襲撃され、資料が奪われた」

「加茂島製薬、ツカパロス症候群に対する画期的な新薬を発表した企業ですね」

お気付きの通り「説明台詞」である。ちょっと気を使ってやると、

「昨晩、加茂島製薬の研究所が何者かに襲撃され、資料が奪われた」

「加茂島製薬?……あ、ツカパロス症候群に対する画期的な新薬を発表した企業、ですか?」

このように、さも「記憶を取り戻して確認した」というようになるだろう。しかし、もっとマシにすると、

「昨晩、加茂島製薬の研究所が何者かに襲撃され、資料が奪われた」

「加茂島製薬?……あ、ツカパロスの」

ぐらいになるだろう。あるいは

「昨晩、加茂島製薬の研究所が何者かに襲撃され、資料が奪われた」

「資料?なんの資料ですか」

「去年あそこが発表した、ツカパロス新薬のだよ」

なんて形にすることもできる。

このとき「加茂島製薬の研究所が何者かに襲撃されたことを二人が話している」というのが「お話」であり、それをどう表現していくのか、が「脚本」である。

そして、台詞の質は演技の難易度や受け入れやすさを左右する。説明台詞はそれ自体が違和感を持つことがあるため、前述の通り最終的な作品の断片を受け取った時に生じた違和感が断片を構成するどの要素によるものか判別できない観客にとっては、物語への没入を阻害する要素となりかねないのである。本当にひどい台詞の場合、極めてひどい例え方をすれば、スカートの上からパンツをはいているヒロインのような結果を導く。そんなヒロインが登場したらよほど変わった設定でない限り、どれだけ真剣な演技をしていても、まったく話に集中できないだろう。確かにパンツもスカートもはいているが、絶対におかしい。そんな事故が起きてしまう。次節に述べるが、説明台詞自体を否定するわけではない。けれども、台詞にはそれ自体の質が明らかに存在するし、説明台詞はその質を保つことが難しい台詞の一つである。

わかりやすさをどこまで求めるか

僕が脚本を書くのなら、前節の最後の方の形態にするだろう。そういう脚本が「好き」だからだ。最初の方の形態も「悪い」わけではない。なぜなら、そこには必要な情報がはっきりと短い時間内に収まっているという利点がある。だから、それを選択するのも十分ありだし、実はある作品の実際の台詞を元に書いている。プロが認めて世に出た由緒正しい書きぶりなのだ。プロの仕事に赤を入れる真似はあまり好きではないので、別の作品から実例を紹介したい。

小林さんちのメイドラゴン第1話における、小林さんの台詞だ。「あのプログラム、今日統合テストか」。この台詞は小林さんの独り言である。独り言としては「今日統合テストか」だけで限界だろう。けれども、ソフトウェア産業について知らない人間は「統合テスト」と言ってもなんのことだかわからない。ここに、多少不自然でも「あのプログラム」と一言入れることで、一時に小林さんの仕事を表すことができる。

しかし、台詞に載せる情報量を少なくし、他の情報で補っていくやりかたには、映像作品の醍醐味がある。そういう魅力を究極的に追求した作品には、拙著「Scout Report1. 勝つことは、すべてだ。(コミケ受かったらまた持ってく)」にも記した通り「アルドノア・ゼロ」「WXIII 機動警察パトレイバー」「ジャッカルの日」などがあげられる。また、押井守監督は「台詞」と「映像」と「映画」を並列に扱って豊穣な時間を作ってくるので、難解と称されがちな一方で熱烈なファンを獲得しているのはひろく知られている。さして難しいお話ではないが、その内容を丁寧に制御して、一つのフィルムに厚い体験を作り出そうとするわけだ。

「説明台詞は悪いものだ!」「日本の映画は説明台詞が多すぎる!」と憤る人はよく見かけるが、説明台詞を排除して画面で説明しまくったWXIIIを評価している人はなかなかみない。台詞に情報を載せず絵で描くことで、高い評価が確実に得られるわけではないと注意しておきたい。

脚本はお話を伝えるための道具であり、そのお話をどれぐらいわかりやすく言葉で率直に伝えるか、というところの脚本上の裁量が好みの範疇と言って良いだろう。

わかりやすさとその好みの裁量は、脚本のなかだけにあるわけではない。演技にもある。例えば「雲の向こう、約束の場所」におけるサユリの「すごい、飛行機」だ。この台詞はパイロット版にも本編にも入っているが、明らかに本編の方がわかりやすく「可愛く、彼らのプロジェクトに興味と好意を持ってくれている女の子」という演技をしている。パイロット版の演技を僕は好むが、これを「淡白だ」「棒読みだ」と忌避する人もいるだろう。

雰囲気をどう作るか

文法的に、あるいは文脈的に正しくない台詞は、「スカートの上からパンツ事態」を容易に引き起こす。特に流行りのファンタジィにおける「文語調なんだけれど明らかに間違っていて、何を言っているかわらない」事故などはよく見かける(実例を挙げることは避ける)。

ただ、正しくないことがよくないわけではない。例えば、ガールズ&パンツァー最終話における武部沙織の台詞を思い出してほしい。マウス出現に対し「こんなんじゃ戦車が乗っかりそうな戦車だよ」という彼女の叫びは、とても文としては奇妙な台詞である。しかし、この台詞は彼女の動揺を見事に表している。びっくりした人間が正しく喋らなくても、おかしくはないはずだ。

また凪のあすから第20話におけるまなかの台詞「ひーくん!女の子そんなに怒っちゃダメだよ!」もこの種の上手い台詞だ。まず助詞が抜けているし、怒っているのではなく、怒鳴っているのだから、かなりおかしい台詞である。けれども、まなかというキャラクタをよく表現していることは、見ればわかるはずだ。

上手いと思われやすい脚本

シン・ゴジラの俳優陣の演技の上手さについては、以前散々書いた。巷でもなかなか評判が良かったので、多くの人がそう思ったということだろう。

だが、あえて書くが、シン・ゴジラの脚本は「演技が上手いと思われやすい」ということを演技を作る側としては知っておきたい。というのは、シン・ゴジラは脚本が上手く、台詞がそれらしいからだ。

シン・ゴジラには、誰かが自分の思いを語ったりするシーンが極端に少ない。また、キャラクタを作る演技も非常に少ない。事務的に伝達事項を淡々と述べるという演技が極めて多い。このため、この内容に「納得感」があればそれだけで演技が上手く見えるのだ。

例えば、自衛隊の指揮官が「朝のナパーム弾の香りは格別だ」「石器時代に戻してやる」とか、言わない。「CPより各車戦闘陣に移行せよ」とか言われると、ほとんどの観客は自衛隊員として訓練に参加したことなどないのに本物らしく聞こえて「現実感がある」と錯覚する。現実なんか知らないのに。

だから、一番かわいそうなのは石原氏である。脚本を読んで泣きそうになったと言っていたそうだが、当たり前だ。自分だけ異様に難易度が高いのである。感情を口にして、個性的なキャラクタを表現することを求められる。そして、映画がコケたら間違いなく吊し上げを喰らうのは自分の演技である。だが石原氏はそれに対して真っ向勝負を挑んで見事にやり抜いた。

僕は尾頭さんも好きだし、市川氏もかわいいと思うけど、市川氏はやりやすいキャラを割り当てられているのが事実だ。無表情、事務伝達型、最後にちょっと笑って、いいとこを持っていく、演技の観点で言えば美味しいキャラクタである。他のキャラクタも大体そうで、だからシン・ゴジラの脚本は優れているのだ。

けれども、庵野総監督はあの脚本を「演技が下手な役者でもやりやすい簡単な脚本」として作ったわけでもないはずだ。あの脚本は「日本人役者の演技の上手さを最大限わかりやすく表現する」脚本である。このことについては、あとで説明したい。

ガメラ 大怪獣空中決戦

ガメラ 大怪獣空中決戦」は伊藤氏という稀代の脚本家が、その脚本能力の高さを最大に発揮し、また金子監督がそれを見事に演出した映画である。この映画の台詞を通じて、脚本と演技の関係を記して行きたい。

まず、ヒロイン長峰真弓が姫神島に赴き、荒らされた民家近くに謎の半固体を見つけるシーンである。長峰はこれを鳥の未消化物の塊に似ているが大きすぎると言いつつ、その中から万年筆を取り出し「平田先生のです」と呟く。この脚本はすごい。この一つの台詞で「おそらく平田先生は何者かに食われて死んだ」ことがわかるし、長峰が万年筆だけで平田先生を判別できる間柄であったこと、そのつらさが伝わってくる。そして、流れ出てくるメガネのフレームは、平田先生がメガネを掛けていたことも教えてくれる。

また、この台詞は、ただ神妙に言いさえすれば、その衝撃を伝えてくれるのである。機械的に言っても、小声で涙をこらえながら言っても、呆然と言っても、認めたくないように絞り出しても、台詞の機能は損なわれない、根本的な強さがある。監督や役者が長峰真弓というキャラクタをどう描くかの裁量が極めて大きく、技倆に左右されない。にも関わらず、必要なことはちゃんと入っている優れた台詞だ。これが例えば「これは平田先生の万年筆ですね」になった途端、その説明性は強まり、意味やキャラクタの性分が固定されてしまう。さらに、この台詞を演じた中山氏はあまりに理解しがたい、鳥が人を丸呑みにしたのかもしれないという出来事を前に驚愕していることが伝わる種別の演技をしている。

この作品には、本当に優れた台詞がたくさんある。実は気に入っている台詞を書き出してみたことがあるのだが、平成ガメラ3部作のうち、もっとも切れ味のある台詞が多かったのが、この大怪獣空中決戦だ。「平田先生のです」と同じ種類のものなら、ヘリのパイロットが発する「行きます」がそうだ。ただ一言なのに、これを演じた役者の演技も相まって、このパイロットの勇気や覚悟が描かれているし、そこに続く長峰の「お願いします」には彼女の性分がよく出ている。詩的な台詞なら「最早太陽も我々の味方をしてはくれないのか」は、とても芝居がかった台詞だが、この後の怪獣映画史に残る美しいカットとあいまって、この映画を代表する台詞と言っていいだろう。むき出しの説明台詞だが「――その場合でも、敵による攻撃がなければ、こちらから攻撃することはできない」は、斎藤という男の役人らしさを表し映画の現実感を補強する。「ないよね」は長峰をとても可愛らしく描き出したし、「一度やってみたかったんだ!」も僕らが感情移入できる優れた台詞だ。これらの台詞はもちろん、それぞれの役者はものすごくよく演じきり、怪獣映画の歴史に大きな一歩を刻んだ。

