六月の開発局

「業界の人」じゃないよ

MODOの頂点の微妙な位置ずれを修正するためのスクリプト

filmassembler.com

ビルの破壊活動を続けているが、MODOでグリッドスナップを聞かせてモデリングしていても、なぜか知らないうちに頂点がマイクロメートル単位でズレで頂点の結合コマンドが同座標と認識せず、メッシュの閉鎖にえらい手間を用するという困難にさらされてきた。特にメッシュシャッターはメッシュが閉鎖されていなくても強引にブーリアン処理を行うため、結果が破綻する。

頂点の結合の範囲を広げてしまうとズレが放置されて事態の改善には向かわないのでどうしたものかと考えていたが、ちょっと適当にこういうのを書いたら動いてるっぽいので貼り付けておく。

import modo
mesh = modo.Mesh('mesh023')
vertices = mesh.geometry.vertices
number_of_vertices = len(vertices)
for index in range(number_of_vertices):
    vertices[index] = round(vertices[index].position[0] * 10) / 10, round(vertices[index].position[1] * 10) / 10, round(vertices[index].position[2] * 10) / 10  
mesh.geometry.setMeshEdits()

MODOスクリプトは初めて書いたので結果重視の仕上がりである。IntelliJからMODOスクリプトエディタに直接できたらいいのに。つまりMODOスクリプトエディタはその程度のパワーである。Emacsのカーソル移動コマンドが他のショートカットに奪われているので大変ストレスが貯まる。

このあと頂点の結合を走らせれば基本的にメッシュが閉鎖されるはずだ。が、頂点数が増えてくると頂点の結合はめちゃくちゃ重いので(7万頂点ぐらいでもダメである。だらしない)、スクリプト側で対処できそうならするつもりだ。しかし、リファレンスでmergeと検索しても結果がないのである。なんてことだ。

さて、メッシュも簡単に閉鎖できるようになったことだし、これでメッシュシャッターも正常動作、破壊がはかどるぞと喜びメッシュシャッターをかけた結果の画像をここに貼り付けておく。念のため書いておくが、メッシュシャッターの結果が破綻するのは、メッシュの閉鎖と無関係だった、ということである。どういう仕掛けと理屈で破綻しているのかわからないのがつらい。が、メッシュクリーンアップをかけるとメッシュの閉鎖が破綻し、このスクリプトも頂点の結合もできなくなるが、メッシュシャッターはちゃんと動作することがわかった。わけがわからないよ。もうちょっと追い詰めていこう。

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第6話まで終えて反省など

f:id:TOYOZUMIKouichi:20170514123957j:plain 明石二種第一学校蹴球戦記が6話まで公開されている。まだ読んでない、もしくはちょっと読んだけど辞めてしまった、という方は次の第7話は一番気合が入っている回なので是非読んでほしい。 もちろん、今まで欠かさず読んでくれている人、感想や批評をくれたり、評価をつけてくれている人、どうもありがとうございます。今は数名のユニークユーザの数が伸びていくといいなと心から思っています。がんばります。まあ、もう書きあがっていますが。

さて、第1話についてよく言われたのは「説明が多い、情報量が多すぎて読みづらい」である。これは実はもう出す前からわかっていた。ので、やっぱそうですよねごめんなさい、である。

というのも、ScoutReport 1に収録した第1話のシナリオをお読みいただいた方にはわかるとおもうが、そもそも第1話から映像でやったらおもしろいことを映像でやろうという考えで作ったので、それを文章に起こしたって何もおもしろくない。

島津裕也という人間が走れないことと椛沢優理絵が彼を見守っていることを8分ぐらいかけて描いている。ほとんど台詞はなく、絵を見ればわかるし、それはアニメという絵が動くことのおもしろさを持っている作品だからやる価値のあることだ。その動きをどれだけ小説に起こしたところで何がおもしろいのか、という話である。

よく、実写化が批判されるが、アニメ化だって同じで、逆も同様だと考えている。それぞれの媒体は作品の本質的な要素を共有していれば良い。

ここで小説を書く技倆があれば、また別の読みやすいものを書けたのかもしれないが、1話に収めるべきことがらがそれなりにある一方で、それを文章に起こせないため、結果的に別のことを書くことになり、さらに陳腐な台詞で嘘くさい話の嘘を誇張したくなかったので、淡々と状況を説明するにとどまってしまった。まあ1話としての出来はあまりよくない。だが、13話で何名ものキャラクタを登場させ1話約5000字の制約の中でそれぞれの個性を伝えるための布石は打てたと考えている。

第2話は難産だった。それなりにこのチームが強くなった理由を描かなければならないからだ。ただ、こういう話はやらなければならないことがあるだけなので、そこに向けて少しずつ書いていけば必ず終わる。どんなに遅くても書いていけば仕上がるし、それで終わりだ。

やりたいことがある話はやりたいことになめらかにつなぐための技術が必要になるから、より難しい。一度書いてもあーでもないこーでもないとなかなか終わらないのだ。

第3話は、デラップである。単に背の高い女の子が好きだから白瀬も椛沢もえらい身長にしたのだが、これで勝つのもいいなと思い、最終的にデラップになった。

第4話は、由紀恵を書いた。これに尽きる。確かに長くなりすぎた5話から朝長のパートを引き上げたのだけど、由紀恵を書いたということの方が大きい。こいつは本当に予想外に登場してかなり好き勝手に動いてくれてキャラに幅を持たせるのに役立ったと思う。勉強させてもらった。

由紀恵を描くことで、この子たちがおかれている生活環境や価値観を前向きに描くことができたと思っている。職場の立地の都合や仕事の都合上、偏った集団の意見しか目にしないので、いや、そういう生き方でなくても素敵な生き方はあるし、それを選ばないけれど認めてもいいじゃないか、と思うことが多かった。そういうものを丁寧に描けたと思っているし、ちゃんと映像として実装しなければな、と思う。

第5話はTHE NAME OF THE HEROINEの主題である「勝つことは、すべてだ。」のお話である。かなり直球で書いた。終盤、島津が選手たちに指示するシーンはやはり映像で見たいと思う。なお、一人だけ指示されていないものがいたことに気づいただろうか。それがなぜかわかるように書いているつもりだし、書かないことで描き出せるものを大切に思っている。

