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六月の開発局

「業界の人」じゃないよ

写真機不在の季節

現状

先日D4とα7Sを手放してから、使えるカメラがRX100M5だけである。が、僕が最も信頼するカメラメーカであるニコンからCP+での新製品発表はなかった。しばらくRX100M5だけでやるかな、と思っていたが、やはり広角と望遠が弱く、それから暗がりにも弱いので、一眼が欲しくなったのだが、どれもイマイチである。

普段使いのカメラとしては4Kの動画が撮れればD4が一番良かったのだが、D5の4Kは焦点距離が二倍になってしまうという大きな問題がある上にめちゃくちゃ高価である。ので、何か別のを、と思って探している。

なお、写真は適当である。

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GH5

最近絵を描いたりアニメ作ったりしてるだけじゃねえかと思われているかもしれないが主戦場は実写映画で、何気ない景色を切り抜く能力には自信がある。人と金がないからなかなか撮れないだけで、それさえあればなんの、という具合である。

そんな僕に最適と思われるのがPanasonicのGH5である。動画画質は高級な動画専用機に匹敵する水準なのに安価である。10bitカラーやDCI 4Kにも対応しており、動画を撮るならこれである。

が、普段使いのカメラとしてはあまりにも性能が悪い。念のため繰り返すが、僕が普段使いで必要としているのはD4の水準である。スナップに最適なのはD4の性能である。暗がりを物ともせず、あらゆる被写体を瞬時に捉え、どんな状況下でも作動が期待できる、これが普段使いに求められる性能だ。

また、気にいるレンズもない。そしてなにより20数万の大枚叩いて買う品物にしては所有する喜びがない。好みじゃないし、まだ20代の男の子なのでカッコいいものを持ち歩きたいのである。

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α6500

SONY機とは長く付き合っているし、瞳AFも気になるし、センサもAPS-C、ツァイスもかっこよくて好きなのでなかなか良さそうなのがα6500である。

動画もGH5ほどではないにせよ、6Kから4Kへとコンバートする方式はカリッとした絵が期待できるし、なかなか悪くない選択肢である。

が、残念なのはやっぱりあんまりな見た目と、レンズラインナップの貧弱さである。もちろんマウントアダプタを使えば手持ちのレンズが使えるのだが、AFが効かないので普段使いとしては失格である。

念のため書くと僕の普段使いレンズはCarl Zeiss Distagon T 2/25にCarl Zeiss Makro-Planar T 2/100、SP 15-30mm F/2.8 Di VC USD [Model A012]そしてAF-S NIKKOR 70-200mm f/2.8G ED VR II(昔のやつ)である。どいつもこいつもphotozoneやDxOMarkでなかなかのスコアを叩き出すレンズである。Distagonは単体であらゆるものを撮影できる。Makro-Planerできれいな女の子を撮るのはとてつもなく幸せなことである(最近まったく撮れていないが)。15-30は旅行でのスナップに最適で、70-200は他のレンズが戦えない時に戦うレンズである。この70-200が戦わなければならない時、α6500はそのAF性能を活かせないのである。

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D500

発売から1年経つD500はAPS-Cにおいて最高水準の性能を持っているだろう。D4クラスの普段の使い勝手を高感度性能以外の部分で持っているに違いない。何度か触っているが、持ち歩きカメラとしてはかなり良い性能だ。

だが、D500には致命的な欠陥がある。4Kだと焦点距離が二倍になってしまうのである。15mmの超広角が30mmである。お前はマイクロフォーサーズかよ。なんだあのシグマの変態レンズを僕に買えというのかニコンさん。

……えますか…聞こえますか……ニコンさん……今……あなたの心に直接語りかけています……はやく……フルフレームを活用した……DCI 4K……400Mbps……10bitカラーの……録画機能を……実装するのです……素性はいいのだから……それをやれば……必ず……シェアナンバワンです………5年間……ニコンで映画を撮,ってきた……わたしの願いを……叶えてください……ニコンで映像なんて……なんてほざく連中を……蹴散らしてきたわたしの願いを……叶えてください…… f:id:TOYOZUMIKouichi:20170425070632j:plain

なぜ感想なのか: JR北海道とサクラクエスト第三話

昨年の3月26日「北海道新幹線に失敗の選択肢はない」という記事を書いた。僕は、特に新幹線が好きというわけではない。どちらかというと寝台特急や在来線の特急が好きだ。伝統的な風情ある名前や車両の様々な列車失われることは悲しいし、最後に取れたトワイライトエクスプレスのロイヤルをウヤっているので、そのことを今でも恨んでいる。

が、北海道新幹線の開業前、新幹線のことを何もわかっていない人たちが言い出した否定論に大勢が踊らされていることには腹が立った。

だから、新幹線とはいかなるものなのか、ということを懇切丁寧に説明した。それをわかってもらえればきっと北海道新幹線の良さがわかってもらえる、否定論のバカバカしさがわかってもらえると思ったからだ。

あれから一年以上が経つが、北海道新幹線は想像以上の業績をあげていて、とても嬉しい。

ところが、北海道新幹線の運行主体であるJR北海道を取り巻く情勢は極めて厳しく、いくつかの路線の廃線が秒読み段階に入っていることはご存知の通りである。それをまた新幹線のときのように理解する気もなくただ攻撃することのみを目的としたような言論が幅を利かせていて、とても不愉快である。