それから、僕が個人的に最大の名台詞だと思っている「いつか、怪獣のいない東京を案内するよ」についても書いておきたい。この台詞は、一見、口説き文句のように思える。けれども、これはそんな単純な台詞ではない。そもそも、この台詞は「いつか君に怪獣のいない東京を案内するよ」だったそうだ。この台詞に米森を演じた伊原氏は「こんなときにこんな台詞を言うか」と苦言を呈し、これに対し中山氏が「わたしにはこの気持ちがわかる」と反論したそうである。そこで結果として「君に」を削って「自分の愛している東京」という意味を前に押し出した、のだそうだ。

その結果、この台詞には「本当にひどい事態になってしまったことに対し、ヤケクソになりつつも自分の暮らしている街への愛が溢れた」といった意味が出た。このヤケクソ感が伊原氏の演技の良さであり、そこには「ただ壊して映える巨大な建物が多い」や「人の数が多いだけ」の東京でなく「誰かが暮らしているだけでなく、愛している街」という、怪獣映画どころか邦画でも珍しい要素が表れたのである。怪獣映画は、映画の中でもとりわけ巨大な嘘でできている。その嘘を成立させるには現実感という背景が必要だ。その背景を見事に補強したのがこの台詞であり、その下手をすれば「取ってつけたようなキザな台詞」になりかねないこの台詞を自然に溶け込ませたのが伊原氏の演技である。

が、ガメラ大怪獣空中決戦という映画が、演技の面で本当に興味深いのは実はこれらの点ではないのである。これも後に説明する。

ザ・マジックアワー

怪獣映画の話ばかりじゃないか、と思われそうだから、三谷幸喜監督の「ザ・マジックアワー」を例にしよう。

この映画は「映画の中で映画を演じる人間」や「映画の中で欺くための芝居をする人間」そして「映画に登場する人間」が入り乱れる映画である。カッコイイお兄さんから渋いおじさん、きれいなお姉さんから素敵なオバちゃんかわいい女の子まで出てきて、笑いあり涙ありアクションあり最後はスカッと爽快という映画の一つの完成形のような傑作だが、それはおいておこう。

主人公、村田大樹という男は「映画の中で映画を演じる人間」である。そして「人前でカッコつけたい人間」でもある。だから、映画の中でどんどん「演じる」。素の村田大樹、謎の殺し屋デラ富樫、お姉ちゃんにいいとこ見せたい村田、大好きな俳優の前でかしこまった村田そして一世一代の大芝居を打つ役者村田大樹、といった具合である。演じる佐藤氏の技術がよくわかるのは、その切り替えだ。人間は一枚岩ではない。いろいろな面がある。その切り替えを見事にこなして、別の人になってみせる。「演技が上手い」というのは、ある意味「切り替えがはっきりしている」ということでもある。それでいながら「村田大樹」という男から離れてはおらず、その裏側に佐藤氏という人物がいるのだ。そうみると、演技を楽しむ面から見てもこの作品の豪華さがわかるし、より楽しくなるだろう。

この映画の登場人物の演技について語ろうとすると端役まで大物がいて大変なことになるので、もう一人の主人公備後を見守る女の子「なっちゃん」について語ろう。なっちゃんは口にはしないが、明らかに備後のことが好きである。そしてものすごく心配していて、けれどもその気持を明らかにしようとはしない。この健気な女の子がささやかな期待を得られた時の屈託のない笑み、こういう笑みの破壊力はそれまでの演技、つまり「備後のことが好きなんだけれどもそれを秘めている。しかし秘めきれてはいない」という演技の積み重ねがなければ発揮されない。お話を作る段階で導火線の演技の機会を与え、きちんと発火させなければ機能しないわけだ。当然、名脚本家でアテ書きの三谷監督である。周到に準備していることは間違いないし、それが見事に活かされた作品だ。

笑いという演「技」

ここまで重点的に「脚本」の要素と「観客」それから「演出」の関わりが深い演技について説明してきたが、ここでは純粋な「演者」の技倆が問われる演技の話を書こう。

今、一番わかり易い、演者の技倆が問われる種類の演技はアニメの声優における「笑い声」と「怒鳴り声」である。もうこればかりは口で説明することができないので、確認してもらいたいのだが、素人にはあの笑い声や怒鳴り声を出すことがほとんど不可能なのだ。例えば、タレントが声優起用されたときに一番違和感が出るのがここだ。アニメ声優の作る笑い声は実際の笑い声とは全く違うもので、例えばアニメのキャラクタは笑いを押し殺して排気音だけで笑いを表現することはまずない。でも実際のクスクス笑いはほとんど鼻からの排気音である。クスクス笑いは「クスクス笑いの声」を出す。実際の人間は「高笑い」をすることは滅多にないが、アニメのキャラクタはいとも簡単にやるし、それをアニメの中で大勢が何の違和感もなく見ている。

具体例を上げれば、ごちうさの一話でココアが「くすぐったーい」と笑うシーン(おまくす)があるが、あんな笑い方をする現実世界の人間はあまりみかけないだろう(例によって、本業声優ではなくアニメらしくない笑いの例はあげない)。そして、僕らは「ああ、ココアが笑ってるな」と何の違和感もなく受け入れている。声優の「笑い声音」を共通認識として持っていて、それがアニメに実装されているときは「普通の演技」として認識しているわけだ。不自然な音なのに。

ここには、僕らが「見た目」によって求める演技を替えているし、演技に対する評価軸が「甘くなっている」と言っても良い。

その他の演「技」

台詞周りばかり書いているが、立ち居振る舞いも演技においては重要だ。この点について語るなら、三船敏郎をはじめ黒澤組の面々の演技力は只者ではない。居合術はもちろん、馬乗りにも秀で、世田谷の自宅に秘蔵したタイムマシンで昔の人物をそのまま連れてきたんじゃないかと思うような現実感を与えてくれる。歩き方一つに何度も注文をつけたというが、本当に見事なものである。こういった「技」の数々は、演技の傾向が変わっても色褪せることはない。昔は録音技術が低かったし、画質も悪かったから、役者はややオーバなアクションをすることが求められたのだろう、台詞回しという面においては古臭いな、と思うことも少なくない。しかし、立ち居振る舞いについては今の時代でも十分どころか最前線で通じる。

佐藤と菊千代、西と権藤社長、そして中島老人をわずか十数年の間に同じ役者が演じたと思えるだろうか。それどころか、新米刑事から野獣のような男、真面目な青年に中年の実業家、そして哀れな老人を「新米野獣老人青年中年」の順番で演じているのである。「技」の究極形態といっていいだろう。

では最近の邦画にはそんな見事な演技を見せる俳優はいないのかというと、そんなことはない。超高速!参勤交代の佐々木氏の居合は素晴らしい。僕は居合を知らないから、初歩的なものなのかもしれないが、十分「剣客」の迫力を見せてもらった。

洋画における演技

さて、よく聞く話「日本の俳優の演技はダメ」について書こう。

僕は、こういう意見を聞く度に感心する。洋画の俳優の演技の良し悪しがわかるのか、と思うからだ。

多くの洋画は英語音声だが、まず僕には英語だと何を言っているかわらない。字幕がないと、台詞の意味がわからないから、演技を評価する以前の問題である。何を言っているかわらないのに、どう言っているか、という評価ができる筈がない。もちろん「If so powerful you are, why leave?」ぐらいの中学生英語なら理解できる。しかしそれは「いふそーぱわふるゆーあー、ほわいりーぶだからつまりそんなに強いのにどうして逃げるのと言っているな」という変換を働かせて理解しているのであって「If so powerful you are, why leave?」を理解しているわけではない。

こんな状況なのに、台詞に基づく演技の良し悪しがわかるわけがない。そりゃあ、怒ってるはずなのに笑いが溢れている、とかならわかるだろう。けれども「平田先生のです」のような台詞をどんな調子で、つまり、呆然としているのか、認めたくないように絞り出しているか、といった違いが、わかるだろうか?僕には、わからない。日本語なら、普段よく聞いて、耳慣れていて、あらゆる感情の状態と共に日本語をやりしているから、そういう微妙な機微に気づく。だから、洋画の俳優の日本語以外の演技の良し悪しがわかる人は純粋にすごいな、と思う。

でも、本当にそうか?みんなそんなに英語がわかるのなら、なぜ英語ネイティブ音声字幕も吹き替えもないという上映形態はみないのだろう。日本語翻訳なんてない方が作る側にとって安上がりでいいじゃないか。だから、僕はこう思っている。「日本民族やそれに近い人種以外が日本語以外を喋ると、とたんに演技に対する要求はアニメにおける笑い声に対するもののように甘くなる」。

この仮定は、日本人は普段見慣れない外国の景色に外国人が並ぶとそれだけで異世界感を感じるので、細かく気を配らなくていいのだろう、という仮定につながる。また、日本人は「西洋人が出てくる視覚的優位性がある映画」と「自分たちの日常の風景の延長線上で動く映画」を同列に比較して大量に観るため邦画に対する演技の要求が高いのだろう、という仮定につなげることができる。そしてそれらは多分あっている筈だ。

もちろん、演技は台詞を言うことだけじゃない。表情や身振り手振りも演技の一つだ。けれども、例えば日本人とアメリカ人ではまったく非言語対話の傾向が違う。それを同列に語ることに無理があるから、無視して良いだろう。

以前Twitterにも書いたが、僕は呪怨とthe grudgeの同じシーン(そういうものがあるか知らないが)を並べて、日米の演技力の差を解説したところなど見たことがない。今まで書いてきたように、演技には演者だけでなく脚本や演出の要素が関わるのに、印象論だけで「日本の俳優」という藁人形の演技を叩く人間が後を絶たない。呪怨はどちらも清水崇監督だから、かなり純粋に演技力の良し悪しを問うことができるはずだ。だから、僕は「日本の俳優の演技はダメ」論は仮に正しかったとしても、それを言っている人の言葉には納得することができないでいる。

僕はシン・ゴジラのときも石原氏の英語の演技がおかしいと言われても、理解できなかった。僕にとっては、石原氏は大変よく「英語ネイティブが日本語を喋る時」「アメリカの女優のはっきりした演技」を再現していると評価できたし、おかしいおかしいという人も、具体的に、技術的に、そのおかしさを言い表さなかったからだ。例えば、僕が最初に瀧の中に入った三葉の演技に対する違和感を説明するように、言葉で理解できるように説明すべきじゃないか。もちろん「ネイティブスピーカからならわかる」という話もあったが、ネイティブスピーカではないので知ったことではない。グローバル云々のたまうのなら、まずはジャンジラについての意見を聞こーじゃないか(CV高橋李依)。

平成ガメラ三部作における演技の飛び道具

さて、もう気付いた方もいるかもしれないが、平成ガメラ三部作は、怪獣映画最大の難所「怪獣が出て来る嘘っぱちに現実感を持たせる」という点において、今となってはもう使えないだろう飛び道具を使っている。