第6話はいろんなところで書いているが、高校時代に女の子の家にお呼ばれするならこんなのが理想形だったな、というやつである。一度だけお呼ばれしたことがあるが、もちろん、こんなんではなかった。それがもし素敵な出来事だったのなら、こんな小説を書いてはいない。今の所まったく予定がないが、親父になるのならこんな親父になりたいとかそういう願望もある。

真奈美は、一番可愛く描いているつもりだ。性格はアレだが、その可愛らしさが伝わったら嬉しい。なお、優理絵は一番大切に、汐音は一番健気に、白瀬は一番美しく描いているつもりだ。

先日「最後まで書き上げたことに意味がある系だよね」と慰められたが、まあその通りだと思っている。とりあえず、書き上がっているので、興味のありそうな話だけでも読んでもらいたい。

次の水曜日は7話である。明石二種の最強フォワード、背番号7の怪物を描く。一番美しい回になると考えている。

ffmpeg3.3におけるMOV(H.264)からのフレーム(絵)の読み出し

頻繁にAPIの仕様変更を行い、ボヤッとしているとすぐにAPIがdeprecatedになることで銀河系でも広く知られているメディアファイルのなんでも屋、ffmpegを利用したてめえ用ライブラリを久しぶりに使おうとしたら警告の雨嵐+動かなかったので、太陽系第三惑星にあと2人はいると思われる同じ問題で困っている日本語読解者の方のために書いておきます。

たまにこうやって「おうちでもプログラム書くよ!下手な絵や下手な小説書いているだけじゃないよ!」とアピールしておくところが、小市民ですね。なお、プログラムを書いているのは映画の編集のためです。みんなも見よう。そして小説も読もう。ついでにTwitterfollowだ。

さよならavpicture_get_size

avpicture_get_sizeは推奨されなくなりました。代替関数av_image_get_buffer_sizeにはint alignという引数がついていますが、どうやらSIMD系命令のためのアライメント揃えるマンらしいです。が、リファレンスみても実にシンプルでわかりにくいので1を入れたら動きました。こんなの実行時にCPUから使えるSIMD命令判定して決めてくれよと思わないでもないですが、まあ僕より頭のいい人が作っているので多分僕には想像もつかない事情があるのでしょう。

ここらへんやっておかないと、swscaleしたときにswscaler bad dst image pointersとかいわれる。swscaler bad src image pointersのときもある。

- int size = avpicture_get_size(pixelFormat, width, height);
+ int size = av_image_get_buffer_size(pixelFormat, width, height, 1);

なお個人的な好みで変数名はらくださん記法です。

ありがとうavpicture_fill

avpicture_fillav_image_fill_arraysにかわりました。ここもalignは1を指定しておきましょう。

- avpicture_fill((AVPicture *)frame, frameBuffer, pixelFormat, width, height);
+ av_image_fill_arrays(frame->data, frame->linesize, frameBuffer, pixelFormat, width, height, 1);

AVStreamからcodecは消えた

ヴィデオストリーム探したいときはこんなふうにしてください。

- if(formatContext->streams[i]->codec->codec_type == AVMEDIA_TYPE_VIDEO) {
+if(formatContext->streams[i]->codecpar->codec_type == AVMEDIA_TYPE_VIDEO) {

僕らはもうAVCodecContextを自らの手で作らなければならないんだ

以前僕らはこんなかんじでcodecContextを取り出していたと思いますが、そんな甘い時代は終わりを告げたのです。

- codecContext = formatContext->streams[streamIndex]->codec;

こうやって自分でavcodec_alloc_context3で作りましょう。気軽に関数のケツに数字を増やす、そのスタイル、わたし、好きですよ(←お好きな声優さんの声でお読みください)。

+ AVCodecParameters *codecParameters = stream->codecpar;
+ enum AVCodecID codec_id = codecParameters->codec_id;
+ AVCodec *codec = avcodec_find_decoder(codec_id);
+ AVCodecContext  *codecContext = avcodec_alloc_context3(codec);

avcodec_parameters_to_contextがH.264とともにあるエラーの地獄からあなたを救う

なんかこれやらないとH.264のファイル読めなくなっちゃったんだ。エラーいっぱい出る。Error splitting the input into NAL unitsって出る。

+ avcodec_parameters_to_context(codecContext, stream->codecpar);

avcodec_decode_video2に別れを

最近はこうやってフレーム読むから!よくわかんないかもしれないけどこうだから!がんばれ!!あ、av_free_packetももういないから。

AVFrame *frame = av_frame_alloc();
AVPacket packet;

int resultCode =-1;
while (1) {
  if ((resultCode = av_read_frame(video->formatContext, &packet)) < 0) {
      break;
  }

  if (packet.stream_index == video->stream->index) {
    if ((resultCode = avcodec_send_packet(video->codecContext, &packet)) < 0) {
    }
    if ((resultCode = avcodec_receive_frame(video->codecContext, frame)) < 0) {
      if (resultCode != AVERROR(EAGAIN)) {
        break;
      }
    } else {
      break;
    }
  }
  av_packet_unref(&packet);
}

// ここまでくるとframeには絵が入ってるから好きにしなさい

これからが作業本番なので雑な説明ですがオシマイ。

写真機不在の季節

現状

先日D4とα7Sを手放してから、使えるカメラがRX100M5だけである。が、僕が最も信頼するカメラメーカであるニコンからCP+での新製品発表はなかった。しばらくRX100M5だけでやるかな、と思っていたが、やはり広角と望遠が弱く、それから暗がりにも弱いので、一眼が欲しくなったのだが、どれもイマイチである。

普段使いのカメラとしては4Kの動画が撮れればD4が一番良かったのだが、D5の4Kは焦点距離が二倍になってしまうという大きな問題がある上にめちゃくちゃ高価である。ので、何か別のを、と思って探している。

なお、写真は適当である。

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GH5

最近絵を描いたりアニメ作ったりしてるだけじゃねえかと思われているかもしれないが主戦場は実写映画で、何気ない景色を切り抜く能力には自信がある。人と金がないからなかなか撮れないだけで、それさえあればなんの、という具合である。

そんな僕に最適と思われるのがPanasonicのGH5である。動画画質は高級な動画専用機に匹敵する水準なのに安価である。10bitカラーやDCI 4Kにも対応しており、動画を撮るならこれである。

