六月の開発局

「業界の人」じゃないよ

ガールズ&パンツァー最終章第一話について

僕は8年前に映画を撮ったとき「演出とは時間の使い方」と定義してことに臨んだ。庵野秀明総監督が細かな動きの時期にこだわって作品を作り出しているところを去年確認し、今年もこういう作品に出会えて、あの時の判断は間違っていなかったな、と思える。49分の上映時間はとても長く感じられて、それは非常に豊かで楽しい時間だった。

劇場版で素晴らしいものを見せてくれた作画は今回も健在で「総天然色漫画映画」として本当に楽しかった。小さな動きの質がとても高く、じっくり何度も眺めたいと思ったものだ。不穏な話も漏れ伝え聞いているが、なんとか大勢の納得できる形に収まって欲しいと思うばかりだ。

それから、音響は相変わらず素晴らしく、ここ数年のアニメ作品の中では並ぶものがいない出来である(歴史を振り返ったら08年にスカイ・クロラというのがあったのを思い出した)。ただ音が大きいのは映画館なら当たり前のことで、どんな音が鳴っているのかその音色の豊穣さや滑らかさを映画館では楽しみたい。本音を申し上げると、シン・ゴジラに最優秀録音賞を与え、ガルパンに優秀録音賞すら与えない日本アカデミー賞はこの点を問われるべきだ、もっと率直に言えば国内最高峰の映画賞の有り様として誹りを免れないと思っている。

さて、ガルパンは女の子と戦車という大帝の男の子が大好きなキャラがメインのアニメである。このキャラがいかに活躍するかが大事なわけだ。だから、他のことをいかに端折るかという話になる。劇場版のストーリィもだいぶ雑だったが、今回は雑さに磨きがかかり、開き直って「じゃ、こういうわけで戦車するから」という具合である。潔くて大変よろしい。

さて、ガルパンでも内面の物語つまりドラマを楽しめるのではないか。という話を以前書いた。俺がまほケイダジが好きなのでまほに対する感情移入でばかり書かれているから要約してここに書くと、要は「西住みほという自己犠牲の精神しか持てず、優秀な野戦指揮官にはなり得るが決して指揮に徹することのできない妹が結局どうにもならなかった」にも関わらず「当人も周囲も概ね幸せになれた」のだからよかった、ドラマとして「読んだら楽しいよね」みたいな話である。

テレビシリーズ、劇場版と通じて西住みほの「社会」における成長と、「戦場」における限界が描かれたのである(そういう見方をすれば)。で、蓋を開けたら最終章は、河嶋桃という大洗女子学園において最初に登場したみほの苦手としていた「社会」の化身を隊長としてを置いて、その現場指揮を見守る、つまり「社会」における成長したみほが「戦場」における限界に達したみほを通じて誰かを育てる、社会と戦場の融合が発生したのだ。なるほどそう来たか、と思ってとても期待している。

押井守監督はヒーローの物語とはヒーローが何かを為すことで自身をが変えることだと言っており(世界の半分を怒らせる。第14号を参照のこと)、西住みほは確かに大洗女子学園やその生徒たちを救うことで自らが救われたのだ。そして今、再び誰かを救うことで自信を、さらなる成長を見せようとしているのでは、ないか、そう思うのである。そしてもし、彼女が「自己犠牲の精神」以外の何かでダージリンを打ち倒すことができれば、これは大変素晴らしいことなのではないのだろうか。

ともかく、はじめ方として本当によく出来ていると思ったし、こうしてもう一度内面のお話、ドラマを作り出し、目的のために洗練された外面のお話ストーリィを持っているのだから、しっかりと6話でTV版第一話から始まった「大洗女子学園に生きる戦車道チームの物語」を不可逆かつ継続不可能な形で終わらせてほしい、完成させてくれたら本当に嬉しいし、今後の流れに関わらず作品として期待している。

さて、大波のフリント嬢を演じられた米澤円さんは大変お歌のお上手な方で、彼女の1stアルバムに収録されている「ハートフル・ドリーマー」という曲は彼女の声の良さを存分に引き出した大変良いお歌なのだが、あまり知られていないので書いておきたい。iTunesでも配信されていて試聴できる。それから、彼女の実質的な1stアルバムであるWHITE ALBUM2 ORIGINAL SOUNDTRACK~setsuna~は廃盤になってプレミア価格になってしまって、配信だと「深愛」が聞けないそうなのだが、とにかく良いアルバムなのでオススメである。くわえて、津田朱里さんとデュエットした「White Love」が存在するのだが、これはディスクにしか収録されていない。しかし、これも大変良いのでオススメである。

1stアルバム発売以後、僕の知る限り彼女の歌うたいの活動というのはあまり目立ったものがないのだが、是非これで人気が出て二枚目の個人のアルバムが出てほしいなと思っているのである。

GODZILLA怪獣惑星と、ある意味最もゴジラシリーズと相反する脚本家・虚淵玄の作家性

GODZILLA 怪獣惑星が公開されて一週間が過ぎた。いくつかレビューをみたが、その中で本作の終盤の展開が「脚本が虚淵玄らしい」という評価を読んだ。が、僕はちょっと違う見方をしているので、それを書こうと思う。

終盤の展開、つまり倒せたと思っていた敵だったがもっと強い敵がいた、という展開は別に虚淵玄らしさだとは思わないし、驚きもしなかった。三部作の映画であっさりタイトルロールが殺されるわけがないのだ。本体は他にいるに決まっている。

まあ、そんな僕の感想はどうでもいい(かなりひどいことを書きそうだし)。僕は虚淵玄の作家性は次の三点に集約されると思っている。それは1. 文明への信頼、2.論理を積み重ねた物語の展開、3. 倫理を踏みにじる根源的な悪だ。

どういうことか説明しよう。僕が最初に触れた虚淵氏の作品はFate/Zeroだが、当作の主人公衛宮切嗣は魔術師でありながら現代的な火器を駆使して魔術師を殺めるものと設定されている。剣と魔法の物語に銃と爆薬での決着を持ち込むのがこの作品である。 翠星のガルガンティアでは「人間らしさとは知性をもって文明を作り出すことであり、生物としての幸福と快楽を追求するだけなら知性は不用であり、人間としての尊厳を保つために知性と文明を否定する存在とは戦わなければならない」と文明を否定することを断罪してきた。 PSYCHO-PASSにおいて、主人公常守茜は人類が生み出したあるいみ叡智の結晶である裁定システムかつ悪の塊であるシビュラシステムを「今の世の中がシビュラ抜きでは成り立たないのも事実」と肯定し、「きっと新しい道を見つけてみせる」とさらなる文明の進歩を目指していく。

また、虚淵氏は「"理にかなった展開"だけを積み上げて構築された世界は、どうあってもエントロピーの支配から逃れられない(フェイト/ゼロ 1 第四次聖杯戦争秘話)」と自身の作風をFate/Zeroの時点では嘆いていたが、魔法少女まどか☆マギカでは、論理で宿命を逆手にとってやりこめる中学生の姿を描き、幸運な結末を導いた。さらに、翠星のガルガンティアでは論理を積み重ねた結果、救いを得た物語と破滅へ辿り着いた物語の両方を描いている。PSYCHO-PASSは感情を制御して論理に基づき法と正義を執行しようとする女の物語である。

そして、騎士道精神を謳って無駄に命を消耗させた輩や、魔術師の探究心といった下らぬもののために無辜の人々を虐殺して厭わない輩どもをFate/Zeroでは糾弾し、魔法少女まどか☆マギカでは少女たちの絶望による宇宙の維持を神の力でねじ伏せ、集団を恐怖で支配した人工知能翠星のガルガンティアでは退場を言い渡し、PSYCHO-PASSでは大義のために多くの人間を殺した犯罪者を容赦なく射殺した。楽園追放でも悪は「嘘つき」として明確に倫理的観点から批判されている。

僕は世間一般が何を「虚淵玄らしさ」と呼んでいるのか、よくわからないが、あまり本数を見ていない僕からすると、以上の三点が虚淵作品の特徴である。

さて、虚淵氏がゴジラシリーズの脚本を書くということは、ある意味シリーズの根底に流れるものと、彼の作家性と真っ向から反するということである。ゴジラシリーズは当初から「人間の科学文明に対する警鐘」と見做されているフシがあり、もちろん第一作でも「もし人類がこのまま…」と山根博士が危惧を表明している。他にも例えばゴジラVSビオランテは最終盤のモノローグなどで文明を批判し、VSメカゴジラでも科学よりも命あるものが勝つんだと(よく考えたら意味不明なことを)言っている。2000ミレニアムも科学者たちが科学の進歩を批判するなどそういった主題が明確に打ち出されているし、シン・ゴジラは比較的オープンな姿勢とは言え、完全にそういったものを持たないわけではない。尾頭ヒロミは本当に怖いのは私たち人間かも、となんの脈絡もなく突然言いだすのだ。当然、ゴジラ対ヘドラもその系列にはいるだろう。文明の進歩は危険を招く、という態度が特に平成ゴジラには顕著であるが、本作の脚本を担った虚淵氏は繰り返し文明を肯定してきたのだ。

一方、GODZILLA 怪獣惑星は、論理を積み重ねてゴジラを駆除するのがお話の芯となっている。そして、この駆除作戦は明らかに文明の上に成り立っており、そこに対する憂いは微塵も感じられない。