本物のアナウンサを使ったニュースシーンを挿入したのである。

当時はインターネットが普及していなかったから皆がテレビを見ていた。テレビを見ず、家ではほぼNHKからチャンネルが変わることのなかった僕でさえ、おじいちゃんちで見ていた僅かな日テレの映像で見て覚えているアナウンサたちが登場して、怪獣が来た状況を演じ始めたのである。96年の夏、サッカーの練習に行った時「とよ、昨日のガメラ、見たか?すごかったよな!本物のアナウンサが出てて、おもしろかった!」と、基本怪獣映画になんか興味のないチームメイトに言われたことを覚えている(なお、放送自体を知らなかったので、僕は見ていない)。

このアナウンサたちの起用には「洋画の外国人俳優」や「アニメキャラ」と同じぐらい効果がある。登場するだけで「報道の現実感」を表すことができる。これ以上の方法はない。そして、演技は普段の行動をそのままやっているので、違和感もへったくれもない。もし危険があるとすればそれは台詞の内容だが、当然協力があるし、そもそも脚本は伊藤氏である。

日本の役者の良さを最大限に引き出す

またシンゴジの話に戻るが、シン・ゴジラが公開された時「日本人の役者は演技が下手だから早口で喋らせて演技させないようにした」といった意見を何度か観た。僕は違うと思う。日本人の役者は演技が下手なわけではない。庵野総監督は「ハリウッド映画に出演する、視覚的優位性を持つ非日本民族系俳優の非日本語演技に負けないように、あらゆる手を打って彼らの良さをより強く引き出した」というのが事実だと考えている。庵野総監督は映像の演出力にとてつもない能力を持っている。それを用い、さらに前述した強力な、日本民族の役者が実行すると途端に厳しい目で見られる明確に感情的な演技要求を可能な限り排除した脚本を投下して、結果を掴み取ったのだ。

ではその演技を補強する「視覚的な強さ」とは何か。それは、美術や衣装などが作り出す背景である。僕らが海外旅行に行った時「映画の中みたいだ」と思うことがあるだろう。そこでカメラを回して友達の姿を撮るだけで、映画のような時間が流れ出してしまったことがある人もいるだろう。非日常の世界に現実感と納得感を与える視覚的な衝撃は「外国人の顔」と同様に強く機能する。ひどい言い方をすれば、貸会議室に量販店のスーツ姿の人間が並んでいても、どこかの中小企業の会議にしか見えないだろう。あの素晴らしい演技を支えて、映画に現実感を与えているのは、恐ろしくよく作り込ませたセットなのだ。面構えが飛び道具にならないのなら、他を全力で固めるしかないのだ。

そして、俳優の「技」ははっきり画面に残っている。基本的なところで言えば、あれだけ歯切れよく早口で発音しているところがもうすでに「技」だし、同じシーンを何度も撮影してそれを違和感なくつなげるものにしていること、つまり再現性があるというところがすさまじい技である。これは実際やった人でも気付かないかもしれないが、ああいうシビアな演技になればなるほど、別テイクのカットは繋がらなくなるのだ。そして、感情が乗っていないわけでもない。早口の上に、どれだけこの事態に真剣に立ち向かっているかを見事に演じ載せていることは、見ればわかる。

思えば、平成ガメラ三部作も、背景の力を多分に借りていた。ニュースキャスターたちがその破壊力を最大限発揮したスタジオセットが、彼らの飛び道具としての強さを高めたことに異論はないだろう。福岡ドームに閉じ込める作戦は怪獣と戦うことを現実に繋いでくれたし、地下鉄構内の持つ不気味さがレギオンの恐怖を倍増させ、ファミレスの前を戦車が行くことが決戦の印象をより強くした。奈良の祠の持つ雰囲気があの妖艶な時間をより色濃く描き出したし、今も多くの特撮怪獣映画ファンは京都駅ビルを見て心を踊らせる。

もちろん、ザ・マジックアワーの背景がものすごいことは映画のエンドクレジットを見る前にわかる。

おわりに

僕らはつい、演技というと、役者個人の技倆の責任にしがちだ。でも、そうではない。脚本、演出、背景となる美術や衣装、すべてがあって、その演技は描かれる。前も書いたが、宮崎駿監督は「創りたい作品へ、造る人達が、可能な限りの到達点へとにじり寄っていく。その全過程が作品を作るということなのだ(もののけ姫はこうして生まれた。より。句読点は僕による。)」と述べている。同じことだと、僕は思う。

最後に、ちょっと書いておきたいことがある。THE NEXT GENERATION パトレイバーを観たことがあるだろうか。僕はこの作品を「自主映画野郎は観るべき」と思っている。なぜなら、この作品には、映画を作る上で参考になることがたくさんあるからだ。予算や、編集や、さまざまなことの大切さが、わかる。演技と背景の関係も、この作品は見事に見せてくれる。おすすめは、エピソード1とGRAY GHOST(首都決戦ディレクターズ・カット版)だ。3つの出動シークエンス、全力出撃603のあたりと、「エンジンスタート!」、そしてゲートブリッジの袂におけるデッキアップが、教えてくれるはずだ。

ダンケルクにはつらさの表現が足りなかった

ダンケルクダークナイトそして鋼の錬金術師のネタバレがあるので、未見の方は読まないでほしい。

ダンケルクはつらい映画だ。とにかくつらい。そしてそのつらい先にふとつらさが抜ける一瞬、ハンス・ジマーの緊張を強いる音楽が途切れた時、なんて無駄なことなんだという喪失感があって、その喪失感が下手な反戦描写よりつらい。

が、ダンケルクにはこのつらさの描写の点で僕の中で高い評価を得られなかった。ダンケルクには、文脈によるつらさがなかったのだ。

僕がクリストファー・ノーランの監督作を初めて見たのはダークナイトだ。僕がダークナイトに感じたのは文脈によるつらさの描写だ。

ダークナイトを思い返してみよう。まず強盗団が銀行強盗を始める。そしてこの強盗団の中で一番強欲で無慈悲な奴がジョーカーだ。これに対して、バットマンは偽バットマンを叩き、優秀そうな刑事と検事が仲間にいることがわかる。難しい戦いになるだろうが、バットマンは勝つだろう。

だが、ジョーカーはここから強烈な攻めを見せていく。まずバットマンをおびき出すためだけに人を殺めていく。人質を取るとかではないのだ。本当に殺すのである。そして殺しづらい人間を殺していく。さらにきっとバットマンと共同戦線を張ってくれるだろうと思えたゴードンをいとも簡単に殺害してみせる。

シン・ゴジラのすごさを岡田斗司夫が語った時、それを「強さを描くにはドラゴンボールを見習えばいい。つまり強いやつを描く。そしてそれより強いやつを描くんだ。シン・ゴジラ自衛隊がものすごく強い。その強さを表すためにこれからものすごい力が解放されるぞ!というのがわかるよう、何重にも政治のレベルから機銃を撃つ安全装置の段階まで丁寧にその力にかかるロックを描き、さらに全弾が命中する。それでも死なないからゴジラは強いというのがわかるんだ」と説明していたが、同じことをダークナイトはやっている。バットマンやゴードン、そしてデントの強さ、巨悪に屈せず身の危険を顧みない勇気をしっかり描き、そこに対して、はるかに上回る策略と暴力でジョーカーが襲いかかるから、ジョーカーの強さがわかるわけだ。だからこそ、ゴードンを失った時に、僕は「つらい」と思ったのだ。これが「文脈によるつらさ」だ。

これは鋼の錬金術師ロイ・マスタングがマリア・ロスを殺害した時も同様だ。そこに至るまでの経緯があるからつらくなる。いきなりマリア・ロスが殺されても何のダメージも受けなかっただろう。なんでもない人物をただいきなり殺されてもつらくならないぐらい、僕は創作物に慣れきっている。現実の世界と空想の世界は別物だからだ。いきなり空想の世界に自分を現実と同じように合わせられたら例えばファンタジィも楽しめるのだろうが、僕はそうではない。

僕がダンケルクで感じることのできることのできたつらさは、ひどい言い方をすれば一人で冷静に見ていれば全く笑えないコメディなのに、深夜テンションのところで周りが笑っていてさらに脇の下をくすぐられているから出た笑いのようなものだった。

画面がデカイ、音がすごい、不快感が溢れる音楽が流れる、そしてカメラが安定ので酔う。そういうものをあわせて「つらい体験」になったのだが、それはそういうものだ。

劇映画において明示的な、文脈に基づく表現を求めている僕には、前作インターステラーに続いて合わなかった。が、決して悪い映画ではない。人によってはタダすごいカメラを使って高画質で、それから特撮しているだけの映画ではないか、と思うかもしれないが、それが並んでいるだけでも素晴らしいというものだ。

念のため書いておくが、感想である。良い、悪い、正しい、間違いの議論はしていない。

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?:感想(約3000字:未閲覧者の閲覧はお勧めできない)

夏は残酷なものである。僕らはつい、7月あたりから夏がはじまり、8月にその最盛期を迎えると思っている。けれども、実際は6月の終わりに夏はその頂点を極めており、僕らはその名残を追い続けるしかない。その、純粋無垢な気持ちの危うさを丹念に描いた、割れたガラスの輝きのような映画である。

YouTubeなどでPVをみて、ヒロインが気に入ったので鑑賞しようと思っていた。房総が舞台というのも気になっていた。いつ観に行こうか迷っていたのだが、金曜日の帰り道、どうにも暗い気持ちが剥がれないので空席を検索したら、ど真ん中に一席空いていたのでポイントで見てきた。

なかなか良い出来で、なるほどそう来たか、と感動するようなシーンはなかったけれど、とても感情移入できて優しい気持ちになれる良い作品だった。例えば、ひるね姫と比較した時にアニメとしての楽しみは落ちるし、お話の出来に驚くこともない。けれども、感情や感覚の面で、この域に達した作品はあまりないと思える。

気になっている人もいるだろうから、先に書いておくが、この評で演技について書くつもりはない。第一に、最近、映画を肯定したり否定するために、客観的な評価が難しく印象論で断定可能で反論し難い、演技という評価軸を乱用する人間が散見され辟易しているからだ。第二に、演技については今じっくり考えているところなので、またの機会にしたい。

いつものことだが、一度しか見ていないので、記憶に欠落や間違いがあるだろうし、コミティアの行き帰りの電車の中で書いた。ほとんど推敲していない。ご了承願いたい。

まずはこの映画が何を描いたものなのか書こう。わざわざ書く必要もないと思うが、この映画の重要なシーンは病院で診察を受けるシーンだ。

祐介の父がゴルフの練習をしているが、その球は何度繰り返しても、本を見てやり直しても入らない。つまり「もしも」を何度やったところで行き着く先にあるのは失敗、即ち失恋なのである。それがすべてだ。この映画のまだ序盤とも言えるシーンで結末は暗示されている。