が、普段使いのカメラとしてはあまりにも性能が悪い。念のため繰り返すが、僕が普段使いで必要としているのはD4の水準である。スナップに最適なのはD4の性能である。暗がりを物ともせず、あらゆる被写体を瞬時に捉え、どんな状況下でも作動が期待できる、これが普段使いに求められる性能だ。

また、気にいるレンズもない。そしてなにより20数万の大枚叩いて買う品物にしては所有する喜びがない。好みじゃないし、まだ20代の男の子なのでカッコいいものを持ち歩きたいのである。

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α6500

SONY機とは長く付き合っているし、瞳AFも気になるし、センサもAPS-C、ツァイスもかっこよくて好きなのでなかなか良さそうなのがα6500である。

動画もGH5ほどではないにせよ、6Kから4Kへとコンバートする方式はカリッとした絵が期待できるし、なかなか悪くない選択肢である。

が、残念なのはやっぱりあんまりな見た目と、レンズラインナップの貧弱さである。もちろんマウントアダプタを使えば手持ちのレンズが使えるのだが、AFが効かないので普段使いとしては失格である。

念のため書くと僕の普段使いレンズはCarl Zeiss Distagon T 2/25にCarl Zeiss Makro-Planar T 2/100、SP 15-30mm F/2.8 Di VC USD [Model A012]そしてAF-S NIKKOR 70-200mm f/2.8G ED VR II(昔のやつ)である。どいつもこいつもphotozoneやDxOMarkでなかなかのスコアを叩き出すレンズである。Distagonは単体であらゆるものを撮影できる。Makro-Planerできれいな女の子を撮るのはとてつもなく幸せなことである(最近まったく撮れていないが)。15-30は旅行でのスナップに最適で、70-200は他のレンズが戦えない時に戦うレンズである。この70-200が戦わなければならない時、α6500はそのAF性能を活かせないのである。

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D500

発売から1年経つD500はAPS-Cにおいて最高水準の性能を持っているだろう。D4クラスの普段の使い勝手を高感度性能以外の部分で持っているに違いない。何度か触っているが、持ち歩きカメラとしてはかなり良い性能だ。

だが、D500には致命的な欠陥がある。4Kだと焦点距離が二倍になってしまうのである。15mmの超広角が30mmである。お前はマイクロフォーサーズかよ。なんだあのシグマの変態レンズを僕に買えというのかニコンさん。

……えますか…聞こえますか……ニコンさん……今……あなたの心に直接語りかけています……はやく……フルフレームを活用した……DCI 4K……400Mbps……10bitカラーの……録画機能を……実装するのです……素性はいいのだから……それをやれば……必ず……シェアナンバワンです………5年間……ニコンで映画を撮,ってきた……わたしの願いを……叶えてください……ニコンで映像なんて……なんてほざく連中を……蹴散らしてきたわたしの願いを……叶えてください…… f:id:TOYOZUMIKouichi:20170425070632j:plain

なぜ感想なのか: JR北海道とサクラクエスト第三話

昨年の3月26日「北海道新幹線に失敗の選択肢はない」という記事を書いた。僕は、特に新幹線が好きというわけではない。どちらかというと寝台特急や在来線の特急が好きだ。伝統的な風情ある名前や車両の様々な列車失われることは悲しいし、最後に取れたトワイライトエクスプレスのロイヤルをウヤっているので、そのことを今でも恨んでいる。

が、北海道新幹線の開業前、新幹線のことを何もわかっていない人たちが言い出した否定論に大勢が踊らされていることには腹が立った。

だから、新幹線とはいかなるものなのか、ということを懇切丁寧に説明した。それをわかってもらえればきっと北海道新幹線の良さがわかってもらえる、否定論のバカバカしさがわかってもらえると思ったからだ。

あれから一年以上が経つが、北海道新幹線は想像以上の業績をあげていて、とても嬉しい。

ところが、北海道新幹線の運行主体であるJR北海道を取り巻く情勢は極めて厳しく、いくつかの路線の廃線が秒読み段階に入っていることはご存知の通りである。それをまた新幹線のときのように理解する気もなくただ攻撃することのみを目的としたような言論が幅を利かせていて、とても不愉快である。

ではまた以前のようにしっかりと書くか、と思ったが、どうも書きづらい。ちゃんと説明すれば、と思っても、最終的にはコスト論の勝負の世界になってしまい「道路なんかに無駄金使ってるから悪いんだ」「道路より鉄道の方がずっと価値がある」といった内容になってしまい、読んでも愉快な気持ちになるものにならないのだ。

そして、JR北海道がここまで追い詰められたのには自然環境以外にも理由がいくつもあり、そのことを無視して廃止反対自助努力を主張する人たちについても書かなければ説明が終わらない。とにかくケンカのにおいしかしないからどうしたものかと思い悩んでいた。

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この春から、ヒロインが間野山という田舎の町興しを頼まれるアニメ「サクラクエスト」の放送が始まった。舞台のモデルは明らかに城端である。

所詮はアニメだ。可愛い女の子が5人も集まり町興しである。首を狙いに来る敵もおらず、のんびり楽しくきゃっきゃうふふである。嘘っぱちの塊である。和菓子屋の店主、他反対する人もいるがこの子たちの頑張りを見て次第にほだされ大団円となることが想像できる。まあでも、P.A.WORKSだし、見ていたわけだ。

そして木曜日の朝、録画しておいた第三話を見て本当に驚いた。自分は街を変えるために努力していると言う観光協会の会長に対して主人公であり、ヒロインである20歳木春由乃はこう言い放つ。

だって間野山の人たちは、誰も変わりたいなんて思ってないじゃないですか!