となると、残る虚淵氏の作家性とは倫理を踏みにじる根源の悪である。冒頭、その影が見えたが、それは簡単に否定されてしまった。ハルオが批判した棄民は、当人たちの切実な願いと利害が一致してしまったからだ。

しかし、GODZILLA 怪獣惑星では文明を否定することを仄めかしたものがいる。僕は、彼こそが本作の「倫理を踏みにじる根源的な悪」であり、その悪行とゴジラは密接に関わっているのではないか、と思っている。

そして、虚淵氏の作品はある特定の歴史上の大きな出来事から構造を切り出したものが多い。PSYCHO-PASS魔法少女まどか☆マギカ翠星のガルガンティアがそうだ。その路線で行くのなら、おそらくメトフィエスは「CIA」という役どころになるのだろう、と想像している。

ゆるぎない、その日を。再び。 -Happy Birthday, again-

いつ、どこに行くのか。旅行はそれが問題だ。

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今日は、24年の長きにわたりスーパーあずさとして君臨したJR東日本E351系電車が退役するときき、別れを告げるために秋の信州へと旅立った。8時ちょうどのスーパーあずさ5号で、最後の旅へと出かけたのである。

今は亡き、さほど偉大でもない僕の父と、僕は何度か甲府や松本に行っている。父は給与の多くを血に溶かして便器に流し、煙と快楽物質に変えた男であったがドケチでもあったため、かいじきっぷで甲府に行くか、あの手この手を駆使して青春18きっぷで出かけるのが常だった。

そんな旅行の道中、横目に見たE351系グリーン車は輝いていて、とても憧れていた。あれから何年もの時が過ぎ、何度かスーパーあずさには乗ったが、それでもいざ、なくなるとなると、会いたくなってしまった。

晴れた車窓から外を眺めていると、美しい景色が流れていく。彼女に替わって新たに中央東線に君臨するであろうE353系の有志も一瞬見ることができた。抜けるような青空の下の河川敷には自慢の巨砲を構えた猛者達が連なり、最後の秋の姿を仕留めようとしている。

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先週の三連休は、長野と山梨、静岡に福島、山形そして秋田と栃木と旅行した。その長野ではE351系の姿を収めようと思ったのだが、時間が悪く、結局もう撮ることはないだろうということになっている。E351系の写真など山ほどこの世には存在する。それなら、自分はまだない写真を撮りに行こうと思った。

僕が鉄道や航空機を収めるためのレンズを揃えておらず、手持ちの望遠でまかなっているためにそれらしい鉄道写真が少ないのは、そのような用途に使う超望遠レンズが他の用途に使いづらすぎるからだ。そしてそういったレンズで撮れる写真は、誰が撮っても似たような写真になってしまい、そして専門にしていない自分の写真はそれらの中で最も劣る一枚になる。それなら他人が撮りにくい、自分が描いている情景を切り出す写真、自分の技術や感性が世界で最も輝く一枚を撮ろう、と思うからだ。

けれども、今日のトンネルの中で見ていた記事にE351系の写真が出てきたとき思ったのは、今までとちょっと違うことだった。

「僕はE351系を思い出す時、この写真を思い出すだろうか。例えば今はなき北越急行色のはくたかを思う時、どんな見事な鉄道写真よりも自分の撮影した写真を思い出しているのではないだろうかーー」

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よく「写真ばかり撮っていると思い出が残らない」と言う人がいる。僕はそうは思わない。一葉の写真を見たときにそこに至るまでの過程、どんな心持ちでシャッタを切ったか、その時の温度や湿度、その旅行で楽しかったこと、美味しかったもの、いろいろなものが思い出せるからだ。

たとえ誰かの作品と同じような構図となっても、それが他人に劣るものであっても、撮りに行ったときの様々なことはその車両のかけがえのない思い出で、大切な物語の一部になるのだ。

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今年は春先から小説を書いた。揃って言われたのは「文章が下手だ」ということである。とにかく読みづらい、と散々言われた。そして、自分でも読み返すとまったく訳のわからない文章を書いている。

小説に限ったことではない。このブログの記事もなんだよくわからない文章がつらつらと並べられている、そんなことが少なくない。後で見返すと、酔っ払っていたのではないか、と思う水準だ。

ただ、そんな中でもなぜか旅行記、紀行文だけは妙に評判がいい。もっと書くべきだ、読みたい、写真と合わせて売ったらどうか、そんなことを言われるので、ありがたいことにスペースを頂戴できた今年の冬のコミックマーケットでは、青森の写真集「わたしの青森の物語」を出す。場所は、日曜日東地区“P”ブロック-47bだ。

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帰りの北陸新幹線ではグリーン車に乗った。JR東日本の新幹線には「トランヴェール」という小冊子が背もたれのポケットに入っており、ここには沢木耕太郎の「旅のつばくろ」というエッセィが掲載されており、大変楽しみにしている。毎月新幹線に乗っているわけではないので、なんとかバックナンバをすべて揃えたいと考えているほどだ。

沢木耕太郎の文章はいつも切れているが、今回も上手いな、と思わされた。「ソフィスティケート」と彼は<洗練>を外来語としてカタカナで表現したのだが、彼がなぜわざわざ外来語の方を利用したのかが強く伝わってくる。カタカナの並んだときの異質な感じ、少し鋭すぎる感じが、その記事の意図するところには大変ふさわしく感じられた。

今は亡き、さほど偉大でもない僕の父も深夜特急を愛読していたので、彼の遺した初版本は彼の最後の旅路に持たせた。僕はその父に一度聞いたことがある。僕の名前の字は、沢木から取ったのか、と。

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10年前の今ごろ、大学生活始めての冬を迎えていた僕は、課題で映像作品を作るように要求された。そこで、他人が撮りにくい、自分が描いている情景を切り出すカット、自分の技術や感性が世界で最も輝く作品を撮ろうと考えた。

自分の知っている、自分だけが見ている情景を重ね、沢木耕太郎深夜特急を携えた青年が、御茶ノ水駅から中央本線に乗り旅に出る作品を作った。タイトルは「ゆるぎない、その日を。-Happy Birthday-」だ。その作品がすべてを回し始め、たくさんの作品を作り、今では映像を作って金を稼ぐようにさえなっている。写真も、あの頃とは比べ物にならないほど上手くなった。映像を作るために描き始めた当初の絵を見た人たちは皆「何が描いてあるのかわからないぐらい下手だった」という。そして絵を描くようになり、上手くなった。だから、文章も書いていけばきっと上手くなるだろうと信じられる。

もちろん、あの時もっと上手ければ、と思うこともある。遅すぎたのではないか、そう思うこともある。それしかない、と言ってもいいかもしれない。どんなことにも、10年の中を振り返るだけでも、数え切れないほどある。

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だが「今が、時だ」そう思うようにしよう。そして、今日、行くべきだったのだ。

わたしにできること

Twitterでは散々書いているが、先日の第七次米子映画事変で行われた第10回全国自主怪獣映画選手権<米子大会>で、新作「空」を発表した。コンペティションとしては堂々の無得点、当然の最下位に終わったが、以前から何度も書いているようにコンペティションの結果は自販機の二本目なので、別に構わない。

作品がこうして世に出て大勢の方に見ていただけたこと、田口監督を始めとした何人もの実力ある方たちからいろいろな形で叱咤激励いただけたこと、新しい出会いがあったこと、嬉しいことはたくさんあるが、実は一番嬉しいこと、満足していることは、自分の「絵を作る能力」をちゃんと示せたということだ。

僕は5年前の夏、東京で映画を撮っていた。それは未完成の映画になってしまったけれど、その時得られた輝いたショットはこの夏の終わりにすべて使いきった。そして僕はそのショットに自信を持っている。その自信があるから、一歩前に踏み出してみよう、そう思ったのだ。なぜそんな自信が持てたのか、それはいつになるかわからないけれど、その作品を公開する日がくればきっとわかるだろう。

ただ、言葉で説明するなら、そこには、僕の観る絵の強さがある。小説としては歪でとても勝負にならないものを作ったかもしれないが、お話としては戦えるものを作った。同じように、写真集としては勝負にならないものかもしれないが、絵としては戦えるものにできる、そう思えた。

「ああ、豊住はこれだけの話を作れて、これだけの絵を作れて、これだけ時間を作れるのだから、その力が発揮されれば本当にすごいものを作れるんだろうな」と思ってほしいから、作れる、そういう気になった。

そして青い森へ旅立った

実際に「(合成の)下絵はよかった」とか、たくさん言ってもらえたので、素直に嬉しい。そして、僕が昨年やった破壊のこともちゃんと覚えていて、こうしたらいいんじゃないかとか、優しく導いてもらっていることはわかるので、難しいことはたくさんあるけれど、やっていこうと思っている。物語を感じたい、とかそろそろちょっと長い、お話を見たいとかも言ってもらえているので、次はちょっと長いものを作る予定だ。田口監督と間宮さんにはこっそり話した。

どう考えても手が足りないので、ここで募集することもあるかと思う。その時は、よかったら、手を差し伸べてほしい。

filmassembler.com

もちろん、映画を作っているが、映画だけを作るわけではない。既報の通り、小説は書かれているし、同人誌も作っているし、写真集も作っている。できれば、楽しみにしていてほしい。いろいろなものを作っていくことが、すべての作品をより良いものにしてくれると信じている。いろいろな経験が、自分にできることを育て、また経験を豊かにしてくれるからだ。