だから、見るべきところは他にある。 それについて、少しずつ細部について書きながら書いていきたい。

次にヒロインについて書こう。この映画はヒロインに頼った映画だからだ。

映画の根幹になるために、及川なずなは重武装で登場する。映画における重武装とは即ち「勝ったことがある」ということだ。

メインウェポンたる容姿は戦場ヶ原ひたぎである。そしてサイドアームである衣装にニーソ制服、白ワンピース、スクール水着そして浴衣と確実にポイントを狩りにいく選択を行なっている。その潔さは好むところだ。

そしてなずなはその登場するすべてのカットにおいていかに魅力的に見せるかを考えられて現れる。海岸に立つ立ち姿が「秒速5センチメートル」の雪原に立つ誰でもない誰か、つまり作中における最強キャラクタのそれであるのを始め、あらゆる場面において構図を確固たるものにする最後の部品として配置され、その重要度を印象付ける。

少年達に比べ、明らかに長身である意味異質なものとして描かれていることも大切だ。価値とはある意味希少さだからだ。その価値を描くために必要なことを全てやっている。

そして最も大切なのが、一枚岩ではない、ということだ。つまり、なずなという女の子は「誰が好きで性格はこうで、覆い隠しているが本当はこうである」といった、アニメキャラクタ的なはっきりとした正体が描かれないということである。なぜこれが大切かというと、それはこれが片想いと失恋の作品だからである。これが両思いであったり、そうなる作品であるならはっきりさせる価値もあるが、これはそうではない。

「女心がわからない」という言い回しがあるが、この物語においてなずなはわからなくなることで「できるだけ多くの人の片想いだった人」になるための足掛かりを作っている。はっきりしすぎたキャラクタは「こいつはあいつじゃないよね」と断絶を生み出してしまう。様々な断片を見せることは、キャラクタの現実感を高めると同時に、存在の余地を生み出す。それは同時に、作品の主線である「もしも」の可能性を喪失させる。

そもそもは「もしも」自分が勝っていたら、と始まっているのだ。ヒロインが固定されていては話が始まる余地がない。

この映画はなずなに映画に割ける全資源のうちのほとんどを割り振っている。豪華さを担保する衣装から、考えの余地まで。だから、残りの部分は可能な限り簡略化されている。これで他を複雑にすると、映画は容量超過になり、見るのが困難になってくるからだ。根幹に全力を尽くすという態度もまたこの映画の良さである。

以上の二点でほぼこの映画は終わりである。重武装のヒロインを相手に描かれる、失恋の結末を持った「もしも」の映画だ。

中盤から典道は何度も「もしも」を繰り返し、失敗をキャンセルして物語を先に進めようとする。

あの時レースに勝っていたら、あの時パンチを躱していたら、あの時見つからなければ……。

この「もしも」は奇跡でもなんでもなく、失恋の後悔が生み出す妄想に過ぎない。そして、にも関わらず、彼は中学生で、彼女をあまりに尊く見過ぎている。だから、一線を超えるどころかそこにまでたどり着くことすら叶わない。彼女は自分に好きとは言ってくれないだろうと諦めているし、彼女の働き方も線の手前側にあり、彼女のその尊さだけで稼げる仕事としてアイドルを思いつく。もちろん、彼にとって彼女は偶像だからでもあるが。

彼女を追い詰める状況が僕と彼女の距離を阻めてくれたら、そういう想いでしかし確実な終わりの時へと妄想は紡がれていく。でも、だからこそ、儚く美しい。僕は二人の逃避行とそのときに2人の心が通う様子を見るとき、天体のメソッドのエンディングアニメーションで、ノエルが満面の笑みを浮かべてVサインをする様を思い出していた。

典道は彼女と東京に行くことができない。なぜなら、列車は館山もしくは銚子に向かっているだけでなく(千葉県と考えたとき日の方向からすれば内房線で館山方面、海の位置関係からすれば銚子方面である)、トランクを喪失したなずなと祭りに行くつもりの典道にはおそらく路銀がほぼないからだ。どうしてもやってくる改札を突破することができない。たとえ誤乗扱いにより改札内で銚子や館山での方向転換を成功させたとしても、東京駅等での自動改札を犯罪によって突破しない限り二人に東京に逃げる未来はないのだ。尊い彼女の尊さを守らなければならないのだから、彼女に罪を与えるその選択肢はありえない。だから電車は母の待つ次の駅を通過せずポイントを切り替え、ここではないどこか二人を受け入れてくれる理想の国へと向かう。

ではどうやってこの終わらせたくない妄想に結末を持ち込むのか。残された課題はそれだけである。

なにか外的要因で終わることになるのなら、それは彼女の手を引く必要がなかったということに等しい。彼女にフラれる終わりはもっての外、自分が見捨てるわけにもいかない。二人がわかりあえる結末が必要だ。それは次への期待のみであり、そのつらい終わりをせめて美しくするために、花火は空に輝く。

僕は、映画を楽しむために、感情移入はいらないと思っている。例えば、僕は実写映画版進撃の巨人を前後編を楽しみ、高く評価しているが、まったく登場人物に感情移入などしていない。

けれども、本作については、感情移入だけで映画を見切ったと言っても過言ではない。自分が失った恋や(正確にはほぼすべての恋を失っている)、その後の「もしも」を想っていた無駄で無意味で無価値な時間と重ねて見ていた。だからその破滅へと向かって行く小さな旅路がより尊く感じられたのは事実だろう。そして救いを感じられたのも確かだ。

「もしも」によって時間を巻き戻せたら幸せになれる、という話はあまりに絶望的である。僕らは何か失敗して失う度にありえない現実になる「もしも」の不在を呪わなくてはならないからだ。そこには、夢も希望もない。だから、好きではない。少なくとも夏休みに映画館で見たい映画ではない。けれども、本作はそうではない。ここには「もしも」を思う愚かさを優しく受け止めてくれる広さがある。

ただ、ひとつだけ、この映画について「もしも」と思っていることがある。

僕はほとんど映画の内容を知らず、上映開始に辿り着いた。だから、この先の彼の「妄想」がどう紡がれるのか、知らずにその次を待てた。彼女が「瑠璃色の地球」を歌い出したときには、中学生だったころを思う懐かしさを抱え、優しい気持ちでその丁寧な歌い方を眺めることができた。

だが、どうやらこのシーン、すでにテレビなどで公開されていた、一部の人間には既知のシーンだったようなのだ。「もしも」僕がそれを知っていて、あのシーンに辿り着いたとしたら、僕はあそこまで映画に浸れただろうか。そう、思うのだ。

正しさを傷つけたい - 東京発新宿行片道切符2泊3日

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どこかに行ったという話を書くと、思い出話から始まってしまうことが多い。けれども、他人の物語の上に思い出話が載っている、というのはなかなかこってりした感触がある。だから、したことから書きはじめよう。

東京駅から旅に出るときはいつも祭に寄るが、今日はシンプルにひと口牛タン麦ご飯を選んだ。朝食だが、やや少なめである。しかしこの後のことを考えるとこれぐらいがよい。

入線まで暫くあったので、愛機D500に70-200を装着し、E2とこれから乗る新幹線電車、西日本旅客鉄道W7系電車第3編成を仕留めた。曇り空の湿った空気が残せて、なかなかの出来栄えである。

指定された座席に着座し、脚を伸ばす。しばらくすると、静かに車体が滑り出した。北陸ロマンのメロディが流れる。まだ子どものままだと認めてほしいから、日本海を求めているのではないのだと記しておく。

大宮を抜けると、電車は加速する。すると、揺れ始める。ああ、早くなったな、とわかるぐらいだ。あくまで印象だが、東北新幹線より揺れている感じがある。おもしろいものだ。

おもむろにひと口牛タン麦ご飯を広げ、牛タンのほのかな香りを楽しみながら味わった。気づくと上越新幹線が右に分かれていく。北陸新幹線は、佐久平から東京までE2だったころに乗って以来である。

それが最初の北陸新幹線で、その前はしなの鉄道軽井沢まで南下し、そこからバスで横川まで来た。そして青春18きっぷで帰ったのだ。さらにその前は97年の早春にあさまで往復した一度きりの碓氷峠だ。

久々の道にも関わらず天候はよろしくないが、太陽を雲が厚く覆い隠してくれると、濃い灰色の空から滲み出す光が、山や田畑の緑を色濃く見せてくれるので悪くはない。もちろん、山を取り巻くように流れていく雲も好きだ。

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車販が回って来たので、シンカンセンスゴイカタイアイスの加賀さつまいも味をお願いする。相変わらずの硬さは加賀の名にふさわしく、渡された直後はまさに鎧袖一触、プラスティックのスプーンをへし折る勢いである。とはいえアイスだから、しばらく手の中で温めれば柔らかくなる。心配いらない。口に含むと大変上品なさつまいもの味がしてよろしい。

北陸新幹線はトンネルばかりで何もみえない」ときいていたのでかなり身構えていたのだが、思いの外いろいろ見える。トンネルの知識があれば、もっといろいろ見えるだろうが、たまに防音壁の間から見える長野や富山、石川の大地は素敵なものだった。

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きっと「景色が見える」ということに「妙高山が見える」とか「黒部ダムが見える」みたいな期待をしているのだろう。けれども、それ以外の手段では辿り着くことのできない位置に登り、時速270kmで流れていく日本の一面を目に入れること、そこに東京から富山や金沢に、ふと思い立ったら飛び乗って、脚を伸ばしてくつろいで、途中で乗り換えたり座席を回転させることなくたどり着きたいという人々の当たり前の夢が叶っていることを感じられることに価値がある。新幹線を楽しむとは、そういうことなのだ。そういう、何気ない人間らしさや幸せを摘み取っていかなければ、こんな天気の旅行など、ただの苦行である。

大宮の次は長野、富山、そして金沢と悪い冗談みたいな速度で北陸新幹線かがやき号は終着駅へと辿り着いた。

すぐに降車して、改札で無効印を押してもらい、新幹線特急券を持って外に出る。そして自動券売機で北陸トライアングルルートきっぷを発券すると、今度は在来線の改札を抜けて4番線ホームを探した。5、6番線のホームの先に4番線ホームはあり、すでに着物姿の係員やJR西日本の社員らしき人々と乗客が集まっている。その奥に侍っているのが、キハ48系を改造した観光列車特急花嫁のれん号である。