直感的にいいセリフだと思った。仮にも演出家なので、それぐらいのことは考える。

5人の可愛い女の子があつまり、あとは成功に向かっていくだけのお話に、強大な実体としての敵を設定した。誰も、である。やろうと思えばなあなあで済ますことのできた町民全員を、この作品は敵に回したのである。波風立たないはずの設定にヒロイン自ら思い切り波を立て、お伽話の世界に現実感を見せてくれた。

普通の女の子になりたくない由乃はどうなるのかというドラマの楽しさ、間野山という世界はどう変わるのかという物語の楽しさの予感はあった。だがストーリィはただ成功していくだけじゃないかという予感もあった。でも、この一言で、いや、このアニメはこれから先にもとんでもないセリフを持っているかもしれない、という期待が生まれた。

こういう容赦のない描写が僕は好きだし、影がしっかりとあるから光は輝くと思う。だからこの作品を見ていてよかったと思えた。

そしてこの台詞には勇気と覚悟があった。でも、その勇気や覚悟はきっと実績や信頼の上にあるのだろうと思うし、それは純粋に憧れることだ。

でも、ざっとTwitterを検索したがほぼ誰もこの台詞について言及してはいなかった。作った人間もそんなに重く考えていなかったと思う。

それでも、僕はこの台詞には真実があると感じるし、こういう台詞を紛れ込ませられるようになりたいと思っている。

本題は「僕がこれら二つの事から何を感じたか」ということなのだけれど「何を感じた」その内容自体は書く必要がないから書かない。書きたくないし。つまりそういうことだ。きっとわかるだろう。

作品を見るときには、自分が普段触れているものと通じ合うところに気づいたりするところがある。それを僕は大切に思っているし、だから「感想」を書いている。評論や、解説ではなく、感想を書いているのはそのためなのだ。評論や解説には正しさが求められる。けれども、感想にはそれがない。

そして、自分が作るときも、そうやって見た人が自分が普段触れているもの、特に僕が想像もしていないものと通じるところに気づいたら嬉しいな、と思っている。そこには、新しい価値があるからだ。作ろうとも思っていなかった価値が発見されたという、幸運があるからだ。

感想には幸運を記せる、といっても良いだろう。だから、これからも感想を書くつもりだ。もしも誰かが、僕の感想を見てその幸運を知り、いろんな作品、とくにまったく良いと思っていなかった作品を楽しんでくれるようになったらいいな、と少しだけ思っている。

明石二種第一学校蹴球戦記について

f:id:TOYOZUMIKouichi:20170416235202p:plain 先日の告知通り、4月9日水曜日から明石二種第一学校蹴球戦記の連載をはじめた。毎週水曜に一話ずつ、全13話である。既に書き終えているので、多分完結する。細かい字句の修正を行ったりしているから、まだ全部投稿予約はしていない。

若干ネタバレしつつ、仕掛けについて書いておきたい。そもそもこのお話は、僕が妄想しているアニメシリーズ、THE NAME OF THE HEROINE 全26話の前半部分である。これは26話のうち25話の流れを既に組んであるのだけれど(1話欠けている理由は後述)、何しろアニメ向けに考えた話なので絵を妄想して考えている。こんなもの、そのまま文章にしてもなにがおもしろいんだかさっぱりわからない。だから、小説にするにあたって小説ならではの視点を入れたりしている。

例えば、昨夏発行の同人誌「ScoutReport 1」には1話のシナリオを掲載した。これを読むとわかるが、1話のAパートは主人公島津裕也の卒業までを、Bパートは入学から着任までを描いている。ところが、小説ではAパートが卒業までなのは同じだが、どちらかというと描かれているのはヒロインの一人椛沢優理絵である。そしてBパートは部長兼キャプテン朝長響子の視点で彼女のこれまでの経歴を描いた。朝長は今までほとんど描かなかったが、最初のシーズンで終わる小説では最初のシーズンにしか基本的に登場しない朝長を大きく描いた方が小説として良いのではないかと思ったからだ。

おもしろい作品を作る、としたが、今までの僕の作品にはないおもしろさだと考えている。「Pathfinder」では、「気づくこと」のおもしろさを狙った。「爆撃」は即物的なおもしろさだ。そして「失われたフィルムを求めて」では、伏線が敷かれてそれが回収されて、なるほどとわかるオチが用意されるおもしろさを作った。「シリウスの七日間」は映像の衝撃のおもしろさだ。この作品のおもしろさは「ノンフィクションを読むような、タネも仕掛もない、ただ進んでいくことのおもしろさ」を作ろうとしている。

THE NAME OF THE HEROINEという作品は、その題の通り「ヒロインの名前」についての物語だ。すべて見終わった時に、なるほど、だからTHE NAME OF THE HEROINEというタイトルなのか、とわかるようにしてある。まあ、もっと早く気づく人もいるだろうし、全然気づかない人もいるだろうけど。そして、この小説は明石二種第一学校蹴球戦記なので、戦記、つまり戦いの記録として基本的には書いてある、というわけだ。

全13話のうち、第4話はほとんど最後に書いた。これは、全26話の流れを作るときに第4話ともう1話だけかなり緩くしていたからである。なぜそうしたかというと、実際にハコや脚本を実装すると敷くべき伏線や描くべき出来事が出てきて全体の構成がパンクするのでそれを吸収するための措置だ。

こうしてできた全13話の流れを記す。なお、内容に触れる。ネタもへったくれもないが、全部読むのはめんどうくさい、という人は、以下のリストから興味のある回を待って読んでもらい、気に入ったら他の回も読んでほしい。

第1話「イスタンブールを忘れるな」ではまず、主人公島津裕也の境遇と、その幼馴染椛沢優理絵の関係、その愛を描いた。それから、朝長響子を通じて、明石二種第一学校女子蹴球部の現状を示した。この回は説明回である。副題は、本来の第1話の英題「Remember Istanbul」からきている。この英題はその話を別の言葉で表してすべての回につける予定だ。原題は既報の通り「わたしと、君のために」。

第2話「野良犬の日」では、コーチとして起用された岩崎高成と島津裕也の視点から、彼らの仕事に対する姿勢やチームづくりの方針を描いた。別にフットボールのディテールを語る物語ではないが、最低限抑えるべきものというのがあると思うからだ。原題は既報の通り「準備する人生」。

第3話「ブリタニア作戦」はチームが抱えてしまった新たな問題を描きながら、この現実感の乏しい作品に説得力を与えるために用意されている。また、僕はほとんどフットボールを主題にした作品を見たことがないのだが(銀河へキックオフ!とシュート!それから栄光への脱出程度であるし、ほとんど内容を覚えていない)、なるほど、そうきたか、と思ってもらえるものを目指した。サブタイトルで検索すると本当にネタバレである。原題は既報の通り「大物見参」。

第4話「さまざまな理由」は前述の通り吸収のために用意しており、書くうちに目立ってきた名寄由紀恵ともう一人の人物について描きつつ、第5話前半を前倒して構成した。この作品の舞台設定を描いていく回、と今は捉えているが、変化するかもしれない。まだ温かいので自分がどんなものを描いたのか見極め難いのだ。原題は既報の通り「勝利の理由、敗北の原因」。