働く女の子シリーズについて

はじめに

P.A.WORKSの働く女の子シリーズ最新作、サクラクエストが放送を終了したのでちょっと書く。

先に個人的な感想を明らかにしておこう。残念だった。一方でサクラクエストはなかなか期待していたからだ。だから、なんでぼくは残念だと思ったのか考えようと思った。それは自分が作品を作る時に、同じ轍を踏まないようにするためだ。だから「働く女の子シリーズ」を分析するが、目的は「ぼくの価値観の明確化」である。したがって「働く女の子シリーズ」の解説をしてはいない。誤解しないでほしい。あくまで個人的なものである。こういう見方が正しいとはまったく思っていない。ただ、ぼくの感想としては正しいものを書いたつもりだし、残念なのは楽しく見る切り口を見いだせなかった自分自身であることもよくわかっている。けれども、その自分の本質のところを悔やむより、そこに優しい作品を作ることのほうがぼくにとっては大切だ。もちろん「いや、こういう見方もあるんじゃないかな」というのを教えてくれたら、嬉しい。

売れた作品を分析して取り込もうとするのではなく、気に入らない作品を分析して取り込まないようにするのは変わっているな、と思われるかもしれないが、売れた作品を分析して取り込もうとすると、歪なものになりそうな予感がするだけだ。

一応書くと、何度も書いている通りP.A.WORKSの作品では花咲くいろはが一番好きだ。それから、SHIROBAKOは前半はよかったと思っている。つまり、後半は好きではない。

だーっと勢いに任せて書いたので後で直すかもしれない。

ざっと書き上げる

まず、ちょっと思いついたことを表にしてみた。

花咲くいろは SHIROBAKO サクラクエスト
ホーム/アウェイ アウェイ ホーム アウェイ
ステージ変更 多い ほぼない ほぼない
立ち位置 素人 プロ 素人
周囲からの評価 低評価 高評価 低評価
プライベート空間 ない 自宅 一部屋
就業形態 奴隷労働 雇用形態は不明だが友人よりはマシ 任期付だが安定
逃げ場 序盤、ない 実家 実家
個人の希望 物語の中のような人生 なんとなくアニメ作りたい 普通じゃないことがしたい
個人的な対外関係 こーちゃん ない ない
家族のお悩み 母のこと ねいちゃんのこと ほぼない
職場以外の戦場 学校 ない ない
名目上の責任 お客様へのサービス 作品の完成 一市町村の未来
最大の権力 ストライキ 予算 契約解除
体力勝負 それなり 一番大変 わりとふつう
最後 消滅 継続 半消滅

こうやってみるとわかりやすいと思うが、ぼくはどうやら、選定も含めて、主人公にどれだけ厳しい条件が突きつけられているか、というところを好むらしい。

同じ働く女の子シリーズでもSHIROBAKOのボーナスステージ感が強い。宮森あおいは困難を乗り越えていくが、周囲のサポートが実に手厚く、精神的な負担が比較的少ないのである。ただ、制作進行という立場上体力負担は半端ない。

木春由乃は安全な立ち位置を確保しつつ、困難に立ち向かうことになっている。重いのは、預けられているものの大きさだ。他の2人とは桁が違う。名目上は一行政区域の将来がその細い双肩にかかっているのである。

対して松前緒花の負担は異常である。メインタスクたる喜翠荘の盛り上げ以外に、考えなきゃならないことがいろいろある。そもそも違法な労働環境に身を置いており、「実家に帰る」という逃亡手段を封じられているのである。簡単に言えば、奴隷状態である。持てる権力といえば、ストライキを初めとした職どころか衣食住を賭すものだけである。せめてもの救いは担っている責任が自分がやらかしたところで零細旅館の評判が落ちるだけ、という軽いものであるところだ。

また、こういった主人公が抱える問題について、花咲くいろはが特徴的だったのは、少しずつ解決していったことだ。まず、こーちゃんについて、7話8話で少し進める。つづいて、皐月の問題について、11~13で一歩進める。こういう「進める」時に、緒花個人の内面の成長も確かにある。そして、23話あたりからまた解決していく。緒花だけではなく、縁と貴子の関係なども、複数の話にまたがって少しずつ進めていく。ぼくはこの作品の現実感ある問題の解決プロセスが好きなのだと思う。

考えてみると、木春由乃にはまず解決したい長年の問題がメインの希望以外殆ど無い。そして内面の未熟さや関係上の問題が、凛々子や真希にアウトソーシングされている。菜子や民子にも内面の未熟さや他者との関係上の問題はあったが、それは緒花とは別の話として存在した。前述の通り貴子や縁、それどころかスイにさえ存在するのである。

宮森あおいも似たようなもので、内面の未熟さや他者との関係上の問題はをむしろ解決する調整役である。そして、調整役の一番つらいところ、つまり「どっちの言い分も明らかに正しいけれど自分はどちらかにまとめなければいけない」に向き合うことはほとんどなく、平岡とタローという明確な悪役を仕立ててこれらを排除するかその被害回復によって話をドライブしたり、宮森の熱意で周りの人が言うことをきいてくれる場面が多い。要は根性で押し通してしまうのだ。このへんは後で説明する。

流れ…というか…

また、花咲くいろはでは微熱やプール・オン・ザ・ヒルといった、異質で静かな回があったり、ステージ変更つまり緒花の東京石川移動があることが、作品全体を引き締めていると感じる。こういう回がないと「またこういう話かよ」と感じてしまう。いろいろ変化をつけるが「あ、まあこういうことは普通にあるだろうな」とすんなり受け入れられる範疇だった。

サクラクエストは二話ごとに事件が起きてはい解決、の連続感があった。異様に「新しく誰かが現れて問題解決と共に消滅」という回が多いことがわかる。もちろん、花咲くいろはもお客様は現れるが、基本的に脇役であるか、後にシリーズ全体の伏線であったことがわかる。単発で物語の中心に出てきたのは、サバゲーマー、宮崎のゲストだけである。ところがサクラクエスト、木彫り職人、映画部隊、婚活部隊、UMAハンタ、ロックバンド、大学教授とかなりの人間が突然登場し、概ね2話でその役割を全うし、去っていく。「またこれかよ」と感じてしまった。そして、全然、限界集落一歩手前ではないのである。めっちゃ賑わっている。

SHIROBAKOはどうかというと、敷いた線がめちゃくちゃになるか不愉快な終え方をした印象が強い。まずSHIROBAKOでぼくが一番不愉快に思ったバッティングセンタの回について話しておきたい。この回ではスランプに陥った井口を呑みにでも連れて行くか、と木下が提案すると、それを小笠原が窘める。皆がお酒が好きなわけではないと。これは理解できる。そこで小笠原が何をするかというと自分の趣味であるバッティングセンタに彼女を連れて行くのである。やってること一緒じゃん。そして、この騒動を見ていた宮森が、なかなかチーム内に溶け込めない平岡に何を言うかというと、打ち上げに来るよう言うのである。あれだけ強い言い方をして木下を小笠原に否定させて、普段あの手この手で否定している平岡に対しては木下がやろうとしたことをする、このめちゃくちゃな具合が不愉快だった。

この後も平岡の扱いはひどい。平岡が昔は丁寧に頼んでも誰も言うことをきいてくれなかった、と彼がやさぐれている原因を打ち明ける。ならば、宮森はそういう境遇を体験するなり、新しいやりかたで解決すべきではないか。が、矢野は逃亡する演出にニッコリ笑うだけでコトが済んでしまう。けれども、平岡がみどりに「女はいいよな」と言うことは否定する。ここまで平岡を追い詰めるなら根本的な救済か、宮森や誰かによる彼の心情の理解が彼にあってほしいとぼくはおもう。けれども、呑み会に来い、であり、なんとなく耳障りの良い形で収めてしまう。

この原因には女性キャラに無謬性を確保しようという思惑があったことは感じられる。が、それをする価値よりもあまりに歪な価値観――イジメをみているだけのような気がして不愉快だった。

対立の構図

働く女の子シリーズに限らず、PAの作品でかなり前に出てくるのが、意見の対立である。とくに花咲くいろはtrue tearsには実力行使を伴う闘争が起きており、SHIROBAKO でも興津の介入によって阻止されたがあと一歩のところまで辿り着いている。

さて、花咲くいろはは対立こそが物語の主題である(true tearsも一緒)。つまり、序盤で「自分たちは二の次三の次」と言い切ったスイに対して、緒花がそれはおかしいと反駁し、最終的に落とし所を発見する、というところがお話のうち、内側の部分、ドラマの部分である。そして、いろはには他にもさまざまな対立構造があり、例えば終盤従業員が廃業阻止に向かおうとするとき緒花はこれにも反旗を翻しており、緒花は孤独で困難な戦いを自ら引き寄せる。そしてこれら対立の多くを魅力的にしているのは、一応緒花の側に正義があるように演出してはいるものの、相手の側にも正義を与えているところだ。緒花が修学旅行中に手伝いをしたいと言えば、それは自分たちの問題だが気持ちだけもらっておきたい、というのは、正義である。文化祭でオムライスを出すか出さないかの時明子とクラスメイトが揉めるが、どちらも正義である(文化祭で好きな男の子に思い入れのある料理を出したいという気持ちが正義でないと言うのなら好きにしろ)。