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念のために書いておくが、花嫁のれんというのはこの地方の風習で嫁入りする娘にその幸せを願いもたせた暖簾のことであり、この列車においては乗客の幸せを願って名付けられたものだと言う。だから、僕が彼女いない歴=年齢のくだらないキモヲタであっても金さえ払えば乗って構わないのである。もちろん、岸本麻依のような黒髪の乙女が一緒ならいいのだが、残念ながらそれは夢である。

赤を基調とした車体は豪華さを演出しており、運転士と車掌の他に着物姿の女性客室乗務員3名、それから制服姿のJR西日本の社員数名が乗り、概ね満席という、器に見合う充実度で花嫁のれん1号は曇り空の能登半島へと走り出した。

すぐにテーブルには紙製のシートが敷かれ、客室乗務員に加賀棒茶かコーヒーかと訊かれたので加賀棒茶と答えた。望み通りの加賀棒茶とスイーツが到着し僕はそれを味わう。

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しかし悲しいかな、種車がキハ48なので豪華を謳うには若干揺れが激しい。まあ、そんなことをいったらダイナープレヤデスでの食事など発車時の揺れが危険なレベルだったが。お値段は全く豪華ではないし、むしろお値打ちで普通におすすめできる列車である。特に鉄道が好きではない人を誘うのにも向いているだろう。そもそも、揺れるなどと言っている人間は他にいない。

スイーツを食べ終えると焼き菓子の箱が届いたが、それはお土産として持ち帰ることにし、しばらく車内を見学したりして楽しんだ。そのあたりで、やっと客室乗務員の和服が巴姐さんのそれとかなり似ていることに気づいた。能登半島を走っているが、別に能登さんの声で喋ってくれるわけではない。もしそうだったら、日本中の兵器研究家が集まるだろう。

窓の外にはかなり青鷺がいて、このあたりでは空ほど珍しいものではないのだな、と思う。サイダーをあげたい。一方、河川がかなり増水していて不穏な雰囲気である。

終点の和倉温泉までは行かず、七尾で下車する。下車の際に乗っていた社員氏にきくと、具体的な数字は言えないが、観光列車は採算目的でやっているわけではないという。

列車を見送って、隣を見ると喜翆荘の面々が侍っている。まあ後でまた、と思い、かなり雨足が強いのだが意を決して駅を出て町へと歩き出す。

歩いて10分強で目的の店に辿り着いた。すぐに女性の方が新聞紙を敷いた目につかないところに荷物を置かせてくれる。ありがたいことである。

その寿司屋には二人の板前さんがいて、この後も食べることが想定できたから、3000円のおまかせ握り10貫セットを頼んだ。今は亡き、さして偉大ではない父が「本当に旨い寿司屋はネタもシャリも小さいんだ」と言っていたが、ホラ吹きについては伯爵並みの地位を築いていた男なので定かではない。ただ、ネタもシャリも小さめのその店の寿司は実に美味く、多くの握りに味がついていたがその味も絶妙だった。特に貝を好む僕だが、歯切れよくしかし力強い歯応えの貝に満足できた。他に何か食べたいものはございますかと訊かれたので、しめ鯖とコハダを頼んだが、このコハダを最後にこの店を出るべきだ、と思うほど大変よいコハダであった。そして実際に店を出た。

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また雨の中駅に戻る。戻ると、のと鉄道の車両が侍っていたので飛び乗った。人が少なければ写真など撮るのだが、期末試験なのか昼過ぎにも関わらずたくさんの制服姿の少年少女が乗車しているので大人しく座る。しばらくすると列車は走り出した。

流れて行く景色のなかに、岬にある社を守っているのだろう、小さな森を見つける。曇り空の下佇む鷺たちを眺める。

少しずつ少年少女が下車していき、人の少なくなった車内を歩いて車端部に行くと、板前見習いの鶴来民子嬢のスタンプがあったので、持ってきているメモ帳に押す。インクが滲んでしまって上手く押せない。

終点穴水の駅に着いたのに、隣のボックスの男性が目を覚まさないので、運転士にその旨伝えて下車した。次の列車で戻ることにして、土産物屋に入ると、素敵な写真集を見つけたので買うことをする。その土地の印刷物で欲しいものがあるなら買うべきだ。次にいつ買えるかわからないのだから。もちろん、二度と手に入らない可能性もある。ついでに鉄道むすめスタンプもあったので買う。西岸まはる嬢はのと鉄道のアテンダントだそうで、ワインレッドの髪である。愛すべき喜翆荘の面々のBトレインショーティに手を伸ばすと大変なことになるのでこれは中止。

買ったスタンプは大きいものが駅に配置されていたのでこれもメモ帳に押して、入線しているのと鉄道の観光列車、のと里山里海号に乗車した。平日の乗車整理券はわずか300円である。なお、僕が乗った列車は専用編成で運転されるのではなく、一般編成に専用車両を連結して運行される。当然、一般車両に乗れば乗車整理券は不要である。

走り出すと西岸嬢と同じ制服を着た客室乗務員の女性が、観光案内をしてくれる。これまた洒落た作りの車内だが、水戸岡鋭治の仕事かとよく訊かれるらしい。だが、ドーンデザイン研究所は関わっていない。そして、この気動車NT300型は新車である。

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先ほど、社が中にあるだろうと想像していた能登鹿島の森には本当に社が中にあると解説される。ついでにマロこと米林宏昌監督はこの石川の出身であると説明しようとする客室乗務員氏であったが、名前が出てこないのをなんとか誤魔化そうとしている。がんばれがんばれ、と思っていたらやっと出た。

のと鉄道七尾線の残されている区間は僅か30キロメートル強であり、運転時間にして50分ほどしかない。だから、観光列車の客室乗務員は喋り通しである。せっかく案内してくださっているのに聞かないわけにもいかないから聞いているが(なにせ乗客が四人しかいないのである)、これがもし蛸島まで路線が存続していたら……と思ってしまう。

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七尾まで戻ってきたが、特に予定もないので、同じ列車の一般車に乗り込んで和倉温泉まで行ってみるが、天候が悪く、散歩する気にもならない。ので、帰れる時間になるまでのんびりと写真を整理したりうたた寝して過ごした。

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再度七尾に向かい、そこからJR西日本の交直流電車413系に乗る。初めての乗車だ。ボックス占有は叶わないほど、それなりの乗車率である。能登半島を南下する車窓からは、時折雲の隙間を抜けて落ちてくる光が見える。それが窓ガラスに残された水滴を輝かせていてとても美しい。明日こそ晴れて欲しいと思うが、予想降水確率は堂々の100%である。

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行きはキハ48なので気がつかなかったが、この413系電車には交直流区界で照明が非常灯のみになるという大変風情あるできごとがある。久しぶりの体験だったので大変楽しんだ。

金沢の駅に辿り着くと既に20時前。ホテルにチェックインして、近くの居酒屋で夕食とした。

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次の日は朝から酷い雨で、気になって確認すると本日利用予定の城端線は早朝運休していたらしい。今は再開しているとのことなので駅へと向かうが、既に七尾線は全線見合わせの上、花嫁のれん号も運休ーーウヤである。昨日乗っておいてよかった、と思いながらIRいしかわ鉄道線を走るあいの風とやま鉄道所属の413系電車に乗る。国鉄型車両らしいモータとクーラの音が、曇り空の朝に大変いい雰囲気をくれる。倶利伽羅駅で線路もあいの風とやま鉄道の運転区間となるが、特に変わることはない。石動駅を超えて城端線の起点駅、高岡駅に到着した。

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まず入線してきたタラコ色もひどく色褪せたキハ40気動車に乗車し、城端線で最も新しい駅、隣の新高岡駅に行く。

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新高岡駅に着くと、雨は本当に激しくなっていた。棒線の途中に増設されたホームの屋根と北陸新幹線の駅舎の庇との間にどうしても避けようのない妙な隙間があり、数歩だけ雨に降られながら真新しい新高岡駅の駅舎へと入った。自動券売機で入場券を購入してホームへ。進入してきたはくたか号を撮影し、出場する。この駅は撮影でも有名なのだが、どうやらかなり限定された条件でないと良い写真が撮れないようだ。

その後、また城端線のホームに戻り、しばらくすると雨霧の中に橙色の前照灯が光る。あの夢の豪華寝台特急を思わせる美しい緑色の車体が白いベールの中から徐々に姿を露わにする。誇らしげにヘッドマークを掲げたキハ40系2000番台は快速Belles Montagnes et mer号、通称、べるもんたである。車名は美しい山と海という意味だそうだが、オーナがカラーひよこの養殖やベランダで飼える牛などといった怪しい事業に手を出していたレストランの名前の意味が「良き友」であったことを思い起こすと、フランス語では良きと美しい、は同じなのかもしれない、などと考える。

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アイドリング音を聞きながら中に入り、木と緑でまとめられた内装を堪能する。天井にある扇風機にも専用のロゴがある。かつては国鉄と書かれていて、それがJR西日本になり、また変わったのだろうと思うと大変感慨深い。側面に取り付けられた赤と白の扇風機スイッチもそのままである。クラシカルモダンである。なるほどいい具合だと思いながら、予約していた座席に腰を落ち着ける。僕が座った窓際の座席は木製か木のシートを貼った金属製のようだが、座布団がついている。この座布団はあとから追加されたそうだ。よし、では列車が動くのを待とう、と思った時、異変が起きた。

運転抑止である。大雨の為しばらくこの新高岡駅で停車するとのことである。車掌氏が来てこの後どうするのかときくので、城端まで行き午後のべるもんたで戻る旨伝える。13時ごろ運転再開の見込みとのことだが、まだ10時前である。

乗車しているボランティアの女性はかなり気さくな二人組でカラオケもないけどまあしばらく喋るわ、3時間も喋れるかしら、などと付近のイオンなどの案内を始める。何しろ車はびくともしないし、周りに何もないから新幹線の駅がポンとできたのであるから、イオンぐらいしか名所がない。また、このキハ40系は2000番台ですから、などと説明する。妙に詳しい。

この列車には寿司職人が乗っており、可愛らしい給仕の女性まで乗っている。とにかくメンツのキャラが濃かったことが功を奏した。飽きなかったのである。職人、給仕の女の子、ボランティアのおばちゃん、ボランティアのおばあちゃん、指導に居合わせた熟練運転士、青年車掌に勤続十数年の中堅運転士という見事なキャラ配置である。もちろん、これ以外に他の乗客も数名いる。

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さて、この寿司はもちろん値段のことがあるから昨日の寿司のような絶品ではないが、当然その場で職人が握るわけであるから駅弁よりは丁寧な味で、雰囲気に金を払っているわけでもあるから、そう考えたらお安い2000円である。しかしもともとさっさと食うための食品だから出て来た寿司を平らげるのにそれほど時間はかからない。その後はとにかく雑談である。