ではまた以前のようにしっかりと書くか、と思ったが、どうも書きづらい。ちゃんと説明すれば、と思っても、最終的にはコスト論の勝負の世界になってしまい「道路なんかに無駄金使ってるから悪いんだ」「道路より鉄道の方がずっと価値がある」といった内容になってしまい、読んでも愉快な気持ちになるものにならないのだ。

そして、JR北海道がここまで追い詰められたのには自然環境以外にも理由がいくつもあり、そのことを無視して廃止反対自助努力を主張する人たちについても書かなければ説明が終わらない。とにかくケンカのにおいしかしないからどうしたものかと思い悩んでいた。

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この春から、ヒロインが間野山という田舎の町興しを頼まれるアニメ「サクラクエスト」の放送が始まった。舞台のモデルは明らかに城端である。

所詮はアニメだ。可愛い女の子が5人も集まり町興しである。首を狙いに来る敵もおらず、のんびり楽しくきゃっきゃうふふである。嘘っぱちの塊である。和菓子屋の店主、他反対する人もいるがこの子たちの頑張りを見て次第にほだされ大団円となることが想像できる。まあでも、P.A.WORKSだし、見ていたわけだ。

そして木曜日の朝、録画しておいた第三話を見て本当に驚いた。自分は街を変えるために努力していると言う観光協会の会長に対して主人公であり、ヒロインである20歳木春由乃はこう言い放つ。

だって間野山の人たちは、誰も変わりたいなんて思ってないじゃないですか!

直感的にいいセリフだと思った。仮にも演出家なので、それぐらいのことは考える。

5人の可愛い女の子があつまり、あとは成功に向かっていくだけのお話に、強大な実体としての敵を設定した。誰も、である。やろうと思えばなあなあで済ますことのできた町民全員を、この作品は敵に回したのである。波風立たないはずの設定にヒロイン自ら思い切り波を立て、お伽話の世界に現実感を見せてくれた。

普通の女の子になりたくない由乃はどうなるのかというドラマの楽しさ、間野山という世界はどう変わるのかという物語の楽しさの予感はあった。だがストーリィはただ成功していくだけじゃないかという予感もあった。でも、この一言で、いや、このアニメはこれから先にもとんでもないセリフを持っているかもしれない、という期待が生まれた。

こういう容赦のない描写が僕は好きだし、影がしっかりとあるから光は輝くと思う。だからこの作品を見ていてよかったと思えた。

そしてこの台詞には勇気と覚悟があった。でも、その勇気や覚悟はきっと実績や信頼の上にあるのだろうと思うし、それは純粋に憧れることだ。

でも、ざっとTwitterを検索したがほぼ誰もこの台詞について言及してはいなかった。作った人間もそんなに重く考えていなかったと思う。

それでも、僕はこの台詞には真実があると感じるし、こういう台詞を紛れ込ませられるようになりたいと思っている。

本題は「僕がこれら二つの事から何を感じたか」ということなのだけれど「何を感じた」その内容自体は書く必要がないから書かない。書きたくないし。つまりそういうことだ。きっとわかるだろう。

作品を見るときには、自分が普段触れているものと通じ合うところに気づいたりするところがある。それを僕は大切に思っているし、だから「感想」を書いている。評論や、解説ではなく、感想を書いているのはそのためなのだ。評論や解説には正しさが求められる。けれども、感想にはそれがない。

そして、自分が作るときも、そうやって見た人が自分が普段触れているもの、特に僕が想像もしていないものと通じるところに気づいたら嬉しいな、と思っている。そこには、新しい価値があるからだ。作ろうとも思っていなかった価値が発見されたという、幸運があるからだ。

感想には幸運を記せる、といっても良いだろう。だから、これからも感想を書くつもりだ。もしも誰かが、僕の感想を見てその幸運を知り、いろんな作品、とくにまったく良いと思っていなかった作品を楽しんでくれるようになったらいいな、と少しだけ思っている。

明石二種第一学校蹴球戦記について

f:id:TOYOZUMIKouichi:20170416235202p:plain 先日の告知通り、4月9日水曜日から明石二種第一学校蹴球戦記の連載をはじめた。毎週水曜に一話ずつ、全13話である。既に書き終えているので、多分完結する。細かい字句の修正を行ったりしているから、まだ全部投稿予約はしていない。

若干ネタバレしつつ、仕掛けについて書いておきたい。そもそもこのお話は、僕が妄想しているアニメシリーズ、THE NAME OF THE HEROINE 全26話の前半部分である。これは26話のうち25話の流れを既に組んであるのだけれど(1話欠けている理由は後述)、何しろアニメ向けに考えた話なので絵を妄想して考えている。こんなもの、そのまま文章にしてもなにがおもしろいんだかさっぱりわからない。だから、小説にするにあたって小説ならではの視点を入れたりしている。

例えば、昨夏発行の同人誌「ScoutReport 1」には1話のシナリオを掲載した。これを読むとわかるが、1話のAパートは主人公島津裕也の卒業までを、Bパートは入学から着任までを描いている。ところが、小説ではAパートが卒業までなのは同じだが、どちらかというと描かれているのはヒロインの一人椛沢優理絵である。そしてBパートは部長兼キャプテン朝長響子の視点で彼女のこれまでの経歴を描いた。朝長は今までほとんど描かなかったが、最初のシーズンで終わる小説では最初のシーズンにしか基本的に登場しない朝長を大きく描いた方が小説として良いのではないかと思ったからだ。