それら正義のどちらかを取るのではなく、なんとか落とし所を見つけようとして、実際に見つけていくのが花咲くいろはの一番好きなところだ。

対してSHIROBAKOは宮森将軍を祀り上げ、宮森は正義の強烈な支援の下敵対する勢力を蹂躙していく。タローや平岡などは作品の中で明らかな悪として定義され、これをいかに宮森やその仲間たちが打ち倒し更生させてめでたしめでたしになるか、というところがお話の外の部分、ストーリィの中心にもなっている。緒花にはつねに落ち度がつきまとっていたのに対し、宮森を始め5人のメインキャラは前述の通り、未熟さは描かれるものの落ち度は滅多に描かれずことさらに無謬性を強調されており、半ば水戸黄門的な勧善懲悪ものになっているが、毎度うっかり八兵衛を陰湿に叩いてお銀のご機嫌をとる水戸黄門である。最近だとプリンセス・プリンシパルもこの傾向があり「おっさんは死んでも構わないが幼女は殺さない」という原則が見えたように思えたので途中で見るのを止めている。別に幼女を殺せという意味ではなくて、こういうイジメを見たくないのだ。

サクラクエストの場合、由乃はこう行った戦いに自ら参戦し勝利することもあれば友人の助けを借りたり、和解を導いたりすることもあり、そして自分の無力さや落ち度に対して極めて素直である。「まだわかりません」とはっきり言う。散々バカ者呼ばわりされているが、かなり人間としてデキているのが由乃である。なんでこんなデキた人間が30社も落ちたのか謎である。真希と早苗から酷評されているが、そうとうデキテている。そして、由乃を始めとしていろんな人間に落ち度があり、それを認めているから、SHIROBAKOに感じたイジメの香りがしなかった。

他にも……

凛々子が内面上のお話を全部持っていってしまったこと、その凛々子があまりに子ども過ぎて好みではなかったことなどまあいろいろあるのだけれど、ちょっと割愛する。

SHIROBAKOサクラクエストの良いところ

ちょっとボロクソ書いてしまったので、SHIROBAKOサクラクエストの良いところを書いておきたい。

SHIROBAKOの何が一番好きかというと、実は夜が好きだ。あれほど夜の時間を魅力的に描いたアニメは珍しいのではないかと思っている。つまり、第一話で小平のあたりを走っていくシーンとか、夜に車を走らせている時の不思議な楽しさがよく描けていると思う。チャッキーの歌を歌いながら運転するところもそうだし、最終話で帰りの新幹線で考えているシーンもそうだ。夜は怪しかったり怖かったり、もしくはロマンチックなイメージと共に描かれるが、そうではないものを描いていて、それはとても素敵に思える。僕は絵を描くのが嫌いなので、描く前はよく7話や8話を見る。それは優しいからだ。

サクラクエストの良いところは、台詞だ。この前も書いたが、とにかくサクラクエストには切れ味の良い台詞がたくさんあった。一度全話見なおして書き出そうと思っているぐらいだ。パッと思い出せるところだと「それは町おこしじゃなくてただの開発です」はよかった。言葉の選び方は気にいらないが、言わんとしているところの明快さ、優しさが良い。ERや攻殻機動隊でも聞いた台詞だが「自分に関係のない家なら燃やしていいの」は額面上のその意味と「町おこし」という行為そのものの破壊性やそこにある暗さを見事に言い表していて見事だったし、そして「だってこの街の人達誰も変わりたいなんて思ってないじゃないですか」は本当に良かったと思う。僕は前も書いた通り、台詞を大事にしたいと思っているから、こういう台詞があったことで、サクラクエストは大切な作品になったのは間違いない。もちろん、SHIROBAKOも大切な作品だ。意外かもしれないが、僕は、自分の嫌いな箇所と好きな箇所をまったく別のものとしてみている。嫌なところは、二度と再生しないだけなので、特に問題はない。

最後に

一番良かったのが花咲くいろはなのに、なんで5年以上もP.A.WORKSのアニメはほぼ欠かさず見ているのか、気になる人がいるかもしれないので、ちょっと書いておこう。あまり言われないことだが、P.A.WORKSのアニメはまず設定がいい。もちろん、ミニ独立国の国王になった女の子、という設定もおもしろいのだけれど、細部の設定が良いのだ。

まず簡単に良いところを言うと汚しだ。なんでもかんでもピッカピカに描くアニメも多いが、P.A.のアニメは人が使い込んでいたり、特にお客に見せるわけではないところの生活感ある汚しが非常に良い。また、物品などの選択がかなり明快で、現実感がある。

こいつの懐にはどれぐらいのお金があって、どんな服が好きなのか、といったことがちゃんと描いてある。だから、些細な行動に現実感が出て来る。花見をしている由乃達のところに会長がツマミを持ってくるとき、そこには彼の財力や人徳や思いやりのすべてが描かれている。SHIROBAKOで迷子になった佐藤が帰ってきた時、弁当をもらえた時の嬉しさ、そういう小さな、でも僕らの人生で大切な喜びが描かれている。そういうことをしっかりやってくる。だから見られる。

そして、設定上の嘘を低減するために無茶なことをやらせない。具体的に言えば、あおいや由乃を高校生にしなかったことだ。絶対的に無茶なヤツらが登場しないとは言わないが(なにせピンク髪の主人公である)、守りたいラインのようなものはちゃんと見えている。

何よりいいのは、終わることだ。P.A.WORKSのアニメは終わる。美しく終わる。この潔さ、美しさは他の殆どのアニメスタジオが持ち合わせていないものだ。大体「次いつやんだろうね」という感じになったり、「え、これかよ」みたいな次を作る。そういうことが、ない。有頂天家族2も良かった。だから、次の作品も見るだろう。

そして青い森へ旅立った

今年の夏は調子に乗って予定を入れていたら七月の週末のうち3回を遠出しており、大変なことになった。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221121j:plain

七夕の週は京都に瑞風が吹いた。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919215857j:plain

新大阪駅の空。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220028j:plain

このあと、地下鉄に乗っていたら路面電車に化けていたという怪現象に出会う。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919215926j:plain

大津線はまた乗りに来たい。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220002j:plain

三連休は毎夏恒例のグランツーリズモに友人と出かけ、淡路島で朝を迎えた。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220103j:plain

小松島は祭の鼓動を湛えていて、それはとても素敵なものだったけれど、写真には写らない。映画になら、写せる気がする。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220621j:plain

練習艦が見学できるとのことだったので、時間まで近くを歩いた。こういう、何気ない景色が好きだ。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220407j:plain f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220441j:plain

今まで中を見させてもらった自衛艦の中で一番古い船になる。今回も隊員の方にいろいろおもしろい話を聞いた。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220746j:plain

四国を横断し、八幡浜の港まで行った。今度は、列車で来てみたい。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220817j:plain

船まで時間があったので、近くの店で夕食とした。テレビから聞こえるオールスターゲームの音は、夏の輝きに深さをくれた。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220837j:plain

別府を経由し、鹿児島の3年ぶりに来た銭湯で朝風呂とする。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220858j:plain

海を越えて、宇宙への玄関口へ。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220915j:plain

連れて行くか迷っていたのだが、出かけに連れて行く決断をしてよかったと思えたショット。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220944j:plain

魔法の時間には、なぜ今日が映画のための日ではないのかと思うこともある。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221110j:plain

フルサイズ不在の夏夜は彼女のポートレート撮影に費やした。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221519j:plain

朝の獣たち。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919222613j:plain

フェリィと自称する貨物船で文明と離れた時間を過ごした。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221440j:plain

宮崎を掠めていく。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221354j:plain

このとき後ろ髪引かれる思いで走った道から見える空の色はとてつもなく美しく。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221427j:plain

三重の夏には志摩風が吹く。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220217j:plain

大旅行の終わりの夕暮れ。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220234j:plain

宇宙への玄関口からの帰り道、地球への扉が清水の夜に見えた。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220317j:plain

最後の週末。水上の雨の中、鉄騎はその勇姿を披露する。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919220338j:plain

雨色の信濃川を眺めたり。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221151j:plain

映画を撮るんだ。再び。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221309j:plain

この小さな旅行から帰って来て、僕はこの駅から夜行列車に乗り、青い森へと旅立った。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170919221321j:plain

こうして写真を撮っていて、自分の周囲の人に見せると「上手いね」と褒めてもらえる。「壁紙にしても良いか?」とか聞いてくる人もいる(当然だがそういう使い方であれば好きに使って構わない。私的複製の範囲なので、僕が押しとどめられることでもない。誰に対しても許可を求める必要はない)。とても嬉しい。

そして、僕が小説や文章、絵を売っていることを知ると「なぜ写真集を売らないのか」ときいてくる人たちが、実はかなりいる。

僕は、自分の写真が売れるとは思えない。僕よりずっと上手い人が山ほどいて、そういう人たちの写真に対する、特に色に対する追求にとても敵う気がしないからだ。いくらカメラに高い金を払い、旅費を費やして、枚数を稼いでも、写真を撮ろうとしている人間と、シーンを、自分の中だけに生まれた映画の一瞬を、引き戻す手がかりを切り出そうとしている人間が勝負になることはない。そう思っている。