とりあえず車掌氏のところに行くと駅の両側にある踏切が車両の位置を認識できず、ずっと閉鎖しているので渋滞になってしまったと言う。見ると確かに車は連なり人も傘をさして愚直に待っている。日本の社会秩序の高さが窺い知れるが、ひどい話である。もうちょっと車を前に出したらセンサが認識しなくなるのではないか、という案も出たが、もちろん勝手な真似はできない。乗務員諸氏もとりあえず観ていることしかできないのである。

運転士氏によればこのべるもんた号は海の方につながる氷見線を走る日曜運転のべるもんた氷見の方が人気があり、予約が取りづらいという。僕の中での氷見のイメージは数年前に行った、富山の狂犬ーー最近木の上の逆ナン女派が幅を利かせているが、僕は誓って狂犬派であるーーが走って転んだ場所、氷見港に支配されているが、途中の海岸の景色の良いところで停車したりといった仕掛けもあって人気だという。対してこのべるもんた城端は不人気で、乗客より乗務員の方が多いこともザラだそうだ。チュパカブラ王国国王の木春由乃は一体何をしているのか。間野山観光協会に連絡を入れたくなる。とりもち大臣は呑気に「だんないよ」などと言っているのだろうか。まったく大事だというのに。

また、花嫁のれんも人気で予約が取れないということだったが、そもそも僕はべるもんたを楽しみにしていた。

中堅運転士氏が車に帰って来て、車掌氏からの電話を求めていると駅の放送で言っているぞと言うので、車掌氏、業務用携帯電話で電話をかける。どうやら運転指令と繋がっているらしく、しばらくやりとりを待つ。

すると車掌氏、取り敢えず砺波で折り返すことになるという。棒線なので物理的にはどうとでもなるのだが、信号つまり保安上の問題で列車は好き勝手に進行方向を変えられない。当然時刻表の再設定も必要になるので、砺波までは進めたい。ところがそれが客扱いを行う営業運転なのか回送運転なのか要領を得ないではないかと中堅運転士氏が問いただすと、おそらく指令はすでに皆降りたものと思っている、だから話がおかしい、と車掌氏が言う。

運転抑止の指令というと、やはり思い起こすのは両毛線の駅途中で抑止をかけて雪が降り続ける北関東の「荒野」に電車を放置した指令である。明里がバカみたいに健気な女の子でなければほうじ茶と弁当抱えて岩舟駅を後にし家に帰っていたに違いない。貴樹ざまあ、であるが明里がかわいそうだ。しかし現実の運転指令は少しまともだ、何しろ列車は新高岡に停車中である、と思ったが、なんと驚くべきことに抑止がかかったのは新高岡に来る前だという。こんなところで停めてどうすると新高岡まで走ったようだ。

業を煮やした中堅運転士氏は俺が話す、と業務用携帯電話を奪い取り自らダイヤルして話し始める。

「何言ってるんですか。観光列車ですよ。お客さんみんなこれに乗りたいから来てるんじゃないですか」

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電話後、2名の運転士氏と車掌氏が相談し始めたので、いったんボランティア氏たちとの会話に戻る。するとボランティア氏、南京玉すだれのような楽器を持ち出し、鳴らしてみせる。これはおもしろいと他の乗客氏も鳴らし始め、ボランティア氏が日本最古の民謡こきりこ節を唄い出したのでそれに合わせて手を叩き体を揺らす。車掌氏も戻って来てまんざらでもない様子で眺めている。

数十メートル先の視界も怪しい瀑布の如き豪雨の中、棒線の駅に停車したキハ40の中で乗客は酒を呷り、楽器を鳴らして唄いながら体を揺らしているのである。完全に居酒屋である。

さてひとしきり騒ぐと車掌氏が新幹線も長野の方では止まっていて、この列車も本当に運転再開が見えなくなって来たと言う。このままウヤの可能性もあるという。が、することもないので待つことにする。ボランティア氏は北陸新幹線が一番かっこいいと言い、車掌氏はそれは地元贔屓が入ってませんかと笑いながら言う。

ふと気づいてJR西日本のホームページをみると、城端線は未だに一部列車に遅延との表示。この列車を出迎え、手を振るために駆り出されたボランティアの方達はまさか待ちぼうけを食っていないだろうかと心配になる。

車掌氏によると、件の踏切に人を向かわせて遮断棒を抜いたと言うので、表に出て見てみるとなるほど、二人の係員が人参を振り回して車を通している。そして、その手前にあるホームの端の看板の絵はなんと指導で同乗していた熟練運転士氏の作とのことである。僕より上手い。

観光ボランティアの女性の一人は、今日が初めての乗車だがわずか一駅でこの有様であると嘆く。熟練運転士氏はこのままだとジャガイモが腐ってしまうと心配している。とにかく酷い雨である。

中堅運転士氏がどこから来たのかと言うので行程を話し、他にも鉄道旅行の予定を立てているところだ、などと話す。すると中堅運転士氏は俄然嬉しそうになり、乗るのも楽しいけど、計画を立てている時も楽しいですよね、と乗ってくる。自分が乗るのが好きだから、人が乗るときに無理解で打ち切られるのに我慢がならなかったのだろうな、と思える。そしていつか瑞風に乗りたいという話した。憧れである。夢はまだあるのだ。あの素晴らしい列車に乗りたい。

また、681/683系時代のはくたかのことも話した。681/683系は乗務員室が暑かったという。北陸新幹線の開業後キハ40の免許を取得されたそうだ。こういう話が運転士氏とできる機会は少ないので、大変嬉しい。

それからしばらくして、正式に新高岡駅での運転打ち切りが通知された。仕方なく帰りの分の酒を要求し、日本酒をホタルイカなどをアテにして呑む。割とうまい。ボランティアの人たちは帰れるかわからんと言っていたので、給仕の女の子にも帰れるのか?と聞いたら、わからないですねえと笑っている。つまらないおっさんの扱いに慣れているのである。さすがである。今朝も列車遅延で遅刻したそうだ。

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長居しても悪いので、ひっかける感じで呑んで、必ずまた乗りに来ると約束して降車した。残念だが、大変よい乗務員諸氏のおかげでとても楽しめた。

新高岡駅の有人窓口には列ができていたが、とりあえず帰りのべるもんたを払い戻しした。行きももちろん払い戻せるのだが、これだけ楽しませてもらって申し訳ないので記念も兼ねて保存することにした。なにしろたったの520円である。

北陸トライアングルルートきっぷで北陸新幹線には乗れないので、特定特急券および乗車券を購入して、北陸新幹線で金沢に戻る。金沢の駅では新幹線ホームに続く階段で、制服姿の少女とすれ違った。彼女が新幹線によって快適な通学路を得られたのだと思うととても嬉しくなる。

続いて北陸本線の特急しらさぎ号に乗って福井駅へと出た。乗車した681系電車はデビューからだいぶ経っているが、大変快適な特急型電車である。灯火類を車体の低いところにまとめ、対して乗務員室の窓を高くする顔付きは、285系寝台電車サンライズエクスプレスやJR西日本の旗艦、キハ87系TWILIGHT EXPRESS瑞風と同じである。キハ87系はそういう、伝統を維持したスタイルが大変よい。

列車の滑るような走りに乗って流れゆく景色と変わっていく空模様を眺めていると、あっという間に福井駅へと到着した。車窓からは北陸新幹線の高架が見えた。

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駅改札を出て、いったん外に出ると、北陸新幹線の高架のまさに先端が見える。ここが現時点の北陸新幹線の建築物上の最先端なのだ、と感動し、えちぜん鉄道の改札まで歩く。暗い階段を上ると、えちぜん鉄道のホームである。このえちぜん鉄道福井駅は、現在北陸新幹線用の高架に存在している。

えちぜん鉄道三国芦原線にはゴールデンウィークにわずか一駅だけ乗車したが、今回は始発駅から終着駅まで完乗する。

老若男女問わずなかなかの乗車率で普通電車は出発した。客室乗務員も乗車しており、一般車両と言えどもなかなか素敵な1時間弱の行程である。もちろん観光列車のおもてなしも好きだが、生活の足として人々が利用している様、その土地の人が入れ替わり立ち替わり乗車する様子を見ているのはもっと好きだ。

ゴールデンウィークに乗った時はガラガラだったのでどうなるのかと思ったが結局それなりの人数を乗せて列車は終着駅、三国港駅へと到着した。

前回は無人であった駅には今日は駅員さんがいらしたので、前回買い損ねた鉄道コレクションMC7000型を購入する。そしてiPhoneを頼りに蝉の鳴き声が響く住宅地を抜けて、本日の宿である民宿に荷物を置いた。

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着替えなどを置いて身軽になったら、カメラを担いで適当に歩き出した。雲は厚く、夕日は期待できないが、歩けばなにか素敵な景色に出会えるだろう、という期待だ。まず三国港駅へ戻ると、足元に黒い影がはっている。さてはあやつかとよく見ると、なんとカニであった。

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それから、ふらふらと適当に歩き、猫を撮ったり鳶を撮ったり、いつものお散歩撮影を3時間ほど楽しんだ。さらっと一言で書いているが、こういう時間は旅行の中で一番楽しい時間の一つである。浜辺では海の家の建設工事が始まって、夏の訪れを感じる。いつか女の子と夏の海でデートとかしてみたい、と思っていたらもう30である。また、叶わない夢を重ねてしまったのだな、と思う。それでも未来のわたしがぜーんぶ解決してくれますように、とゆっくりと灰色に落ちていく海を背に、民宿へと戻った。

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安さに対して大変美味しい夕食をいただき、見てくれは普通の家の風呂の巨大版だが温泉であるお風呂に浸かり、しばらく写真を整理したり焼いたりしたあと、再度外に出た。

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民宿の軒先にあった紫陽花には、夜になって降り出し1時間ほど前に上がった雨の雫が残されていて、iPhoneのライトで照らすと大変美しい。

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のんびり歩いて三度訪れた夜の三国港駅には、かつて貨物ホームであったであろう留置線の車止め近くに夜間帯泊の車両が停められている。なるほど、と思っていたら、なんとさらに別の車も走ってきて運転士のみでわずか数メートル手前に停めたのでびっくりした。

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朝、目が覚めたら朝食をいただき、すぐに支度をして宿を発った。1時間ほど余裕があるので、三国の駅まで散歩する。軒先の花や作物からも夏になっているのがわかる。

三国の駅窓口では最近流行りの見栄えのいい方のマスキングテープが売っていたので買った。これは、あとでノートにきっぷを貼り付けたりするのに使える。

生徒さんらしき制服姿が結構いる。部活なのだろう。若い子が多いことは鉄路がその価値を表すために大切なことの一つだ。もちろん、他にもよいことがたくさんある。三国には大きな新しい保育園もあったから、そうして発展していくことを願っている。