第5話「境界線を超えて」は物語が動く回である。つまり、主要な登場人物達にとって価値観を揺れ動かされるできごとが起きる回だ。ストーリィとしても彼らの目指す、彼女達の描き出すフットボールを伝えるために表現も工夫した。ドラマもあるので盛り上げ回である。原題は既報の通り「価値ある友情」。

第6話「第四種接近遭遇」はチームの抱えていた二つの問題に対する取り組みを描いた文化祭の回である。フットボールから離れて、登場人物達を描くことに集中した。前話でフットボールを描いたので、バランスを取る措置でもある。一般的に、多分一番ウケる回だと捉えている。原題は既報の通り「ファミリィ」。

第7話「音のない時間の中で」は修学旅行を通じて椛沢優理絵と、メインヒロイン白瀬美波の心象を描いた回だ。この回は幻想的な魅力をもたせたいと思っていて、絵がかなり浮かんでいたのでその言葉にならないものを新しく言葉になるもので書き出すことに苦労した。前話とはうってかわって大変評価が不安になる回でもある。なお全13話の中で白瀬美波の視点で描かれるのはこの回だけである。原題は既報の通り「身の丈知らず」。

第8話「戦術である少女」は主人公達に新たに降りかかる問題とそれへの対応を通じて島津と彼を取り巻く人々の人物像を描いた。登場人物には一言で表せない色々な立場や感情をもたせたい。主人公なのだから特に丁寧に描いていきたい。簡単に言えばこのお話もまた突拍子もない状況を通じて人生の転換点を描くものだからだ。原題は既報の通り「選手以上の存在」。

第9話「十七歳の冬」は彼らの関係のささやかな変化をまた彼ら自身の境遇を織り交ぜて描いた。境遇のような話は少しずつ、少しずつ描いて見ている人に浸透させていかないとなかなか理解されないと考えている。まあ、純粋に男女の惚れた腫れたの話だ。原題は既報の通り「そして、恋が始まる」。

第10話「番号が示すもの」からは終盤に向けて物語を動かし始める。そして、新入生二階堂晴海が登場すると同時に彼女の視点から最強の敵、茗荷谷女学院第一学校蹴球部を描く。原題は既報の通り「恐るべきメルカート」。

第11話「戦犯」は主人公島津裕也の変化を描く回だ。状況が進展すれば人は変わっていくと思うので、ここでしっかり描いた。それから、彼ら彼女らが大切にしているものを改めて描く。原題は既報の通り「あなたがいたから」。

第12話「春の誓い」は最終話に向けての整理と準備の回である。きちんと整理して、最後の戦いを迎える期待感を作ることを目指した。原題は既報の通り「禁じられた納得」。

第13話「勝利至上のフットボール」は最終話なので徹底的に試合である。やるべきことをやることを心がけた。原題は既報の通り「アンチ・フットボール」。

なお、全26話でしか必要のない一部の描写は省いたし、既発表の登場人物の名前等も修正している。設定も変わっている。これからも変わるだろう。描くと、描いたことによって気づくこともあってなかなかおもしろい。今も「ああ、もっとこうした方がいいな」とか気づいている。

だが、このまま出してみる。やはり、一つ完成した作品を出してみる、ということも大きな妄想には必要なことだと思うからだ。THE NAME OF THE HEROINEが持っている物語の欠片と、ストーリィの一部分、そしてドラマの影がこの作品にはある。映像とは違い、あまり技術はないから、読みづらいかもしれない。が、魅力ある作品だと思ってもらえるように誠意を込めた。

是非、読んだり、紹介したり、感想を書いて欲しいと思っている。よろしくお願いします。

グラスリップ、再び。そしてP.A.WORKSの良さ。(約9000字)

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はじめに

基本的にP.A.WORKSの作品はチェックすることにしている。今期は一期目がP.A.WORKSの作品の中でも出来のよかった有頂天家族2、第一弾花咲くいろはが極めて高い水準だったお仕事シリーズ第三弾のサクラクエストと二作もあって、終盤戦になると制作体力の減少が顕著に露呈することのあるP.A.WORKSなのでやや不安だが、基本的にうれしい。どちらも始まっているが、楽しみに見ている。

今までのP.A.WORKSのテレビシリーズはほとんど本放送でみている。最初に本放送で見たのは花咲くいろはで、それ以前のは当然本放送では見ていないし、明確に途中で打ち切った、泉子さんがどうにも受け付けなかったレッドデータガールと怖そうだから最初から除外したAnotherがある。グラスリップも本放送で毎週見た。だが、グラスリップについては正直わけがわかんねえなんだよこれ、と思っていた。ただ「これちゃんと見ればなんかわかるんだろうな」と思い、最近改めて見直したところおもしろくなったので感想を書く。

先に書いておくが作品解説ではない。だから、百はなんで泣いていたのかとか聞かれても答えられない。未来のカケラとはなんだったのかとか、あの襲われる幻影はなんだったのかとかきかれても知らん。

それから、スタッフインタビューの類はほぼ読んでいない。たとえば、カゼミチアルバムは持っていないから、そこで語られたことなど知ったことではない。まあ、本作の魅力に気づいたので今になって欲しくなっているが。「正解」を望むなら、この文章を読む価値はない。

作品の解釈を書くが、それは僕の個人的な解釈に過ぎないし、皆それぞれが同じであれ違ったものであれ囚われず解釈を持つのが自然な姿だと思う。僕は「作者のひと、そこまで考えていないと 思うよ?」と言われたら「だからなに?」と答える。僕は作品を楽しみたいのであって、作り手の考えの当てっこをする超能力者のゲームに興じたいわけではない。

あと、細かい台詞を再度確認して書いてはいない。もう何周もしているので、大体覚えているから、その記憶に頼って書いている。論文ではない。

典型的な成長物語と定番の手法

どこをとっかかりにして書きはじめたらいいものかわかりかねるのだが、グラスリップというお話は、典型的な成長物語である。そして、その成長物語を描く時に定番の手法を避けたがために、別のやりかたを持ち込む必要があり、それが「定番の手法」を期待していた人間にとっては大変期待ハズレであった、と今は捉えている。だから、問題は期待ハズレであったことであって、別の期待を持ってみればかなり良い作品だということがわかった。