でも、ちょっとやってみようとおもって、コミケにはそのつもりで応募した。数えたら、この5年間で9度も訪れていた青森の写真集になる。それには恐山もねぷたもないし、どうかするとねぶたもないし、竜飛崎もない。弘前の名所もなく、食べ物の写真もない可能性は高い。

僕は5年前の夏、東京で映画を撮っていた。それは未完成の映画になってしまったけれど、その時得られた輝いたショットはこの夏の終わりにすべて使いきった。そして僕はそのショットに自信を持っている。その自信があるから、一歩前に踏み出してみよう、そう思ったのだ。なぜそんな自信が持てたのか、それはいつになるかわからないけれど、その作品を公開する日がくればきっとわかるだろう。

ただ、言葉で説明するなら、そこには、僕の観る絵の強さがある。小説としては歪でとても勝負にならないものを作ったかもしれないが、お話としては戦えるものを作った。同じように、写真集としては勝負にならないものかもしれないが、絵としては戦えるものにできる、そう思えた。

「ああ、豊住はこれだけの話を作れて、これだけの絵を作れて、これだけ時間を作れるのだから、その力が発揮されれば本当にすごいものを作れるんだろうな」と思ってほしいから、作れる、そういう気になった。

なので、今はたくさんの写真を選別し、焼き直している。

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演技についてのノート(約1万5000字:まとまっていない)

はじめに

立場柄、演技というものの向き合わずにはいられない。専門の教育を受けたわけではないし、受ける気もないのに、気づいたら演出の全決断権を有しており、さてどうしたものか、と思い悩むことを繰り返し既に10年近くが過ぎた。

素人が熱心に勉強と訓練を重ねてきた役者や、昨日まで素人だった役者の演技を指導し、映画を演出することの困難さは、難しいという言葉で言い表せるものではなく、どちらかというと闇が深いと表現したくなるものだ。そこには何か指標が存在するわけではなく(少なくとも僕は見たことがない)、頼るべき正義も見当たらない。難しいものは時間をかければなんとかなることが多いが、闇が深いものは自分が闇の中に入り何が正しいのかわからなくなってしまう。だから、僕は素人として信じられるもの、自分が理解できるものを積み上げて、それ以上のことは役者に任せることにしてきた。その積み上げた成果のようなものである。

本来なら「こうすべきだ」というのが固まった時点で、FILMASSEMBLER のサイトに記事を掲載すべきである。しかし、なかなかそこに至りそうにないので、とりあえず今わかっていることを書いてみようと思う。

だから、結論や答えはない。まとまってもいない。ただ、演技について考えていることをつらつらと書いた、メモのようなものだ。期待しないでほしい。ほとんど推敲していない。

念のため書いておくが、僕は基本的にソフトウェア開発で金を稼いでおり、前述の通り映像に関わって10年近く経つが、映像業界との関わりはほぼ全くない。したがって、用語の扱いは僕が普段用いているものである。「業界の人」と話をするときに、こういう扱いをするとトラブルのもとになるので、やめよう。それから、例によって、すべての資料を再確認している余裕がないので、うろ覚えで書いている。気をつけてほしい。ここは、そういう文章を載せる場所とはしていない。

なお、人間以外の例えば怪獣や、水や煙の演技、それからアニメにおける声優以外の演技についても書きたかったのだが、もう文章があまりに巨大になりすぎていた。ので、書いていない。

何が演技を構成するか

昨年夏に「君の名は。」を見た。演技について一番強く印象に残ったのは中に宮水が入った瀧の演技だった。神木氏の技術について特に書くことはないが、この演技で僕は決定的に宮水という女が嫌いになった。

理屈を説明する。瀧は、宮水が中に入ると、明らかに声色が変わる。なよなよした、さも「女の子ならこうだろう」という声を出す。これが、瀧がこち亀の両津のように「宮水と入れ替わったんです、という演技をしている描写」なら、これについて僕はすんなりと受け入れるだろう。だが、ここは「本当に瀧の身体に宮水が入っている」のだ。つまり、宮水三葉という女は「普段から"女の子のように"声を出そうとしている、キャラを作っている女」ということになる。

僕は、女性が普通に喋っていて、女性らしい声を出すのはそれは無垢な声だと認識している(30年近く騙されているのかもしれない)。例えば、徹の前での鶴来民子は「作っている」が、松前緒花の前では「素」だと捉えている。でも、どちらの声も、女性らしい声だ、と思っている。武部沙織だって、普段から信三郎の前の声ではないし、一年生に「先輩は今まで何人ぐらいの男の人と付き合ったんですか?」とツッコまれれば変な声も出ちゃうわけだ(茅野様の変声は最高である。最近だとあかりおねいちゃんがおばさん呼ばわりされた後の声が良かった)。黄前久美子だって、塚本秀一の前だとあからさまに声のトーンが落ちるが、それでも女の子らしいかわいらしい声である。そしてそういう声において意識して作っているのはあくまで「どーでもいいやつ」に対する部分で、女の子らしい高い周波数を作ろうとしてはいない。その声への偽りの愛を語りティラミーが土田香苗の追求を切り抜けたように、女の子の声にヤラれる男子は少なくない。女の子の自然な可愛い声は武器なのだ。

さて、宮水が中に入った瀧は、明らかに声の周波数を上げている。もちろん、男の中に入ってしまった宮水が、その違和感を解消するためにちょっと声色を変えている、という演出と捉えることもできる。だが、「カフェ!?」の声で「ああもうこれ完全に染みついてるわ」という印象が拭えなくなってしまった。宮水という女は日頃から可愛い声を努力して出力しており、それが予想外の喜びにおいても剥がれることのない鉄壁の偽装である。D機関の職員も真っ青の深層心理に染み付いた可愛い子演技である。「このカマトトが」以外の感想はない。

本作における神木氏の演技の評価は高いが、先にも書いたように神木氏の技術について評価したいのではない。肝心なのは、僕の周囲の何人かがそうであるように、おそらく一部の人は「宮水が中に入っている瀧は"ああいう声"を出すのが当然で、普通に喋るなんて選択肢に理由が存在するとは考えもしなかった」ということだ。むしろ、僕の言うように、宮水が中に入った瀧が普通に喋ったら「なんで中身が女の子に入れ替わってるのに声色が一緒なんだ。神木氏の演技はダメだ」という評価がなされたかもしれないし、新海監督はそういう点も考慮して、神木氏に演技計画を伝えたであろう。でも、僕にはダメだった。もう、宮水という女に対して「ぶりやがって」という評価しか持てなくなった。好みの問題である。

「宮水が入った瀧の演技」についてここまで細かく書いてきたのは、ここに演技の評価を困難にする要素がたくさんあるからだ。ここには「宮水をどういうキャラクタとするか」という脚本の要素、次に「瀧の中に宮水がいるという状況をどう描くか」という演出の要素、その演出を技術的に実現できるかという演者の要素、そしてそれをどう受け止めるかという観客の要素、4つの要素がある。この4要素について分解した時、僕はどれも間違っているとは思わない。新海監督の脚本も演出も「宮水が中にいる瀧」の演出として真っ当だし、それを神木氏はプロとして忠実に実行したものと容易に想像できる。でも、見ている豊住は新海監督の例外(想定外ではないと考えている)の受け止め方をし、それを新海監督は初めから切り捨てている。一言で言ってしまえば「残念な話」である。

演技の問題に向き合うこと

僕は演技について考えなきゃいけない立場だから、こうやって自分の違和感を分析して、評価と感想を切り分けなければならず、結果的に作品に対する言葉は良いものも悪いものもむき出しになって分割して出力される。ところが、普通の人間はそうではない。自分がなぜ、そう感じたかということを「脚本」「演出」「役者」「自分」に分割して出力なんかしない。運が良くて「キャラがキモすぎ感情移入できないこんな映画に高評価なんて日本の映画は終わってる」、運が悪けりゃ★1で終了である。逆パターンなら「泣けました最高の映画です全人類が見るべき」と★5である。

が、これも問題ではない。どんな感想でも尊いものだからだ。映画の感想など個人の勝手、右へ倣えする必要などない。

「演技を決定しなければならない監督である僕」にとって問題なのは「一体、普通の人がいう演技が良くないとはどういうことなのかわからないので、良くしようがない」ということだ。最終的に受け手の問題であることはわかっている、けれども、受け手に届けなければならないのも事実だ。その結果をどうするかはともかく、新海監督がおそらくそうしたように「対象外の受け手を極限し、対象の受け手を最大化しかつ最大効果域で届けるにはどうしたらいいか」という問題を解いた方が良いだろう。

こうやって文章に起こすとそういう問題なのかと認識できた気がするが、実際のところ規格化され校正のなされた評価器は存在しないわけだから、事実上問題を認識できてもいない。問題とは認識できればあとは解決するだけなので、真の問題は認識が難しいのだ。長年問題になっていることでも、本当はその問題がどうして問題なのか認識できていないのである。

演技の問題は難しいため、ボールがゴールラインを割りそうなのでマイナスのパスを出したときに「なんで攻めないんだ!腰の抜けたパスを出すな!」みたいなことを言う頭のおかしい人間もめちゃくちゃ多い。単にその作品や演技が趣味に合わなかっただけなのに、「好き・嫌い」の問題を「いい・悪い」にすり替えるわけだ。そして、そいつの声がデカく、おまけにボールみたいに簡単に位置が見えないので間違いを指摘されても理解しないことが容易なのである。こうして演技をどう捉えたらよいかという問題は混迷を極めていく。