おもしろい作品を作る、としたが、今までの僕の作品にはないおもしろさだと考えている。「Pathfinder」では、「気づくこと」のおもしろさを狙った。「爆撃」は即物的なおもしろさだ。そして「失われたフィルムを求めて」では、伏線が敷かれてそれが回収されて、なるほどとわかるオチが用意されるおもしろさを作った。「シリウスの七日間」は映像の衝撃のおもしろさだ。この作品のおもしろさは「ノンフィクションを読むような、タネも仕掛もない、ただ進んでいくことのおもしろさ」を作ろうとしている。

THE NAME OF THE HEROINEという作品は、その題の通り「ヒロインの名前」についての物語だ。すべて見終わった時に、なるほど、だからTHE NAME OF THE HEROINEというタイトルなのか、とわかるようにしてある。まあ、もっと早く気づく人もいるだろうし、全然気づかない人もいるだろうけど。そして、この小説は明石二種第一学校蹴球戦記なので、戦記、つまり戦いの記録として基本的には書いてある、というわけだ。

全13話のうち、第4話はほとんど最後に書いた。これは、全26話の流れを作るときに第4話ともう1話だけかなり緩くしていたからである。なぜそうしたかというと、実際にハコや脚本を実装すると敷くべき伏線や描くべき出来事が出てきて全体の構成がパンクするのでそれを吸収するための措置だ。

こうしてできた全13話の流れを記す。なお、内容に触れる。ネタもへったくれもないが、全部読むのはめんどうくさい、という人は、以下のリストから興味のある回を待って読んでもらい、気に入ったら他の回も読んでほしい。

第1話「イスタンブールを忘れるな」ではまず、主人公島津裕也の境遇と、その幼馴染椛沢優理絵の関係、その愛を描いた。それから、朝長響子を通じて、明石二種第一学校女子蹴球部の現状を示した。この回は説明回である。副題は、本来の第1話の英題「Remember Istanbul」からきている。この英題はその話を別の言葉で表してすべての回につける予定だ。原題は既報の通り「わたしと、君のために」。

第2話「野良犬の日」では、コーチとして起用された岩崎高成と島津裕也の視点から、彼らの仕事に対する姿勢やチームづくりの方針を描いた。別にフットボールのディテールを語る物語ではないが、最低限抑えるべきものというのがあると思うからだ。原題は既報の通り「準備する人生」。

第3話「ブリタニア作戦」はチームが抱えてしまった新たな問題を描きながら、この現実感の乏しい作品に説得力を与えるために用意されている。また、僕はほとんどフットボールを主題にした作品を見たことがないのだが(銀河へキックオフ!とシュート!それから栄光への脱出程度であるし、ほとんど内容を覚えていない)、なるほど、そうきたか、と思ってもらえるものを目指した。サブタイトルで検索すると本当にネタバレである。原題は既報の通り「大物見参」。

第4話「さまざまな理由」は前述の通り吸収のために用意しており、書くうちに目立ってきた名寄由紀恵ともう一人の人物について描きつつ、第5話前半を前倒して構成した。この作品の舞台設定を描いていく回、と今は捉えているが、変化するかもしれない。まだ温かいので自分がどんなものを描いたのか見極め難いのだ。原題は既報の通り「勝利の理由、敗北の原因」。

第5話「境界線を超えて」は物語が動く回である。つまり、主要な登場人物達にとって価値観を揺れ動かされるできごとが起きる回だ。ストーリィとしても彼らの目指す、彼女達の描き出すフットボールを伝えるために表現も工夫した。ドラマもあるので盛り上げ回である。原題は既報の通り「価値ある友情」。

第6話「第四種接近遭遇」はチームの抱えていた二つの問題に対する取り組みを描いた文化祭の回である。フットボールから離れて、登場人物達を描くことに集中した。前話でフットボールを描いたので、バランスを取る措置でもある。一般的に、多分一番ウケる回だと捉えている。原題は既報の通り「ファミリィ」。

第7話「音のない時間の中で」は修学旅行を通じて椛沢優理絵と、メインヒロイン白瀬美波の心象を描いた回だ。この回は幻想的な魅力をもたせたいと思っていて、絵がかなり浮かんでいたのでその言葉にならないものを新しく言葉になるもので書き出すことに苦労した。前話とはうってかわって大変評価が不安になる回でもある。なお全13話の中で白瀬美波の視点で描かれるのはこの回だけである。原題は既報の通り「身の丈知らず」。

第8話「戦術である少女」は主人公達に新たに降りかかる問題とそれへの対応を通じて島津と彼を取り巻く人々の人物像を描いた。登場人物には一言で表せない色々な立場や感情をもたせたい。主人公なのだから特に丁寧に描いていきたい。簡単に言えばこのお話もまた突拍子もない状況を通じて人生の転換点を描くものだからだ。原題は既報の通り「選手以上の存在」。

第9話「17歳の冬」は彼らの関係のささやかな変化をまた彼ら自身の境遇を織り交ぜて描いた。境遇のような話は少しずつ、少しずつ描いて見ている人に浸透させていかないとなかなか理解されないと考えている。まあ、純粋に男女の惚れた腫れたの話だ。原題は既報の通り「そして、恋が始まる」。