典型的な成長物語、が何を意味しているのかをまず説明しよう。それは「他者や環境によって与えられた条件によって成立していた時間の中で、いくつかの試練を乗り越えていき、最終的にはその時間自体が崩壊することになったが、そこからは先は自分自身で切り拓くものだ」というものである。例えば、P.A.WORKSの作品でもこの形が多く取られている。true tearsは「同じ屋根の下に大変魅力的な少女が住んでいる」という時間があり、その中で隠し子騒動とか乃絵の登場とかいろいろなことがあって、比呂美は家を出ていくことによって時間は崩壊する。そして、乃絵も慎一郎も比呂美も自分自身で先を開いていく、と終わる。死後の世界からかなでは消え去るし、喜翆荘は廃業するし、白浜坂高校は廃校になり、夜見北中学校3年3組はクラスメイトが大勢が亡くなってしまう。だが、音無は前に進むし、喜翆荘の従業員たちは新しい人生の時間を刻み始める。和奏は音大に進み、恒一も先へと向かうことがわかる。

そして「定番の手法」というのは「突拍子もないストーリィを導入してお話の豪華さを確保する」ということだ。デカイ家に生まれて素敵な女の子が同居していておまけに親父の隠し子かもしれない、というのは大分突拍子もない話である。多分、これを読んでいる殆どの人間がそんな異常な家庭で生まれ育ってはいないと思う。自分も友達もすでに死んでいるとか、母親が恋人と夜逃げして親戚の旅館に仲居として放りこまれたり、めっちゃ金持ちの学校に通っていてそこが廃校になったり、自分のクラスメイトがどんどん死んでいったりした人も多分いないと思う。特に最初の例について述べるのならはやく成仏してほしい。グラスリップが意味不明で成仏しきれなかったというのなら、これを読んだら安らかに眠りについてほしい。

作品に求められるもの

「定番の手法」で描かれる「典型的な成長物語」とは、「人生とはかくあるものである」と、未来を生きる少年少女に向けて描かれるものだ。いつか花火を一人で観る日はやってくる、唐突な当たり前の孤独は現れるもので、そのときどうすべきかを描いてやるものだ。P.A.WORKSのアニメってそんなんだったの?と思うかもしれない。これは、歴史的な文脈の話だ。例えば、宮﨑駿監督のスタジオジブリ作品を想像してみれば良い。天空の城ラピュタ千と千尋の神隠しは「定番の手法」で描かれる「典型的な成長物語」で、宮﨑駿監督本人が「男の子のため」「女の子のため」と言っている。ある時好きな女の子を特務機関の少佐に拉致され手切れ金を渡されたとき、その唐突な当たり前の孤独に君はどう立ち向かうべきなのか。両親との言葉が通じ合わなくなったときどうすべきなのか。そしてその中で見つけた海賊一家や風呂屋の従業員たちとの関係もいつか喪失してしまう日が来るんだ。そのあとも進むんだと伝える、「そういうもの」なのだ。

さて、その宮﨑駿監督が2013年の引退会見のときに「この世界は生きるに値するんだ」と言ったこと、それを仕事の根幹にしていることを覚えている人はいるだろうか。調べればすぐ出るが、確かにはっきりとそう言っている。そこでちょっと宮﨑駿監督のフィルモグラフィを想像してみてほしい。彼が描いてきたのは常に「ここではない理想的などこかの世界」ではなかっただろうか。結局彼は「この世界は生きるに値するんだ」ということを描けていない、そう捉えることはできないだろうか。それはつまり「定番の手法」における「突拍子もないストーリィ」を作るための設定が、つねに「ここではない理想的などこかの世界」だったということである。

「定番の手法」はお話に観客を引き込み、興味をもたせ、快感を与えることで、満足感をもたらす。そこを僕らはグラスリップに期待していたはずだし、それはほとんどすべてのアニメ作品がそうなのだ。多分、カゼミチに集った6人の恋愛闘争や、未来のカケラの真相がわかる、といったものを望んでいたと思う。

ところが、グラスリップは、「ここではない理想的などこかの世界」を極限し、「定番の手法」を可能な限り薄め、それでもって「典型的な成長物語」を描こうとしたのである。だから僕らは期待を裏切られたと感じたし、そのショックから作品が本来描こうとしていた成長物語を見出すことができなかったのではないか、と今は思うのだ。

僕らは、映像作品を見るとき、期待して見る。そして、その期待が裏切られると、つまらないと感じることがある。例えば、多くの人は秒速5センチメートルで貴樹と明里が結ばれることを望んで見ていたようで、その結末に納得できなかった、という話をよく目にする。けれども、僕はそれを望んでいたので大変満足したし、逆に君の名は。はあまりに救いがなくてがっかりした。そういう部分だけではないが、人は自分の期待しているストーリィがないとつまらなくなってしまう、ということがあると思う。

未来のカケラに対する過ち

僕は、その薄められた「定番の手法」の中で、唯一残った「未来のカケラ」という単語に惑わされてしまった。それは二つの間違い、まず捉え方を間違ったこと、それからその意味を間違ったことと、一つの想像力の不足によって引き起こされた。

捉え方を間違ったというのは、僕らはそれが殺人事件のトリックのように考えていたが、実際はトトロだった、という話であるる。となりのトトロを見て「トトロとは何だったのか」という説明を求める人はかなり珍しいタイプだと僕は考えている。トトロはトトロである。子どものときにだけ見える妖精のようなものなのだ。そこからその意味や立場を知る必要などない。未来のカケラも「17歳のころに見える未来のようなもの」として神棚に上げるべきだった。でも「定番の手法」であると誤認して、一生懸命「あるべき結論」の捜索に注力してしまったのである。

そして未来のカケラの意味である。これに気づくのがとても大変だったのだが、これに気づいてしまえばグラスリップは大変わかりやすい話である。しかしいきなり未来のカケラについて話そうとすると、ワケがわからなくなるので、主人公深水透子についてまず書いてゆきたい。

深水透子の物語

端的に言うと、深見透子とは「作り手」である。ガラス工芸における作り手でもあるが、もっと大きく「作品」の作り手である。グラスリップの作り手、というわけではない。あくまで一般的な「作品」の作り手だ。そして、それと同時に、深水透子は17歳の女の子であり「典型的な成長物語」における主人公であるから「自分の人生の作り手」である。