そして混迷が解決して書いているわけでもないので、この記事には結論がなく、僕は以下つらつらと「おそらくこれも問題に関わっているのだろうな」ということを記していくだけになる。

ただ、結論のようなものを記せるのなら「演技を構成する要素も評価軸もあまりに無数にあるので、そのすべては不可能だができるだけ多くを拾い意図的に取捨選択をすることが大切である」ということ、それから「もしあなたが誰か監督に協力する時があるのなら、自分の見ている軸を伝えることが作品の品質を高める手助けになるだろう」ということを記しておきたい。

「お話」と「脚本」の違い

よく、作品を見て、そのお話が気に入らないと「脚本が悪い」という人がいる。でも、これは本当に脚本が悪いのかというと、実はそうでないことも多い。

演技がそうであると同じように、構成要素をひっくるめて「脚本」としていることはよくあることで、本質的に何が悪いのかわからなくなっていることも少なくないからだ。 例えば、こんなシーンを考えてみよう。

「昨晩、加茂島製薬の研究所が何者かに襲撃され、資料が奪われた」

「加茂島製薬、ツカパロス症候群に対する画期的な新薬を発表した企業ですね」

お気付きの通り「説明台詞」である。ちょっと気を使ってやると、

「昨晩、加茂島製薬の研究所が何者かに襲撃され、資料が奪われた」

「加茂島製薬?……あ、ツカパロス症候群に対する画期的な新薬を発表した企業、ですか?」

このように、さも「記憶を取り戻して確認した」というようになるだろう。しかし、もっとマシにすると、

「昨晩、加茂島製薬の研究所が何者かに襲撃され、資料が奪われた」

「加茂島製薬?……あ、ツカパロスの」

ぐらいになるだろう。あるいは

「昨晩、加茂島製薬の研究所が何者かに襲撃され、資料が奪われた」

「資料?なんの資料ですか」

「去年あそこが発表した、ツカパロス新薬のだよ」

なんて形にすることもできる。

このとき「加茂島製薬の研究所が何者かに襲撃されたことを二人が話している」というのが「お話」であり、それをどう表現していくのか、が「脚本」である。

そして、台詞の質は演技の難易度や受け入れやすさを左右する。説明台詞はそれ自体が違和感を持つことがあるため、前述の通り最終的な作品の断片を受け取った時に生じた違和感が断片を構成するどの要素によるものか判別できない観客にとっては、物語への没入を阻害する要素となりかねないのである。本当にひどい台詞の場合、極めてひどい例え方をすれば、スカートの上からパンツをはいているヒロインのような結果を導く。そんなヒロインが登場したらよほど変わった設定でない限り、どれだけ真剣な演技をしていても、まったく話に集中できないだろう。確かにパンツもスカートもはいているが、絶対におかしい。そんな事故が起きてしまう。次節に述べるが、説明台詞自体を否定するわけではない。けれども、台詞にはそれ自体の質が明らかに存在するし、説明台詞はその質を保つことが難しい台詞の一つである。

わかりやすさをどこまで求めるか

僕が脚本を書くのなら、前節の最後の方の形態にするだろう。そういう脚本が「好き」だからだ。最初の方の形態も「悪い」わけではない。なぜなら、そこには必要な情報がはっきりと短い時間内に収まっているという利点がある。だから、それを選択するのも十分ありだし、実はある作品の実際の台詞を元に書いている。プロが認めて世に出た由緒正しい書きぶりなのだ。プロの仕事に赤を入れる真似はあまり好きではないので、別の作品から実例を紹介したい。

小林さんちのメイドラゴン第1話における、小林さんの台詞だ。「あのプログラム、今日統合テストか」。この台詞は小林さんの独り言である。独り言としては「今日統合テストか」だけで限界だろう。けれども、ソフトウェア産業について知らない人間は「統合テスト」と言ってもなんのことだかわからない。ここに、多少不自然でも「あのプログラム」と一言入れることで、一時に小林さんの仕事を表すことができる。

しかし、台詞に載せる情報量を少なくし、他の情報で補っていくやりかたには、映像作品の醍醐味がある。そういう魅力を究極的に追求した作品には、拙著「Scout Report1. 勝つことは、すべてだ。(コミケ受かったらまた持ってく)」にも記した通り「アルドノア・ゼロ」「WXIII 機動警察パトレイバー」「ジャッカルの日」などがあげられる。また、押井守監督は「台詞」と「映像」と「映画」を並列に扱って豊穣な時間を作ってくるので、難解と称されがちな一方で熱烈なファンを獲得しているのはひろく知られている。さして難しいお話ではないが、その内容を丁寧に制御して、一つのフィルムに厚い体験を作り出そうとするわけだ。

「説明台詞は悪いものだ!」「日本の映画は説明台詞が多すぎる!」と憤る人はよく見かけるが、説明台詞を排除して画面で説明しまくったWXIIIを評価している人はなかなかみない。台詞に情報を載せず絵で描くことで、高い評価が確実に得られるわけではないと注意しておきたい。

脚本はお話を伝えるための道具であり、そのお話をどれぐらいわかりやすく言葉で率直に伝えるか、というところの脚本上の裁量が好みの範疇と言って良いだろう。

わかりやすさとその好みの裁量は、脚本のなかだけにあるわけではない。演技にもある。例えば「雲の向こう、約束の場所」におけるサユリの「すごい、飛行機」だ。この台詞はパイロット版にも本編にも入っているが、明らかに本編の方がわかりやすく「可愛く、彼らのプロジェクトに興味と好意を持ってくれている女の子」という演技をしている。パイロット版の演技を僕は好むが、これを「淡白だ」「棒読みだ」と忌避する人もいるだろう。

雰囲気をどう作るか

文法的に、あるいは文脈的に正しくない台詞は、「スカートの上からパンツ事態」を容易に引き起こす。特に流行りのファンタジィにおける「文語調なんだけれど明らかに間違っていて、何を言っているかわらない」事故などはよく見かける(実例を挙げることは避ける)。

ただ、正しくないことがよくないわけではない。例えば、ガールズ&パンツァー最終話における武部沙織の台詞を思い出してほしい。マウス出現に対し「こんなんじゃ戦車が乗っかりそうな戦車だよ」という彼女の叫びは、とても文としては奇妙な台詞である。しかし、この台詞は彼女の動揺を見事に表している。びっくりした人間が正しく喋らなくても、おかしくはないはずだ。

また凪のあすから第20話におけるまなかの台詞「ひーくん!女の子そんなに怒っちゃダメだよ!」もこの種の上手い台詞だ。まず助詞が抜けているし、怒っているのではなく、怒鳴っているのだから、かなりおかしい台詞である。けれども、まなかというキャラクタをよく表現していることは、見ればわかるはずだ。

上手いと思われやすい脚本

シン・ゴジラの俳優陣の演技の上手さについては、以前散々書いた。巷でもなかなか評判が良かったので、多くの人がそう思ったということだろう。

だが、あえて書くが、シン・ゴジラの脚本は「演技が上手いと思われやすい」ということを演技を作る側としては知っておきたい。というのは、シン・ゴジラは脚本が上手く、台詞がそれらしいからだ。

シン・ゴジラには、誰かが自分の思いを語ったりするシーンが極端に少ない。また、キャラクタを作る演技も非常に少ない。事務的に伝達事項を淡々と述べるという演技が極めて多い。このため、この内容に「納得感」があればそれだけで演技が上手く見えるのだ。

例えば、自衛隊の指揮官が「朝のナパーム弾の香りは格別だ」「石器時代に戻してやる」とか、言わない。「CPより各車戦闘陣に移行せよ」とか言われると、ほとんどの観客は自衛隊員として訓練に参加したことなどないのに本物らしく聞こえて「現実感がある」と錯覚する。現実なんか知らないのに。

だから、一番かわいそうなのは石原氏である。脚本を読んで泣きそうになったと言っていたそうだが、当たり前だ。自分だけ異様に難易度が高いのである。感情を口にして、個性的なキャラクタを表現することを求められる。そして、映画がコケたら間違いなく吊し上げを喰らうのは自分の演技である。だが石原氏はそれに対して真っ向勝負を挑んで見事にやり抜いた。

僕は尾頭さんも好きだし、市川氏もかわいいと思うけど、市川氏はやりやすいキャラを割り当てられているのが事実だ。無表情、事務伝達型、最後にちょっと笑って、いいとこを持っていく、演技の観点で言えば美味しいキャラクタである。他のキャラクタも大体そうで、だからシン・ゴジラの脚本は優れているのだ。

けれども、庵野総監督はあの脚本を「演技が下手な役者でもやりやすい簡単な脚本」として作ったわけでもないはずだ。あの脚本は「日本人役者の演技の上手さを最大限わかりやすく表現する」脚本である。このことについては、あとで説明したい。

ガメラ 大怪獣空中決戦

ガメラ 大怪獣空中決戦」は伊藤氏という稀代の脚本家が、その脚本能力の高さを最大に発揮し、また金子監督がそれを見事に演出した映画である。この映画の台詞を通じて、脚本と演技の関係を記して行きたい。