第10話「番号が示すもの」からは終盤に向けて物語を動かし始める。そして、新入生二階堂晴海が登場すると同時に彼女の視点から最強の敵、茗荷谷女学院第一学校蹴球部を描く。原題は既報の通り「恐るべきメルカート」。

第11話「戦犯」は主人公島津裕也の変化を描く回だ。状況が進展すれば人は変わっていくと思うので、ここでしっかり描いた。それから、彼ら彼女らが大切にしているものを改めて描く。原題は既報の通り「あなたがいたから」。

第12話「春の誓い」は最終話に向けての整理と準備の回である。きちんと整理して、最後の戦いを迎える期待感を作ることを目指した。原題は既報の通り「禁じられた納得」。

第13話「勝利至上のフットボール」は最終話なので徹底的に試合である。やるべきことをやることを心がけた。原題は既報の通り「アンチ・フットボール」。

なお、全26話でしか必要のない一部の描写は省いたし、既発表の登場人物の名前等も修正している。設定も変わっている。これからも変わるだろう。描くと、描いたことによって気づくこともあってなかなかおもしろい。今も「ああ、もっとこうした方がいいな」とか気づいている。

だが、このまま出してみる。やはり、一つ完成した作品を出してみる、ということも大きな妄想には必要なことだと思うからだ。THE NAME OF THE HEROINEが持っている物語の欠片と、ストーリィの一部分、そしてドラマの影がこの作品にはある。映像とは違い、あまり技術はないから、読みづらいかもしれない。が、魅力ある作品だと思ってもらえるように誠意を込めた。

是非、読んだり、紹介したり、感想を書いて欲しいと思っている。よろしくお願いします。

グラスリップ、再び。そしてP.A.WORKSの良さ。(約9000字)

はじめに

基本的にP.A.WORKSの作品はチェックすることにしている。今期は一期目がP.A.WORKSの作品の中でも出来のよかった有頂天家族2、第一弾花咲くいろはが極めて高い水準だったお仕事シリーズ第三弾のサクラクエストと二作もあって、終盤戦になると制作体力の減少が顕著に露呈することのあるP.A.WORKSなのでやや不安だが、基本的にうれしい。どちらも始まっているが、楽しみに見ている。

今までのP.A.WORKSのテレビシリーズはほとんど本放送でみている。最初に本放送で見たのは花咲くいろはで、それ以前のは当然本放送では見ていないし、明確に途中で打ち切った、泉子さんがどうにも受け付けなかったレッドデータガールと怖そうだから最初から除外したAnotherがある。グラスリップも本放送で毎週見た。だが、グラスリップについては正直わけがわかんねえなんだよこれ、と思っていた。ただ「これちゃんと見ればなんかわかるんだろうな」と思い、最近改めて見直したところおもしろくなったので感想を書く。

先に書いておくが作品解説ではない。だから、百はなんで泣いていたのかとか聞かれても答えられない。未来のカケラとはなんだったのかとか、あの襲われる幻影はなんだったのかとかきかれても知らん。

それから、スタッフインタビューの類はほぼ読んでいない。たとえば、カゼミチアルバムは持っていないから、そこで語られたことなど知ったことではない。まあ、本作の魅力に気づいたので今になって欲しくなっているが。「正解」を望むなら、この文章を読む価値はない。

作品の解釈を書くが、それは僕の個人的な解釈に過ぎないし、皆それぞれが同じであれ違ったものであれ囚われず解釈を持つのが自然な姿だと思う。僕は「作者のひと、そこまで考えていないと 思うよ?」と言われたら「だからなに?」と答える。僕は作品を楽しみたいのであって、作り手の考えの当てっこをする超能力者のゲームに興じたいわけではない。

あと、細かい台詞を再度確認して書いてはいない。もう何周もしているので、大体覚えているから、その記憶に頼って書いている。論文ではない。

典型的な成長物語と定番の手法

どこをとっかかりにして書きはじめたらいいものかわかりかねるのだが、グラスリップというお話は、典型的な成長物語である。そして、その成長物語を描く時に定番の手法を避けたがために、別のやりかたを持ち込む必要があり、それが「定番の手法」を期待していた人間にとっては大変期待ハズレであった、と今は捉えている。だから、問題は期待ハズレであったことであって、別の期待を持ってみればかなり良い作品だということがわかった。

典型的な成長物語、が何を意味しているのかをまず説明しよう。それは「他者や環境によって与えられた条件によって成立していた時間の中で、いくつかの試練を乗り越えていき、最終的にはその時間自体が崩壊することになったが、そこからは先は自分自身で切り拓くものだ」というものである。例えば、P.A.WORKSの作品でもこの形が多く取られている。true tearsは「同じ屋根の下に大変魅力的な少女が住んでいる」という時間があり、その中で隠し子騒動とか乃絵の登場とかいろいろなことがあって、比呂美は家を出ていくことによって時間は崩壊する。そして、乃絵も慎一郎も比呂美も自分自身で先を開いていく、と終わる。死後の世界からかなでは消え去るし、喜翆荘は廃業するし、白浜坂高校は廃校になり、夜見北中学校3年3組はクラスメイトが大勢が亡くなってしまう。だが、音無は前に進むし、喜翆荘の従業員たちは新しい人生の時間を刻み始める。和奏は音大に進み、恒一も先へと向かうことがわかる。