また、透子の両親も作り手であったり、かつて作り手であったことが示唆される。「かつて僕はこんな人生という作品を作ったのだ」という自慢話を夕食時に父はしているし、また、母がかつて作品を作っていたことや、父の作りたいという情熱にほだされて透子達を授かる道を歩んだのだ、ということも描かれている。また、陽菜からは、やなぎに服をもらったり、記録を作ったりして自分の人生を作っていく様と先に人生を作っているやなぎへのあこがれや透子への応援が描かれていることがわかる。陽菜は人生の作り手の一人でありながら、その作り手に対するファンや観客でもあるのだ。透子の母はその作り手に対する観客や時にパトロンとして様々な有益無益織り交ぜた意見を与えてくれる。

グラスリップにおける成長物語とは、作品の作り手である深水透子の成長によって描かれていく。それはいわゆる守破離の流れであり、友人たちと築き上げてきた今の環境や関係を守りたいと願っていることから始まる。だから第一話では「高校を卒業したら友達じゃなくなっちゃうの?やだよそんなの」と言うわけだ。「典型的な成長物語」における「時間」を守ろうとしているのである。ところが、その時間を守ろうとした幸の「恋愛禁止」という言葉を衝動に任せて破壊することで人生を前に進め、その結果として互いの忖度で成り立っていたカゼミチグループの危うい関係は崩れ、その甘美な時間から離れていく。確かに「良いことばかりじゃないよ。気づくってことは」。でもそれによって、透子は成長していくのだ。

ハーモニィ処理と蜻蛉玉

さて、作り手には欠かせないものがある。それは、想像だ。自分が何かを作るとき、これを作りたいんだと想像して作っていくのは自然なことだろう。自分の人生なら、あの子と映画に行って、こんな時間を過ごしたい、とか想像するはずだ。小説を書いているのなら「こんなセリフを書きたい」マンガを書いているのなら「こんなコマを描きたい」というように、自分の想像した素晴らしいものがきっとあると思う。だからできたとき「思ってたのとちょっと違う」と修正を施していったり、そこに近づけていくすべてを身に着けていく、それがなにかを作っていくということである。

それがグラスリップだと「ハーモニィ処理」として使われる。ハーモニィ処理は動きが止まって、絵を見せるカットだ。見せたいところだから、そこを止めているのである。

例えば下世話な話、あなたがエロゲーを作ることにしたとしよう。そうしたらエロシーンはあなたの好みの女の子と趣味にあったプレィをするところを絶対に入れるし、一番最初に考えるだろう。例えば妹系の女の子を可愛がるのが夢のあなたが、お姉さん系にしばかれるところを最初に考えることはないはずだ。これがハーモニィ処理で描かれるシーンである。映像作品として思いついた「決まっている」ショット、それがハーモニィ処理で描かれている。

そしてここからが大切なことなのだが、君は森の中で妹系の女の子が可愛くて仕方なくなり歯止めが効かなくなってしまい致し始めるシーンを描いていたのに、やはりするからには乗っかってもらうのもいいな、と思い描いてしまったりはしないだろうか。これが蜻蛉玉である。蜻蛉玉つまり未来のカケラは「これもいいな」というブレーンストーミング状態である。

未来のわたしがぜーんぶ解決してくれますように!

だが、ちょっと待ってほしい。森である。自分が寝転がって女の子にお乗りいただいたら、背中がすごいことになるだろうとか痛くないかとか、相手も膝が痛いだろうとかマムシがでてきたらどうしようとか、終わった後いろいろ拭き取るティッシュもねえなとか、いろいろ考えてしまう。そういうの全部無視したい……。

「絶対に描きたいシーン」のハーモニィ処理と「こんなのもいいな」の蜻蛉玉だけ並べて作品をでっち上げたいのに、どうしてもそのままだと上手くいかない。ので、しかたない燃え上がって行為に及んだわけだけど、おもむろにブルーシート敷くか、みたいなことをやったり「たまたまそこに偶然新品のブルーシートが敷かれていました」みたいにしたり、普通はそうやって妥協する。

だが、グラスリップは一切妥協しなかったのである。それぞれの色が違っても全然構わない、とにかく綺麗な未来のカケラを集めてUHFの電波にのせて夜空にポイっとなげて、花火のようにきれー、とやりたかったのである。その燃えかすが観客に直撃するほど至近距離だろうが、でかすぎて認識不可能だろうが気にしない、そういう態度がグラスリップである。そして、それは「未来のわたしが、ぜーんぶ解決してくれますように!」」だ。

なのでやなぎは全裸で屋内を闊歩したり、競泳水着姿の女子中学生がいきなりチャリできたり、突然季節が冬になったり、転校生の役どころが駆から透子になったり、出会うタイミングがズレたり、百さんが病室から出てきて泣いたりするのである。

人生の物語を描くために

作品の内容と作りを混ぜて書いているのではないか、と思うだろう。混ぜて書いている。グラスリップは作品の内容と作り方が完全に一致していて融合してしまっている。言行一致である。だから、気づかないと本当に意味不明になってしまうのだ。

だって、人生を作っていくって、そういうことではないだろうか。「あの子と付き合いたい」「きらわれたくない」でも「隙あらばヤりたい」。「あの学校に行きたい」でも「ゲームもしたい」。「いいところに就職したい」でも「ゴロゴロしていたい」……。そんないろんな「こうだったらいいのに」があって、それについて「未来の自分」はなんとかするように折り合いをつけていく。矛盾をできるだけ小さく納めて解決していく。

そして、この「こうだったらいいのに」が、想像ではなく「未来のカケラ」というある意味僕を混乱させた、よくない手段を講じて描かないわけにはいけなかった理由もわかる。もし「未来のカケラ」を使って描かなければ、その想像は妄想になってしまい、ギャグになってしまうので流れが壊れてしまうのだ。

グラスリップにおいてギャグは古典的にわかりやすい擬音などと共に描かれる。それは、息抜きのようなもので、しっかり休憩するためだ。やなぎのいう「休憩所」である。なぜなら、グラスリップというアニメは他でもないP.A.WORKSというスタジオが作っている。このスタジオはこの作品に必要な情報をしっかり注ぎ込める。グラスリップの成立には「この世界ではない理想的などこかの世界」ではなくするための「現実感」を実現するための情報量が必要不可欠だ。そして、だからこそその情報量に頭がヤラれないように、休憩が必要だ。エンディングも「今回の情報」を整理するための息抜きの時間だと捉えたほうがいい。