まず、ヒロイン長峰真弓が姫神島に赴き、荒らされた民家近くに謎の半固体を見つけるシーンである。長峰はこれを鳥の未消化物の塊に似ているが大きすぎると言いつつ、その中から万年筆を取り出し「平田先生のです」と呟く。この脚本はすごい。この一つの台詞で「おそらく平田先生は何者かに食われて死んだ」ことがわかるし、長峰が万年筆だけで平田先生を判別できる間柄であったこと、そのつらさが伝わってくる。そして、流れ出てくるメガネのフレームは、平田先生がメガネを掛けていたことも教えてくれる。

また、この台詞は、ただ神妙に言いさえすれば、その衝撃を伝えてくれるのである。機械的に言っても、小声で涙をこらえながら言っても、呆然と言っても、認めたくないように絞り出しても、台詞の機能は損なわれない、根本的な強さがある。監督や役者が長峰真弓というキャラクタをどう描くかの裁量が極めて大きく、技倆に左右されない。にも関わらず、必要なことはちゃんと入っている優れた台詞だ。これが例えば「これは平田先生の万年筆ですね」になった途端、その説明性は強まり、意味やキャラクタの性分が固定されてしまう。さらに、この台詞を演じた中山氏はあまりに理解しがたい、鳥が人を丸呑みにしたのかもしれないという出来事を前に驚愕していることが伝わる種別の演技をしている。

この作品には、本当に優れた台詞がたくさんある。実は気に入っている台詞を書き出してみたことがあるのだが、平成ガメラ3部作のうち、もっとも切れ味のある台詞が多かったのが、この大怪獣空中決戦だ。「平田先生のです」と同じ種類のものなら、ヘリのパイロットが発する「行きます」がそうだ。ただ一言なのに、これを演じた役者の演技も相まって、このパイロットの勇気や覚悟が描かれているし、そこに続く長峰の「お願いします」には彼女の性分がよく出ている。詩的な台詞なら「最早太陽も我々の味方をしてはくれないのか」は、とても芝居がかった台詞だが、この後の怪獣映画史に残る美しいカットとあいまって、この映画を代表する台詞と言っていいだろう。むき出しの説明台詞だが「――その場合でも、敵による攻撃がなければ、こちらから攻撃することはできない」は、斎藤という男の役人らしさを表し映画の現実感を補強する。「ないよね」は長峰をとても可愛らしく描き出したし、「一度やってみたかったんだ!」も僕らが感情移入できる優れた台詞だ。これらの台詞はもちろん、それぞれの役者はものすごくよく演じきり、怪獣映画の歴史に大きな一歩を刻んだ。

それから、僕が個人的に最大の名台詞だと思っている「いつか、怪獣のいない東京を案内するよ」についても書いておきたい。この台詞は、一見、口説き文句のように思える。けれども、これはそんな単純な台詞ではない。そもそも、この台詞は「いつか君に怪獣のいない東京を案内するよ」だったそうだ。この台詞に米森を演じた伊原氏は「こんなときにこんな台詞を言うか」と苦言を呈し、これに対し中山氏が「わたしにはこの気持ちがわかる」と反論したそうである。そこで結果として「君に」を削って「自分の愛している東京」という意味を前に押し出した、のだそうだ。

その結果、この台詞には「本当にひどい事態になってしまったことに対し、ヤケクソになりつつも自分の暮らしている街への愛が溢れた」といった意味が出た。このヤケクソ感が伊原氏の演技の良さであり、そこには「ただ壊して映える巨大な建物が多い」や「人の数が多いだけ」の東京でなく「誰かが暮らしているだけでなく、愛している街」という、怪獣映画どころか邦画でも珍しい要素が表れたのである。怪獣映画は、映画の中でもとりわけ巨大な嘘でできている。その嘘を成立させるには現実感という背景が必要だ。その背景を見事に補強したのがこの台詞であり、その下手をすれば「取ってつけたようなキザな台詞」になりかねないこの台詞を自然に溶け込ませたのが伊原氏の演技である。

が、ガメラ大怪獣空中決戦という映画が、演技の面で本当に興味深いのは実はこれらの点ではないのである。これも後に説明する。

ザ・マジックアワー

怪獣映画の話ばかりじゃないか、と思われそうだから、三谷幸喜監督の「ザ・マジックアワー」を例にしよう。

この映画は「映画の中で映画を演じる人間」や「映画の中で欺くための芝居をする人間」そして「映画に登場する人間」が入り乱れる映画である。カッコイイお兄さんから渋いおじさん、きれいなお姉さんから素敵なオバちゃんかわいい女の子まで出てきて、笑いあり涙ありアクションあり最後はスカッと爽快という映画の一つの完成形のような傑作だが、それはおいておこう。

主人公、村田大樹という男は「映画の中で映画を演じる人間」である。そして「人前でカッコつけたい人間」でもある。だから、映画の中でどんどん「演じる」。素の村田大樹、謎の殺し屋デラ富樫、お姉ちゃんにいいとこ見せたい村田、大好きな俳優の前でかしこまった村田そして一世一代の大芝居を打つ役者村田大樹、といった具合である。演じる佐藤氏の技術がよくわかるのは、その切り替えだ。人間は一枚岩ではない。いろいろな面がある。その切り替えを見事にこなして、別の人になってみせる。「演技が上手い」というのは、ある意味「切り替えがはっきりしている」ということでもある。それでいながら「村田大樹」という男から離れてはおらず、その裏側に佐藤氏という人物がいるのだ。そうみると、演技を楽しむ面から見てもこの作品の豪華さがわかるし、より楽しくなるだろう。

この映画の登場人物の演技について語ろうとすると端役まで大物がいて大変なことになるので、もう一人の主人公備後を見守る女の子「なっちゃん」について語ろう。なっちゃんは口にはしないが、明らかに備後のことが好きである。そしてものすごく心配していて、けれどもその気持を明らかにしようとはしない。この健気な女の子がささやかな期待を得られた時の屈託のない笑み、こういう笑みの破壊力はそれまでの演技、つまり「備後のことが好きなんだけれどもそれを秘めている。しかし秘めきれてはいない」という演技の積み重ねがなければ発揮されない。お話を作る段階で導火線の演技の機会を与え、きちんと発火させなければ機能しないわけだ。当然、名脚本家でアテ書きの三谷監督である。周到に準備していることは間違いないし、それが見事に活かされた作品だ。

笑いという演「技」

ここまで重点的に「脚本」の要素と「観客」それから「演出」の関わりが深い演技について説明してきたが、ここでは純粋な「演者」の技倆が問われる演技の話を書こう。

今、一番わかり易い、演者の技倆が問われる種類の演技はアニメの声優における「笑い声」と「怒鳴り声」である。もうこればかりは口で説明することができないので、確認してもらいたいのだが、素人にはあの笑い声や怒鳴り声を出すことがほとんど不可能なのだ。例えば、タレントが声優起用されたときに一番違和感が出るのがここだ。アニメ声優の作る笑い声は実際の笑い声とは全く違うもので、例えばアニメのキャラクタは笑いを押し殺して排気音だけで笑いを表現することはまずない。でも実際のクスクス笑いはほとんど鼻からの排気音である。クスクス笑いは「クスクス笑いの声」を出す。実際の人間は「高笑い」をすることは滅多にないが、アニメのキャラクタはいとも簡単にやるし、それをアニメの中で大勢が何の違和感もなく見ている。

具体例を上げれば、ごちうさの一話でココアが「くすぐったーい」と笑うシーン(おまくす)があるが、あんな笑い方をする現実世界の人間はあまりみかけないだろう(例によって、本業声優ではなくアニメらしくない笑いの例はあげない)。そして、僕らは「ああ、ココアが笑ってるな」と何の違和感もなく受け入れている。声優の「笑い声音」を共通認識として持っていて、それがアニメに実装されているときは「普通の演技」として認識しているわけだ。不自然な音なのに。

ここには、僕らが「見た目」によって求める演技を替えているし、演技に対する評価軸が「甘くなっている」と言っても良い。

その他の演「技」

台詞周りばかり書いているが、立ち居振る舞いも演技においては重要だ。この点について語るなら、三船敏郎をはじめ黒澤組の面々の演技力は只者ではない。居合術はもちろん、馬乗りにも秀で、世田谷の自宅に秘蔵したタイムマシンで昔の人物をそのまま連れてきたんじゃないかと思うような現実感を与えてくれる。歩き方一つに何度も注文をつけたというが、本当に見事なものである。こういった「技」の数々は、演技の傾向が変わっても色褪せることはない。昔は録音技術が低かったし、画質も悪かったから、役者はややオーバなアクションをすることが求められたのだろう、台詞回しという面においては古臭いな、と思うことも少なくない。しかし、立ち居振る舞いについては今の時代でも十分どころか最前線で通じる。

佐藤と菊千代、西と権藤社長、そして中島老人をわずか十数年の間に同じ役者が演じたと思えるだろうか。それどころか、新米刑事から野獣のような男、真面目な青年に中年の実業家、そして哀れな老人を「新米野獣老人青年中年」の順番で演じているのである。「技」の究極形態といっていいだろう。

では最近の邦画にはそんな見事な演技を見せる俳優はいないのかというと、そんなことはない。超高速!参勤交代の佐々木氏の居合は素晴らしい。僕は居合を知らないから、初歩的なものなのかもしれないが、十分「剣客」の迫力を見せてもらった。