上り列車には当初客室乗務員の女性は乗っていなかったが、途中から乗ってきたらしく、下車するときに気づいた。この制服も大変可愛らしいのに、残念ながら鉄道むすめは配置されていないのである。うちのアルトリアに着せてやったらきっと似合うだろう。

福井駅についたら、改札氏に北陸トライアングルルートきっぷのアンケートを渡した。ここを最後にJR西日本の社員氏とこの旅行では会えないからだ。

北陸本線ホームで特急しらさぎ号を待っている間、待合室で話しかけてこられた老婦人と話す。特に書いてはいないが、老婦人にはよく話しかけられる。もちろんできれば僕に多大な興味を持ってくれる彼氏のいない美少女がいいのだが、まあ、おもしろいおばちゃんおばあちゃんと話すのは楽しいので、構わない。なんでも、これから名古屋に行きセントレアから娘の住むカナダに向かうそうだ。こうして、足の不自由なその老婦人でも整備された公共交通機関を使えば太平洋の反対側に行けることがとても嬉しく思える。

貨物駅である南福井駅には、青い塗装に金色の帯の入ったEF510電気機関車が留置されていた。こちらも津軽海峡寝台特急の原点にして頂点、寝台特急北斗星号を牽引した名機である。撮影できなかったのは残念だが、こうして再会が叶った喜びが色褪せるものではない。

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時折晴れ間も見えて、それは大変素敵な色の視界だった。途中の木ノ本駅にはSLびわ湖号が侍っており、これを楽しみにしている人達に危険のないよう、しらさぎ号は徐行する。これまた残念ながら反対の窓側に見えた。

米原スイッチバックが行われ、東海道本線しらさぎ号は名古屋まで北上する。

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名古屋の駅で降りるとものすごく暑い。さすが名古屋である。何度か行っているがとにかく暑い。湿度もものすごく高いのに、磯の匂いがせず、風もない。iPhoneで確認すると最高気温33度、現在の気温は35度であった。誤記ではない。

10分しか乗り換え時間がないので、すぐに中央本線のホームに向かい、昼食として天むすとお茶を購入した。中央本線の特急しなの号の383系電車は初乗車である。

普通席でもフットレストが付いているなかなかの車両で、とりあえず腰を据えて天むすを食べながら御多分に洩れず外の景色を眺めることにする。

中央本線は全体的に山岳地帯を走行する線路だが、名古屋塩尻間、俗に中央西線と呼ばれる区間は川とその周囲の渓谷を走る区間が多い。このため車窓からの景色はなかなか見晴らしの良いものとなる。

鉄道旅行の楽しみの一つは車窓からの景色にある。車の場合高架には基本的に壁があり、視界が悪い。また、そもそも着座位置が低く、視界に難があることも多い。対して、鉄道の場合、軌道を逸脱する可能性が低いため、防音が必要でない在来線には視界を遮るものがほとんどない。未電化区間の場合架線柱すらない。くわえて古い線路の場合トンネルを掘削する技術がないから山や海岸に沿って走ることになり、線形が悪化しているから低速で走行する。つまり、じっくり景色を眺めることができるわけだ。

中央西線は電化もされているし、走行速度もなかなかのものだが、視点の良さはかなり良いほうである。というわけで、とても楽しい。

残念なのはじっくり撮影できないことだが、天気も悪いので、とりあえず気になる駅をメモしていくことにする。駅メモはやってない。また後でいい天気の時にのんびり訪れれば良いだろう。

途中の中津川駅で降車してしばらく普通列車を待つことにする。とはいえ他に頻繁に列車が来るところでもなく暇なので、一度改札を出て付近の土産物屋に行ってみたら、なんとシン・ゴジラが中津川では本日公開であった。なかなか過激なフレーズがポスタには並んでいて「CGもPOVも飽きた。予告編も出し惜しみ。そりゃ見たいよ」などと書いてある。

そして中津川では中央新幹線の完成が待たれていることもよくわかった。が、小樽のように十数年後の未来のためにカウントダウンタイマを設置してはいない。

次の列車は4時間以上乗車するので、車内販売もあるが万が一のことを考えてここで飛騨牛のコロッケと朴葉餅を買っておいた。美味そうである。

土産物屋を出ると、雨が降ってきて、その降ってきた時の感じが、身体中に存在する夏になると騒ぎ出す細胞を覚醒させるようで、大変心地よかった。晴れているのが良いが、こういう感覚はそれはそれで好きだ。カメラを回してもどう収めて良いのかわからないけれど。

中央西線普通列車に乗り、窓ガラスを強く叩く雨を見ながら、数駅先の南木曽駅に辿り着く。駅にはすでに多くの人が来ていて、なにか珍しい列車が来るのかと思ったら、僕が乗る列車だった。

しばらく時間があるが、ものすごい天気である。雲も厚く、風情のない形で山を覆っている。もっと天気が良く時間があれば、まさおが足を取られた橋にでも行くこともできたのだが、またの機会としよう。

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酷い雨の中、地元の人たちが運動会の白テントを張って、いろいろ売っている。ここで朴葉寿司も買った。五平餅も美味そうだったのだが、もうすでにかなりの量の食料を調達しているのでやめておく。

みんな駅にたむろしてないでなんか買ってやれよ、そうでないともう臨時列車なんか走らないぞ、と思っていたら雨が止み始め、やっと買い物に人が出て来るようになる。僕は村雨が残した小さな川の流れを撮ったり、駅スタンプを押したりして、列車が来るのを待った。

特急あずさ号用にグレードアップされた189系に乗るのは初めてだし、生で見るのも初めてのような気がするが、まあ申し訳程度にカメラを向けて撮影しておく。

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乗車したら、一応一通り客室を撮影した、夏に出す明石二種第一学校蹴球戦記の新作で189系に乗車するからだ。連中には房総の海に行ってもらう。まあ、あずさに乗るわけではないから現実にはあり得ないのだけれど、現実にはあり得ない話を最初から書いているので、気にしていない。自分が乗って触れて感覚を覚えている、ということが一番大切なことだと考えている。

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しばらくすると、南木曽駅を臨時特急木曽あずさ号が出発した。JR東海の係員氏が事前に配布したメニューによれば車内販売はなかなかのものである。自分のところに来るまでどれくらい残っているか不安だったが、ゆっくりとワゴンと販売員氏は近づいて来ていた。

鉄道唱歌のオルゴール音が流れ、思わず口の中で「汽笛一声新橋を」と歌った。懐かしいメロディだ。そういえば、碓氷峠を越えたあのあさま号の中で聞いた鉄道唱歌は一番古い鉄道唱歌の記憶だ。長い旅路もこの臨時特急の列車で一区切りを迎える。東京駅から始まった片道切符は、新宿駅に辿り着いた時、強制的に打ち切られるからだ。

木曽川中山道の案内を車掌氏が時折アナウンスしながら曇り空の中央西線を列車は進んでいく。天気は悪いが、景色を作り出す様々な物体の輪郭の美しさが変わることはない。幸運なことに木曽川側の座席が取れたので、視界も良い。だから、またいつか、良い天気の日にも来よう、それだけの話だ。それ以前に、こうして時間が流れていることを体験できていることが喜ばしいことだ。ただ軌道を進んでいく、この緩やかな時間はこんなに美しいのに、僕らがそれを伝えられないからどんどん鉄路は寂しいものになるのだと思えて、悲しくなる。

せっかくワゴン販売が来てくれたので地ビールの缶をもらった。まだ日が高いので、他の冷たいペットボトルなどとまとめてできるだけぬるくならないようにしておく。

JR東海の係員氏は何人も乗り込んでおられて、特製の手作りパネルを持って記念撮影に応じている。自分が写る趣味はないが、そのパネルは撮影させてもらった。

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塩尻で車内販売は終了とのことなので、最後にプリンとブルーベリー加工品の三点セットを買った。プリンはすぐに食べたが、大変柔らかく上品なカスタードクリームにキャラメルソースがよくあう。

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塩尻で車はスイッチバックするので、座席を回転させる。西側につけているわけだから、夕日にも期待が持てる。列車はそのまま辰野の側に回る。あれはいつだったろうか。家族で辰野のビジネスホテルに泊まったとき、あまりの悪臭に驚いたので、辰野の方には申し訳ないが辰野というとあの悪臭のイメージしかない。調べたら、もう何年も前に解消されているようだった。少しずつ、世の中は良くなって行く。

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夕日を眺めながら、ビールを開けて、コロッケに寿司、餅と木曽の味を楽しんだ。通り過ぎただけのようになってしまったが、またいつか必ず来て、今度はゆっくりしようと思う。2017年の夏、まだ木曽あずさ号は何度か走るし、夏休みに皆が乗れば来年も走るかもしれない。もちろんもう一度来る時はこれで来たいが、それができなかったとしても、来たい。

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三日間、北陸新幹線中央新幹線のようにこれからできる路線の鼓動を感じる一方で、輪島線のように今はもうない路線の記憶も拾い上げて来た。そして、城端線七尾線だって、いつ消えてもおかしくはない。国鉄型の特急も消え、いつか中央西線もなくなるかもしれない。僕は、一人の鉄道ファンとして、それは正しいことだと思っている。皆が望んでいる新幹線が作られ、人が乗らずに採算が取れない路線が廃止になることにどんな間違いがあるというのか。

もちろん、僕らがモノについてもカネについても心についても貧しいから、こういうことになっている、というのも事実だ。すべてにおいて満たされて豊かであれば、こういうことにはならない。正しさが振りかざされることはないだろう。例えば僕らは水については基本的に満たされて豊かだから、雨水を貯めて飲もうとはなかなか思わない。雨水を捨てることにも躊躇がないだろう。

カネやモノや心が満たされ豊かなら、中央新幹線にいくら金がかかろうが、沿線の代議士の懐にいくら金が入ろうが、そこの土地の人々だけが得をしようが気にならないはずだ。そもそも中央新幹線東海旅客鉄道株式会社が自らの資金で勝手に作る一私企業の私有物である。それを理解していれば、財政的には安定感のあるところに金を貸してさらに稼ごうという話なのに、それを国の事業と誤解して税金の無駄遣いだ云々と騒ぐようなことにもならないだろう。輪島線がどれだけ赤字を垂れ流そうが気にならないはずだ。だから、僕らがすべてにおいて貧しいからこそ、こういうつまらない争いや寂しい決断が下されることになっていると言って良いだろう。

僕も例外ではない。例えば、能登線が廃止された理由の一つは、道路網が発達したからだ。そもそも国鉄特定地方交通線として指定する能登線が通る区間に道路を作るどんな「採算がとれる」正しさがあるというのか。環境的にも、安全面から言っても、自動車を優先する正しさなんてないと思っているし、それを露わにすることに躊躇はない。でも、今も能登線蛸島まで走っていれば、こんなことを書く必要がない。満たされていないから、書いているわけだ。