そして「定番の手法」というのは「突拍子もないストーリィを導入してお話の豪華さを確保する」ということだ。デカイ家に生まれて素敵な女の子が同居していておまけに親父の隠し子かもしれない、というのは大分突拍子もない話である。多分、これを読んでいる殆どの人間がそんな異常な家庭で生まれ育ってはいないと思う。自分も友達もすでに死んでいるとか、母親が恋人と夜逃げして親戚の旅館に仲居として放りこまれたり、めっちゃ金持ちの学校に通っていてそこが廃校になったり、自分のクラスメイトがどんどん死んでいったりした人も多分いないと思う。特に最初の例について述べるのならはやく成仏してほしい。グラスリップが意味不明で成仏しきれなかったというのなら、これを読んだら安らかに眠りについてほしい。

作品に求められるもの

「定番の手法」で描かれる「典型的な成長物語」とは、「人生とはかくあるものである」と、未来を生きる少年少女に向けて描かれるものだ。いつか花火を一人で観る日はやってくる、唐突な当たり前の孤独は現れるもので、そのときどうすべきかを描いてやるものだ。P.A.WORKSのアニメってそんなんだったの?と思うかもしれない。これは、歴史的な文脈の話だ。例えば、宮﨑駿監督のスタジオジブリ作品を想像してみれば良い。天空の城ラピュタ千と千尋の神隠しは「定番の手法」で描かれる「典型的な成長物語」で、宮﨑駿監督本人が「男の子のため」「女の子のため」と言っている。ある時好きな女の子を特務機関の少佐に拉致され手切れ金を渡されたとき、その唐突な当たり前の孤独に君はどう立ち向かうべきなのか。両親との言葉が通じ合わなくなったときどうすべきなのか。そしてその中で見つけた海賊一家や風呂屋の従業員たちとの関係もいつか喪失してしまう日が来るんだ。そのあとも進むんだと伝える、「そういうもの」なのだ。

さて、その宮﨑駿監督が2013年の引退会見のときに「この世界は生きるに値するんだ」と言ったこと、それを仕事の根幹にしていることを覚えている人はいるだろうか。調べればすぐ出るが、確かにはっきりとそう言っている。そこでちょっと宮﨑駿監督のフィルモグラフィを想像してみてほしい。彼が描いてきたのは常に「ここではない理想的などこかの世界」ではなかっただろうか。結局彼は「この世界は生きるに値するんだ」ということを描けていない、そう捉えることはできないだろうか。それはつまり「定番の手法」における「突拍子もないストーリィ」を作るための設定が、つねに「ここではない理想的などこかの世界」だったということである。

「定番の手法」はお話に観客を引き込み、興味をもたせ、快感を与えることで、満足感をもたらす。そこを僕らはグラスリップに期待していたはずだし、それはほとんどすべてのアニメ作品がそうなのだ。多分、カゼミチに集った6人の恋愛闘争や、未来のカケラの真相がわかる、といったものを望んでいたと思う。

ところが、グラスリップは、「ここではない理想的などこかの世界」を極限し、「定番の手法」を可能な限り薄め、それでもって「典型的な成長物語」を描こうとしたのである。だから僕らは期待を裏切られたと感じたし、そのショックから作品が本来描こうとしていた成長物語を見出すことができなかったのではないか、と今は思うのだ。

僕らは、映像作品を見るとき、期待して見る。そして、その期待が裏切られると、つまらないと感じることがある。例えば、多くの人は秒速5センチメートルで貴樹と明里が結ばれることを望んで見ていたようで、その結末に納得できなかった、という話をよく目にする。けれども、僕はそれを望んでいたので大変満足したし、逆に君の名は。はあまりに救いがなくてがっかりした。そういう部分だけではないが、人は自分の期待しているストーリィがないとつまらなくなってしまう、ということがあると思う。

未来のカケラに対する過ち

僕は、その薄められた「定番の手法」の中で、唯一残った「未来のカケラ」という単語に惑わされてしまった。それは二つの間違い、まず捉え方を間違ったこと、それからその意味を間違ったことと、一つの想像力の不足によって引き起こされた。

捉え方を間違ったというのは、僕らはそれが殺人事件のトリックのように考えていたが、実際はトトロだった、という話であるる。となりのトトロを見て「トトロとは何だったのか」という説明を求める人はかなり珍しいタイプだと僕は考えている。トトロはトトロである。子どものときにだけ見える妖精のようなものなのだ。そこからその意味や立場を知る必要などない。未来のカケラも「17歳のころに見える未来のようなもの」として神棚に上げるべきだった。でも「定番の手法」であると誤認して、一生懸命「あるべき結論」の捜索に注力してしまったのである。

そして未来のカケラの意味である。これに気づくのがとても大変だったのだが、これに気づいてしまえばグラスリップは大変わかりやすい話である。しかしいきなり未来のカケラについて話そうとすると、ワケがわからなくなるので、主人公深水透子についてまず書いてゆきたい。

深水透子の物語

端的に言うと、深見透子とは「作り手」である。ガラス工芸における作り手でもあるが、もっと大きく「作品」の作り手である。グラスリップの作り手、というわけではない。あくまで一般的な「作品」の作り手だ。そして、それと同時に、深水透子は17歳の女の子であり「典型的な成長物語」における主人公であるから「自分の人生の作り手」である。