洋画における演技

さて、よく聞く話「日本の俳優の演技はダメ」について書こう。

僕は、こういう意見を聞く度に感心する。洋画の俳優の演技の良し悪しがわかるのか、と思うからだ。

多くの洋画は英語音声だが、まず僕には英語だと何を言っているかわらない。字幕がないと、台詞の意味がわからないから、演技を評価する以前の問題である。何を言っているかわらないのに、どう言っているか、という評価ができる筈がない。もちろん「If so powerful you are, why leave?」ぐらいの中学生英語なら理解できる。しかしそれは「いふそーぱわふるゆーあー、ほわいりーぶだからつまりそんなに強いのにどうして逃げるのと言っているな」という変換を働かせて理解しているのであって「If so powerful you are, why leave?」を理解しているわけではない。

こんな状況なのに、台詞に基づく演技の良し悪しがわかるわけがない。そりゃあ、怒ってるはずなのに笑いが溢れている、とかならわかるだろう。けれども「平田先生のです」のような台詞をどんな調子で、つまり、呆然としているのか、認めたくないように絞り出しているか、といった違いが、わかるだろうか?僕には、わからない。日本語なら、普段よく聞いて、耳慣れていて、あらゆる感情の状態と共に日本語をやりしているから、そういう微妙な機微に気づく。だから、洋画の俳優の日本語以外の演技の良し悪しがわかる人は純粋にすごいな、と思う。

でも、本当にそうか?みんなそんなに英語がわかるのなら、なぜ英語ネイティブ音声字幕も吹き替えもないという上映形態はみないのだろう。日本語翻訳なんてない方が作る側にとって安上がりでいいじゃないか。だから、僕はこう思っている。「日本民族やそれに近い人種以外が日本語以外を喋ると、とたんに演技に対する要求はアニメにおける笑い声に対するもののように甘くなる」。

この仮定は、日本人は普段見慣れない外国の景色に外国人が並ぶとそれだけで異世界感を感じるので、細かく気を配らなくていいのだろう、という仮定につながる。また、日本人は「西洋人が出てくる視覚的優位性がある映画」と「自分たちの日常の風景の延長線上で動く映画」を同列に比較して大量に観るため邦画に対する演技の要求が高いのだろう、という仮定につなげることができる。そしてそれらは多分あっている筈だ。

もちろん、演技は台詞を言うことだけじゃない。表情や身振り手振りも演技の一つだ。けれども、例えば日本人とアメリカ人ではまったく非言語対話の傾向が違う。それを同列に語ることに無理があるから、無視して良いだろう。

以前Twitterにも書いたが、僕は呪怨とthe grudgeの同じシーン(そういうものがあるか知らないが)を並べて、日米の演技力の差を解説したところなど見たことがない。今まで書いてきたように、演技には演者だけでなく脚本や演出の要素が関わるのに、印象論だけで「日本の俳優」という藁人形の演技を叩く人間が後を絶たない。呪怨はどちらも清水崇監督だから、かなり純粋に演技力の良し悪しを問うことができるはずだ。だから、僕は「日本の俳優の演技はダメ」論は仮に正しかったとしても、それを言っている人の言葉には納得することができないでいる。

僕はシン・ゴジラのときも石原氏の英語の演技がおかしいと言われても、理解できなかった。僕にとっては、石原氏は大変よく「英語ネイティブが日本語を喋る時」「アメリカの女優のはっきりした演技」を再現していると評価できたし、おかしいおかしいという人も、具体的に、技術的に、そのおかしさを言い表さなかったからだ。例えば、僕が最初に瀧の中に入った三葉の演技に対する違和感を説明するように、言葉で理解できるように説明すべきじゃないか。もちろん「ネイティブスピーカからならわかる」という話もあったが、ネイティブスピーカではないので知ったことではない。グローバル云々のたまうのなら、まずはジャンジラについての意見を聞こーじゃないか(CV高橋李依)。

平成ガメラ三部作における演技の飛び道具

さて、もう気付いた方もいるかもしれないが、平成ガメラ三部作は、怪獣映画最大の難所「怪獣が出て来る嘘っぱちに現実感を持たせる」という点において、今となってはもう使えないだろう飛び道具を使っている。

本物のアナウンサを使ったニュースシーンを挿入したのである。

当時はインターネットが普及していなかったから皆がテレビを見ていた。テレビを見ず、家ではほぼNHKからチャンネルが変わることのなかった僕でさえ、おじいちゃんちで見ていた僅かな日テレの映像で見て覚えているアナウンサたちが登場して、怪獣が来た状況を演じ始めたのである。96年の夏、サッカーの練習に行った時「とよ、昨日のガメラ、見たか?すごかったよな!本物のアナウンサが出てて、おもしろかった!」と、基本怪獣映画になんか興味のないチームメイトに言われたことを覚えている(なお、放送自体を知らなかったので、僕は見ていない)。

このアナウンサたちの起用には「洋画の外国人俳優」や「アニメキャラ」と同じぐらい効果がある。登場するだけで「報道の現実感」を表すことができる。これ以上の方法はない。そして、演技は普段の行動をそのままやっているので、違和感もへったくれもない。もし危険があるとすればそれは台詞の内容だが、当然協力があるし、そもそも脚本は伊藤氏である。

日本の役者の良さを最大限に引き出す

またシンゴジの話に戻るが、シン・ゴジラが公開された時「日本人の役者は演技が下手だから早口で喋らせて演技させないようにした」といった意見を何度か観た。僕は違うと思う。日本人の役者は演技が下手なわけではない。庵野総監督は「ハリウッド映画に出演する、視覚的優位性を持つ非日本民族系俳優の非日本語演技に負けないように、あらゆる手を打って彼らの良さをより強く引き出した」というのが事実だと考えている。庵野総監督は映像の演出力にとてつもない能力を持っている。それを用い、さらに前述した強力な、日本民族の役者が実行すると途端に厳しい目で見られる明確に感情的な演技要求を可能な限り排除した脚本を投下して、結果を掴み取ったのだ。

ではその演技を補強する「視覚的な強さ」とは何か。それは、美術や衣装などが作り出す背景である。僕らが海外旅行に行った時「映画の中みたいだ」と思うことがあるだろう。そこでカメラを回して友達の姿を撮るだけで、映画のような時間が流れ出してしまったことがある人もいるだろう。非日常の世界に現実感と納得感を与える視覚的な衝撃は「外国人の顔」と同様に強く機能する。ひどい言い方をすれば、貸会議室に量販店のスーツ姿の人間が並んでいても、どこかの中小企業の会議にしか見えないだろう。あの素晴らしい演技を支えて、映画に現実感を与えているのは、恐ろしくよく作り込ませたセットなのだ。面構えが飛び道具にならないのなら、他を全力で固めるしかないのだ。

そして、俳優の「技」ははっきり画面に残っている。基本的なところで言えば、あれだけ歯切れよく早口で発音しているところがもうすでに「技」だし、同じシーンを何度も撮影してそれを違和感なくつなげるものにしていること、つまり再現性があるというところがすさまじい技である。これは実際やった人でも気付かないかもしれないが、ああいうシビアな演技になればなるほど、別テイクのカットは繋がらなくなるのだ。そして、感情が乗っていないわけでもない。早口の上に、どれだけこの事態に真剣に立ち向かっているかを見事に演じ載せていることは、見ればわかる。

思えば、平成ガメラ三部作も、背景の力を多分に借りていた。ニュースキャスターたちがその破壊力を最大限発揮したスタジオセットが、彼らの飛び道具としての強さを高めたことに異論はないだろう。福岡ドームに閉じ込める作戦は怪獣と戦うことを現実に繋いでくれたし、地下鉄構内の持つ不気味さがレギオンの恐怖を倍増させ、ファミレスの前を戦車が行くことが決戦の印象をより強くした。奈良の祠の持つ雰囲気があの妖艶な時間をより色濃く描き出したし、今も多くの特撮怪獣映画ファンは京都駅ビルを見て心を踊らせる。

もちろん、ザ・マジックアワーの背景がものすごいことは映画のエンドクレジットを見る前にわかる。

おわりに

僕らはつい、演技というと、役者個人の技倆の責任にしがちだ。でも、そうではない。脚本、演出、背景となる美術や衣装、すべてがあって、その演技は描かれる。前も書いたが、宮崎駿監督は「創りたい作品へ、造る人達が、可能な限りの到達点へとにじり寄っていく。その全過程が作品を作るということなのだ(もののけ姫はこうして生まれた。より。句読点は僕による。)」と述べている。同じことだと、僕は思う。

最後に、ちょっと書いておきたいことがある。THE NEXT GENERATION パトレイバーを観たことがあるだろうか。僕はこの作品を「自主映画野郎は観るべき」と思っている。なぜなら、この作品には、映画を作る上で参考になることがたくさんあるからだ。予算や、編集や、さまざまなことの大切さが、わかる。演技と背景の関係も、この作品は見事に見せてくれる。おすすめは、エピソード1とGRAY GHOST(首都決戦ディレクターズ・カット版)だ。3つの出動シークエンス、全力出撃603のあたりと、「エンジンスタート!」、そしてゲートブリッジの袂におけるデッキアップが、教えてくれるはずだ。