僕らが貧しさから逃れるために手を打つことは当然として、暫しの間不本意にも貧しさに甘んじなければならないというのなら、正しさで語ることになり、その礎になるのは哲学の多数決である。そしてその正しさは、地方交通線を殺していくだろう。今まで多くの線路や、列車が消えたように。このままなら、すべての第三セクタが保有する鉄路も、JRグループ各社が保有する鉄路も失われることになるだろう。廃線は避けられない。七尾線も、城端線も。

だが、今日ではない。

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今は亡き、さほど偉大ではない、どちらかというとかなりどうしようもない僕の父は映画を見る人間だったが、チャップリンが大嫌いだった。なぜ嫌いなのか、と聞くと「チャップリンはほらこうしたらみんなおもしろいでしょう?というのが鼻についた」と言った。父は映画にはユーモアが必要だといい、堅苦しいだけの映画を嫌ったし、例えばグレート・レースは大好きだったので、おそらく流れて溶け込むようなジョークが好きだったのだろう。それから、地獄の黙示録が好きだったので、あれは何をしたい映画なのかわからない、と僕がいったら「なにか言葉で表せることを伝えたいのならそれをプラカードにでも書いて練り歩けば良いんだ。地獄の黙示録には映画でしか伝えられないことがある」と答えた。

僕は昔、観光列車というものが嫌いだった。「ほらこういうことをしてあげたらうれしいでしょう?」というのが鼻についたからだ。修学旅行を人生で3回経験しているが、一番印象に残っているシーンは、名所や名物ではない。

今も、いやそんなのどうでもいいよ、と思うことが少なくない。それは、旅に出た時に見つけられるもの、輝けるものは、「観られる光」はそういう商品になったものでないものの方が多いと思うからだ。

その日の天気は商品にはならない。七尾線で窓ガラスに光った水滴も、金沢駅の階段ですれ違った女子生徒も、三国港駅にいた蟹も、中津川駅で降り出した雨も、商品でなければ名物でもない。けれども、僕はそれがとても素敵なことに思えたし、行った価値があったと思うし、だから、こうして書いている。もちろん、書いたところで、その魅力の僅かな部分も伝わっていないとも思っている。

観光列車に対して「なにかそれは違うだろう」と思っているのはそれが理由だ。もちろん、TWILIGHT EXPRESS瑞風に乗りたいから申し込むし、ダイナープレヤデスでの次の食事ができる機会があるのならそれはとても楽しみだ。単なる住宅地の道に物語を想像できる僕なら、立ち寄り観光先にも物語を紡げるはずだ。どんな天気であってもあの列車に乗っている、ただそれだけでその時間を楽しむことができるだろう。でも、そういうものがないからといって、特に見栄えのするものがないからといって、そこに行く価値がないとはならないはずだ。

その時、そこにいなければ出会えなかったもの、その時の自分だからこそ見つけられるものがある、そのために旅立つのだ。中央東線上野原駅のホームの端に立っている駅名標が自ら発光する、夏の夜の輝きの美しさは普段その駅を使っていない僕だから感じられたことだ。同じようなことは、誰にだってあると思う。そういうことの美しさや尊さを伝え、誰かが少しでも家を出る気になり、乗ったことのない、終着駅になにがあるかも知らない列車に乗る気になってくれるのなら、そう思って、書いている。

それは、終着駅の売店で、鉄道むすめのグッズを買ったり、鉄コレを買ったり、写真集を手に入れることよりもずっと小さいことだろう。けれども、僕はそうすることで、どこかの鉄路を廃線に追い込む正しさを傷つけたい。少しでも、大きく、深く。可能ならば、その価値が失われるほどに。

MODOの頂点の微妙な位置ずれを修正するためのスクリプト

filmassembler.com

ビルの破壊活動を続けているが、MODOでグリッドスナップを聞かせてモデリングしていても、なぜか知らないうちに頂点がマイクロメートル単位でズレで頂点の結合コマンドが同座標と認識せず、メッシュの閉鎖にえらい手間を用するという困難にさらされてきた。特にメッシュシャッターはメッシュが閉鎖されていなくても強引にブーリアン処理を行うため、結果が破綻する。

頂点の結合の範囲を広げてしまうとズレが放置されて事態の改善には向かわないのでどうしたものかと考えていたが、ちょっと適当にこういうのを書いたら動いてるっぽいので貼り付けておく。

import modo
mesh = modo.Mesh('mesh023')
vertices = mesh.geometry.vertices
number_of_vertices = len(vertices)
for index in range(number_of_vertices):
    vertices[index] = round(vertices[index].position[0] * 10) / 10, round(vertices[index].position[1] * 10) / 10, round(vertices[index].position[2] * 10) / 10  
mesh.geometry.setMeshEdits()

MODOスクリプトは初めて書いたので結果重視の仕上がりである。IntelliJからMODOスクリプトエディタに直接できたらいいのに。つまりMODOスクリプトエディタはその程度のパワーである。Emacsのカーソル移動コマンドが他のショートカットに奪われているので大変ストレスが貯まる。

このあと頂点の結合を走らせれば基本的にメッシュが閉鎖されるはずだ。が、頂点数が増えてくると頂点の結合はめちゃくちゃ重いので(7万頂点ぐらいでもダメである。だらしない)、スクリプト側で対処できそうならするつもりだ。しかし、リファレンスでmergeと検索しても結果がないのである。なんてことだ。

さて、メッシュも簡単に閉鎖できるようになったことだし、これでメッシュシャッターも正常動作、破壊がはかどるぞと喜びメッシュシャッターをかけた結果の画像をここに貼り付けておく。念のため書いておくが、メッシュシャッターの結果が破綻するのは、メッシュの閉鎖と無関係だった、ということである。どういう仕掛けと理屈で破綻しているのかわからないのがつらい。が、メッシュクリーンアップをかけるとメッシュの閉鎖が破綻し、このスクリプトも頂点の結合もできなくなるが、メッシュシャッターはちゃんと動作することがわかった。わけがわからないよ。もうちょっと追い詰めていこう。

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第6話まで終えて反省など

f:id:TOYOZUMIKouichi:20170514123957j:plain 明石二種第一学校蹴球戦記が6話まで公開されている。まだ読んでない、もしくはちょっと読んだけど辞めてしまった、という方は次の第7話は一番気合が入っている回なので是非読んでほしい。 もちろん、今まで欠かさず読んでくれている人、感想や批評をくれたり、評価をつけてくれている人、どうもありがとうございます。今は数名のユニークユーザの数が伸びていくといいなと心から思っています。がんばります。まあ、もう書きあがっていますが。

さて、第1話についてよく言われたのは「説明が多い、情報量が多すぎて読みづらい」である。これは実はもう出す前からわかっていた。ので、やっぱそうですよねごめんなさい、である。

というのも、ScoutReport 1に収録した第1話のシナリオをお読みいただいた方にはわかるとおもうが、そもそも第1話から映像でやったらおもしろいことを映像でやろうという考えで作ったので、それを文章に起こしたって何もおもしろくない。

島津裕也という人間が走れないことと椛沢優理絵が彼を見守っていることを8分ぐらいかけて描いている。ほとんど台詞はなく、絵を見ればわかるし、それはアニメという絵が動くことのおもしろさを持っている作品だからやる価値のあることだ。その動きをどれだけ小説に起こしたところで何がおもしろいのか、という話である。

よく、実写化が批判されるが、アニメ化だって同じで、逆も同様だと考えている。それぞれの媒体は作品の本質的な要素を共有していれば良い。

ここで小説を書く技倆があれば、また別の読みやすいものを書けたのかもしれないが、1話に収めるべきことがらがそれなりにある一方で、それを文章に起こせないため、結果的に別のことを書くことになり、さらに陳腐な台詞で嘘くさい話の嘘を誇張したくなかったので、淡々と状況を説明するにとどまってしまった。まあ1話としての出来はあまりよくない。だが、13話で何名ものキャラクタを登場させ1話約5000字の制約の中でそれぞれの個性を伝えるための布石は打てたと考えている。

第2話は難産だった。それなりにこのチームが強くなった理由を描かなければならないからだ。ただ、こういう話はやらなければならないことがあるだけなので、そこに向けて少しずつ書いていけば必ず終わる。どんなに遅くても書いていけば仕上がるし、それで終わりだ。

やりたいことがある話はやりたいことになめらかにつなぐための技術が必要になるから、より難しい。一度書いてもあーでもないこーでもないとなかなか終わらないのだ。

第3話は、デラップである。単に背の高い女の子が好きだから白瀬も椛沢もえらい身長にしたのだが、これで勝つのもいいなと思い、最終的にデラップになった。

第4話は、由紀恵を書いた。これに尽きる。確かに長くなりすぎた5話から朝長のパートを引き上げたのだけど、由紀恵を書いたということの方が大きい。こいつは本当に予想外に登場してかなり好き勝手に動いてくれてキャラに幅を持たせるのに役立ったと思う。勉強させてもらった。

由紀恵を描くことで、この子たちがおかれている生活環境や価値観を前向きに描くことができたと思っている。職場の立地の都合や仕事の都合上、偏った集団の意見しか目にしないので、いや、そういう生き方でなくても素敵な生き方はあるし、それを選ばないけれど認めてもいいじゃないか、と思うことが多かった。そういうものを丁寧に描けたと思っているし、ちゃんと映像として実装しなければな、と思う。

第5話はTHE NAME OF THE HEROINEの主題である「勝つことは、すべてだ。」のお話である。かなり直球で書いた。終盤、島津が選手たちに指示するシーンはやはり映像で見たいと思う。なお、一人だけ指示されていないものがいたことに気づいただろうか。それがなぜかわかるように書いているつもりだし、書かないことで描き出せるものを大切に思っている。

第6話はいろんなところで書いているが、高校時代に女の子の家にお呼ばれするならこんなのが理想形だったな、というやつである。一度だけお呼ばれしたことがあるが、もちろん、こんなんではなかった。それがもし素敵な出来事だったのなら、こんな小説を書いてはいない。今の所まったく予定がないが、親父になるのならこんな親父になりたいとかそういう願望もある。

真奈美は、一番可愛く描いているつもりだ。性格はアレだが、その可愛らしさが伝わったら嬉しい。なお、優理絵は一番大切に、汐音は一番健気に、白瀬は一番美しく描いているつもりだ。

先日「最後まで書き上げたことに意味がある系だよね」と慰められたが、まあその通りだと思っている。とりあえず、書き上がっているので、興味のありそうな話だけでも読んでもらいたい。

次の水曜日は7話である。明石二種の最強フォワード、背番号7の怪物を描く。一番美しい回になると考えている。