現実感とは、何か

僕は一般的に「現実感」と呼ばれているものを「現実感」と「納得感」に分けて考えている。例えば、僕はシン・ゴジラに現実感があるとは思わなくなっている。僕は首相官邸に入ったことはないし、官僚と仕事をしたこともない。だから、今からそこに行っても、そこに現実感は感じずむしろ非現実感を感じるだろう。僕は、シン・ゴジラの公開当時「東日本大震災を思い出した」という人がたくさんいたのでびっくりした。僕は首相官邸内部の動きなんか知らないから、思い出しようがないし、地震にはあったが津波にはあっていないので、まったく東日本大震災とは関係ない作品として見ていた。よくある「怪獣映画の災害描写」と思って見ていたし、今も見ている。

けれども、シン・ゴジラの登場人物たちの行動や発言がお伽話のように見えるということはない。「きっとこういうことになったらこういうことになってしまって、テレビの向こう側で見ている僕たちにはこんな風に見えてしまうんだろうな」という感覚がある。それは現実感ではなくて納得感だと思う。

僕が現実感と納得感の話をする時、現実感の例として松前緒花の東京北陸間の移動手段を挙げる。緒花は資金を提供されたときは快適な新幹線と特急で東京北陸間を移動する。一方、個人的な事情の時は高速バスだ。そして、仲間とともに行く時は喜翠荘のバンで移動する。東京北陸間でなくても、ある程度の距離を移動する時、こういう移動手段の選択をする、という人は結構いると思う。そういう人にとってはそれが現実感だ。

街を丁寧に描いて、そこにキャラクタ達を迎え入れ、そして現実感のある描写を積み重ねていく、そうすることで「典型的な成長物語」の伝わりかたは強くなっていく。だから透子は「駆くんがこの街に来てくれてよかった」と言うのだ。

P.A.WORKSの持っている力

P.A.WORKSの特徴を語る時に「現実の地域を元にした舞台設定」と「美しい背景」を取り上げる人は少なくないだろう。それは現実感や納得感の補助であり、P.A.WORKSはそれを作ってきた技術と実績がある。現実の写真をそのまま背景にするということではなくて、作品に寄り添うように改変していく確かな技術がある。現実そのままであれば、現実感は生まれるかもしれないが、映像作品としてのおもしろさを失っていってしまう。それを巧みに避けていく歴史に裏打ちされた強い力をP.A.WORKSは持っている。

設定も同じで、すべてが現実的である必要はない。僕だってカゼミチのような溜まり場はなかったし、あんな恋愛に発展するような高校生活でもなかった。でもそれによって描かれたグラスリップの「憧れの世界」は僕らにとって絶対にありえない「ここではないどこかの世界」というわけではないはずだ。それはグラスリップという「典型的な成長物語」が「定番の手法」でなく描かれた稀有な作品としての下支えになっている。そして作品の作りはハーモニィ処理と未来のカケラ、つまりP.A.WORKSが描けるものを精一杯書いて、不用なブルーシートを敷いたりすることなく、夜空に放り投げて花火のようにきれいだと楽しみ、その結論を未来のわたしに託している。だから、グラスリップP.A.WORKS史上最もP.A.WORKSの良さが出た作品だったのではないだろうかと今は思っている。

花咲くいろはの傑作回「微熱」と「プール・オン・ザ・ヒル」にもあった、なかなか深夜アニメではお目にかかれない映画的なゆったりとした時間の流れを作り出す映像技術と、その尊さを評価し、それを許してくれる衣付きの製作が、P.A.WORKSにはある。だから、こんな作品が作れたのではないだろうか。

おわりに

真夏のプールから見上げた空に舞う戦闘機がファントムからイーグルに変わるような、確かな、でも穏やかな違いを丹念に描くことで、「典型的な成長物語」を「この世界は生きるに値するんだ」と描けた作品である、そう捉えてもう一度見れば、きっとグラスリップは輝く作品だと思う。

その少なく幼い台詞や、細やかなふとした仕草、舞台を包む光や風や色からは、高校生活最後の夏の儚い輝きとその喪失、そして僕らが自ら切り開いていく未来が確かにあると思えたら、それはとても素敵なことだと思える。「今度の明後日開いてる?」という現実感のある不自然な問いかけ、「雪くんにひどいことしてるのかな?」という具体的でもさほど深刻でもない微妙な不安、「カッコ悪くならないでください」という拙くしかし切実さの伝わってくる訴え、「僕、帰るね」という大切な人に向けての譲れないラインの提示、「やっぱ、お前と話すと落ち着くわ」という不器用で恋から始まったのではない愛から始まった恋愛につながる言葉、それは「なんでもない」ことかもしれないが、それは大切なことだと思えるかだ。同じ意味の言葉は確かにあるが、違う意味で言っていると思えるかだ。

逆に、そこに価値を感じられないのなら、多分、グラスリップは「合う」作品ではない。

「私って、わかりやすい?」と今きかれたとしても、やはり「そうでもない」と答えてしまうだろう。でも僕は、偶然この魅力に気づいたわけではない。この作品の魅力を「見たいと思ったから見えた」。そして自分が「俺は透子が見たかった」ともう一度思えるなら、ぜひ見てほしい。僕は、本当の透子の美しさ、僕らの生きるこの世界が生きるに値するのだと示してくれた物語の主人公の素晴らしさを伝えたくて、この文を書いている。透子は「なんにもしてあげられてない」と言うのだが、僕らは彼女の人生の物語を見て、それで十分なのだ。そこからどうすべきかは、自分で考えることなのだし、星がないのなら、今度は自分で自分の未来のカケラをつくり、星を作れば良いからだ。

見始めても「お前、なーんも変わらないな」と思うかもしれない。普通そうだろうと思う。けれども、僅かな沈黙の後に、その可愛らしい純粋無垢な表情を前にして「……変わったのか?」と僕は思えた。そういう、作品の内側と外側が柔らかくつながり、揺蕩う快感を得られる、そんな作品だと今の僕はグラスリップを評価している。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170430164355j:plain