また、透子の両親も作り手であったり、かつて作り手であったことが示唆される。「かつて僕はこんな人生という作品を作ったのだ」という自慢話を夕食時に父はしているし、また、母がかつて作品を作っていたことや、父の作りたいという情熱にほだされて透子達を授かる道を歩んだのだ、ということも描かれている。また、陽菜からは、やなぎに服をもらったり、記録を作ったりして自分の人生を作っていく様と先に人生を作っているやなぎへのあこがれや透子への応援が描かれていることがわかる。陽菜は人生の作り手の一人でありながら、その作り手に対するファンや観客でもあるのだ。透子の母はその作り手に対する観客や時にパトロンとして様々な有益無益織り交ぜた意見を与えてくれる。

グラスリップにおける成長物語とは、作品の作り手である深水透子の成長によって描かれていく。それはいわゆる守破離の流れであり、友人たちと築き上げてきた今の環境や関係を守りたいと願っていることから始まる。だから第一話では「高校を卒業したら友達じゃなくなっちゃうの?やだよそんなの」と言うわけだ。「典型的な成長物語」における「時間」を守ろうとしているのである。ところが、その時間を守ろうとした幸の「恋愛禁止」という言葉を衝動に任せて破壊することで人生を前に進め、その結果として互いの忖度で成り立っていたカゼミチグループの危うい関係は崩れ、その甘美な時間から離れていく。確かに「良いことばかりじゃないよ。気づくってことは」。でもそれによって、透子は成長していくのだ。

ハーモニィ処理と蜻蛉玉

さて、作り手には欠かせないものがある。それは、想像だ。自分が何かを作るとき、これを作りたいんだと想像して作っていくのは自然なことだろう。自分の人生なら、あの子と映画に行って、こんな時間を過ごしたい、とか想像するはずだ。小説を書いているのなら「こんなセリフを書きたい」マンガを書いているのなら「こんなコマを描きたい」というように、自分の想像した素晴らしいものがきっとあると思う。だからできたとき「思ってたのとちょっと違う」と修正を施していったり、そこに近づけていくすべてを身に着けていく、それがなにかを作っていくということである。

それがグラスリップだと「ハーモニィ処理」として使われる。ハーモニィ処理は動きが止まって、絵を見せるカットだ。見せたいところだから、そこを止めているのである。

例えば下世話な話、あなたがエロゲーを作ることにしたとしよう。そうしたらエロシーンはあなたの好みの女の子と趣味にあったプレィをするところを絶対に入れるし、一番最初に考えるだろう。例えば妹系の女の子を可愛がるのが夢のあなたが、お姉さん系にしばかれるところを最初に考えることはないはずだ。これがハーモニィ処理で描かれるシーンである。映像作品として思いついた「決まっている」ショット、それがハーモニィ処理で描かれている。

そしてここからが大切なことなのだが、君は森の中で妹系の女の子が可愛くて仕方なくなり歯止めが効かなくなってしまい致し始めるシーンを描いていたのに、やはりするからには乗っかってもらうのもいいな、と思い描いてしまったりはしないだろうか。これが蜻蛉玉である。蜻蛉玉つまり未来のカケラは「これもいいな」というブレーンストーミング状態である。

未来のわたしがぜーんぶ解決してくれますように!

だが、ちょっと待ってほしい。森である。自分が寝転がって女の子にお乗りいただいたら、背中がすごいことになるだろうとか痛くないかとか、相手も膝が痛いだろうとかマムシがでてきたらどうしようとか、終わった後いろいろ拭き取るティッシュもねえなとか、いろいろ考えてしまう。そういうの全部無視したい……。

「絶対に描きたいシーン」のハーモニィ処理と「こんなのもいいな」の蜻蛉玉だけ並べて作品をでっち上げたいのに、どうしてもそのままだと上手くいかない。ので、しかたない燃え上がって行為に及んだわけだけど、おもむろにブルーシート敷くか、みたいなことをやったり「たまたまそこに偶然新品のブルーシートが敷かれていました」みたいにしたり、普通はそうやって妥協する。

だが、グラスリップは一切妥協しなかったのである。それぞれの色が違っても全然構わない、とにかく綺麗な未来のカケラを集めてUHFの電波にのせて夜空にポイっとなげて、花火のようにきれー、とやりたかったのである。その燃えかすが観客に直撃するほど至近距離だろうが、でかすぎて認識不可能だろうが気にしない、そういう態度がグラスリップである。そして、それは「未来のわたしが、ぜーんぶ解決してくれますように!」」だ。

なのでやなぎは全裸で屋内を闊歩したり、競泳水着姿の女子中学生がいきなりチャリできたり、突然季節が冬になったり、転校生の役どころが駆から透子になったり、出会うタイミングがズレたり、百さんが病室から出てきて泣いたりするのである。

人生の物語を描くために

作品の内容と作りを混ぜて書いているのではないか、と思うだろう。混ぜて書いている。グラスリップは作品の内容と作り方が完全に一致していて融合してしまっている。言行一致である。だから、気づかないと本当に意味不明になってしまうのだ。

だって、人生を作っていくって、そういうことではないだろうか。「あの子と付き合いたい」「きらわれたくない」でも「隙あらばヤりたい」。「あの学校に行きたい」でも「ゲームもしたい」。「いいところに就職したい」でも「ゴロゴロしていたい」……。そんないろんな「こうだったらいいのに」があって、それについて「未来の自分」はなんとかするように折り合いをつけていく。矛盾をできるだけ小さく納めて解決していく。

そして、この「こうだったらいいのに」が、想像ではなく「未来のカケラ」というある意味僕を混乱させた、よくない手段を講じて描かないわけにはいけなかった理由もわかる。もし「未来のカケラ」を使って描かなければ、その想像は妄想になってしまい、ギャグになってしまうので流れが壊れてしまうのだ。

グラスリップにおいてギャグは古典的にわかりやすい擬音などと共に描かれる。それは、息抜きのようなもので、しっかり休憩するためだ。やなぎのいう「休憩所」である。なぜなら、グラスリップというアニメは他でもないP.A.WORKSというスタジオが作っている。このスタジオはこの作品に必要な情報をしっかり注ぎ込める。グラスリップの成立には「この世界ではない理想的などこかの世界」ではなくするための「現実感」を実現するための情報量が必要不可欠だ。そして、だからこそその情報量に頭がヤラれないように、休憩が必要だ。エンディングも「今回の情報」を整理するための息抜きの時間だと捉えたほうがいい。

現実感とは、何か

僕は一般的に「現実感」と呼ばれているものを「現実感」と「納得感」に分けて考えている。例えば、僕はシン・ゴジラに現実感があるとは思わなくなっている。僕は首相官邸に入ったことはないし、官僚と仕事をしたこともない。だから、今からそこに行っても、そこに現実感は感じずむしろ非現実感を感じるだろう。僕は、シン・ゴジラの公開当時「東日本大震災を思い出した」という人がたくさんいたのでびっくりした。僕は首相官邸内部の動きなんか知らないから、思い出しようがないし、地震にはあったが津波にはあっていないので、まったく東日本大震災とは関係ない作品として見ていた。よくある「怪獣映画の災害描写」と思って見ていたし、今も見ている。

けれども、シン・ゴジラの登場人物たちの行動や発言がお伽話のように見えるということはない。「きっとこういうことになったらこういうことになってしまって、テレビの向こう側で見ている僕たちにはこんな風に見えてしまうんだろうな」という感覚がある。それは現実感ではなくて納得感だと思う。

僕が現実感と納得感の話をする時、現実感の例として松前緒花の東京北陸間の移動手段を挙げる。緒花は資金を提供されたときは快適な新幹線と特急で東京北陸間を移動する。一方、個人的な事情の時は高速バスだ。そして、仲間とともに行く時は喜翠荘のバンで移動する。東京北陸間でなくても、ある程度の距離を移動する時、こういう移動手段の選択をする、という人は結構いると思う。そういう人にとってはそれが現実感だ。

街を丁寧に描いて、そこにキャラクタ達を迎え入れ、そして現実感のある描写を積み重ねていく、そうすることで「典型的な成長物語」の伝わりかたは強くなっていく。だから透子は「駆くんがこの街に来てくれてよかった」と言うのだ。

P.A.WORKSの持っている力

P.A.WORKSの特徴を語る時に「現実の地域を元にした舞台設定」と「美しい背景」を取り上げる人は少なくないだろう。それは現実感や納得感の補助であり、P.A.WORKSはそれを作ってきた技術と実績がある。現実の写真をそのまま背景にするということではなくて、作品に寄り添うように改変していく確かな技術がある。現実そのままであれば、現実感は生まれるかもしれないが、映像作品としてのおもしろさを失っていってしまう。それを巧みに避けていく歴史に裏打ちされた強い力をP.A.WORKSは持っている。

設定も同じで、すべてが現実的である必要はない。僕だってカゼミチのような溜まり場はなかったし、あんな恋愛に発展するような高校生活でもなかった。でもそれによって描かれたグラスリップの「憧れの世界」は僕らにとって絶対にありえない「ここではないどこかの世界」というわけではないはずだ。それはグラスリップという「典型的な成長物語」が「定番の手法」でなく描かれた稀有な作品としての下支えになっている。そして作品の作りはハーモニィ処理と未来のカケラ、つまりP.A.WORKSが描けるものを精一杯書いて、不用なブルーシートを敷いたりすることなく、夜空に放り投げて花火のようにきれいだと楽しみ、その結論を未来のわたしに託している。だから、グラスリップP.A.WORKS史上最もP.A.WORKSの良さが出た作品だったのではないだろうかと今は思っている。

花咲くいろはの傑作回「微熱」と「プール・オン・ザ・ヒル」にもあった、なかなか深夜アニメではお目にかかれない映画的なゆったりとした時間の流れを作り出す映像技術と、その尊さを評価し、それを許してくれる衣付きの製作が、P.A.WORKSにはある。だから、こんな作品が作れたのではないだろうか。

おわりに

真夏のプールから見上げた空に舞う戦闘機がファントムからイーグルに変わるような、確かな、でも穏やかな違いを丹念に描くことで、「典型的な成長物語」を「この世界は生きるに値するんだ」と描けた作品である、そう捉えてもう一度見れば、きっとグラスリップは輝く作品だと思う。

その少なく幼い台詞や、細やかなふとした仕草、舞台を包む光や風や色からは、高校生活最後の夏の儚い輝きとその喪失、そして僕らが自ら切り開いていく未来が確かにあると思えたら、それはとても素敵なことだと思える。「今度の明後日開いてる?」という現実感のある不自然な問いかけ、「雪くんにひどいことしてるのかな?」という具体的でもさほど深刻でもない微妙な不安、「カッコ悪くならないでください」という拙くしかし切実さの伝わってくる訴え、「僕、帰るね」という大切な人に向けての譲れないラインの提示、「やっぱ、お前と話すと落ち着くわ」という不器用で恋から始まったのではない愛から始まった恋愛につながる言葉、それは「なんでもない」ことかもしれないが、それは大切なことだと思えるかだ。同じ意味の言葉は確かにあるが、違う意味で言っていると思えるかだ。

逆に、そこに価値を感じられないのなら、多分、グラスリップは「合う」作品ではない。

「私って、わかりやすい?」と今きかれたとしても、やはり「そうでもない」と答えてしまうだろう。でも僕は、偶然この魅力に気づいたわけではない。この作品の魅力を「見たいと思ったから見えた」。そして自分が「俺は透子が見たかった」ともう一度思えるなら、ぜひ見てほしい。僕は、本当の透子の美しさ、僕らの生きるこの世界が生きるに値するのだと示してくれた物語の主人公の素晴らしさを伝えたくて、この文を書いている。透子は「なんにもしてあげられてない」と言うのだが、僕らは彼女の人生の物語を見て、それで十分なのだ。そこからどうすべきかは、自分で考えることなのだし、星がないのなら、今度は自分で自分の未来のカケラをつくり、星を作れば良いからだ。

見始めても「お前、なーんも変わらないな」と思うかもしれない。普通そうだろうと思う。けれども、僅かな沈黙の後に、その可愛らしい純粋無垢な表情を前にして「……変わったのか?」と僕は思えた。そういう、作品の内側と外側が柔らかくつながり、揺蕩う快感を得られる、そんな作品だと今の僕はグラスリップを評価している。

また可愛い後輩に叱られそうなことを

f:id:TOYOZUMIKouichi:20170331075914p:plain はじめに肝心なところを書いておこうと思います。来週水曜日、つまり2017年4月5日から、13週間かけて毎週小説を発表します。ぜひ、読んでください。17歳の少年が監督として祀り上げられた部活で、いかに最初のシーズンを戦い抜いたか、というお話です。

昨年はいろいろ発表した年でした。まず、ちょうど一年前にはアニメを5秒ほど作って公開しましたし、映画祭にも何本か出品しました。同人誌も頒布しましたし、ブログに記事を書いたら、ものすごくたくさんの人に見てもらいました。よかったと思います。

昨年に限らず、いろいろと発表してきましたが、実はやっていなかったことがあります。それは、最も自信のあるものを発表する、ということです。

糊口を凌ぐために書いているプログラムや、メディアやブログの記事などいろいろ発表していますが、最も自信のあるものではありません。映像作品であったとしても、最も自信のあるものを発表したことは一度もありません。

それは、やっぱり怖かったからです。自信のないものであれば、どう否定されようが「まあこんなもんだよね」で済ましやすいので、発表しやすいのです。今日も下手な絵を掲載しましたが、別にこれを「下手だ」と言われても「まあ、下手だよね」の一言で済みます。

こういう話の流れにしているのだからわかると思いますが、自信のあるものを発表しようと思います。長年作っている、THE NAME OF THE HEROINEというお話を少し小説として描こうと思います。前みたいにPixivに上げるか、なろうに置くかはまだ決めかねているのですが、少なくともすでに全13話のうち8話は脱稿しており、基本的に一日1話書けるので、最後まで行くでしょう。頭のなかにほとんど話はできているので、それをいかに出力するかだけの話ですから。

とはいえ、出力速度と時間には限度がありますから、一話大体5000字です。小説の技術がないので読みにくいかと思いますが、短いので読みやすいとも思います。なので、読んだり、感想を言ってくれたり、紹介してくれると嬉しいです。

さて、自信のあるものってなんなのか、って話を書きたいと思います。別に小説に自信があるわけじゃありません。技術がありませんし、新人賞で歯牙にもかけられなかったことが二度ありますし、何度か発表していますが芳しい評価ではありません。

昨年発表した作品のなかに「失われたフィルムを求めて」という作品があります。この作品は、完成させられなかった作品をまとめて新しく作品として仕上げたものでしたが、今まで「よかった」とか「映像がきれいだった」というのが大方の評価であった僕の映画作品とは違って、ある評価を普段とは段違いの人数からもらいました。それは「おもしろかった」です。

作品をつくるとなると、やはり否定されるのは怖いので、どうしても他人に説明可能で、はっきりとした長所を用意します。それは例えば映像の美しさやカッコよさやすごさであったり、お話であったら燃える展開や泣けることだったりします。別にそれが悪いとは思わないし、今までもそうしてきたし、これからもそうすると思います。

でも、僕はおもしろいことを大事にしたいし、おもしろい作品を作りたくていろいろなことをやってきたので、そこに自信があるわけです。というわけで、今回の小説はおもしろいです。またその話かよ、と思われるかもしれませんが、僕は庵野総監督が「なによりおもしろい、おもしろい日本映画を目指してやっていきたい」と言った姿を劇場で見て、純粋に憧れました。なので、その真似をしようと思います。

一方、THE NAME OF THE HEROINEはTVシリーズのアニメとして妄想しています。ですから、そのまま小説にしてもおもしろいはずがありません。というわけでAnother Sideです。アニメで僕が描こうと思っているもののその一部分、つまりお話の部分を、時にそのままなぞっていますが、時にまったく別の視点から描いています。そして、全26話のものを半分、13話しか描いていませんし、肝心な部分も描いていません。二シーズンに渡る物語なのに、最初のシーズンの終わりまでしかありません。それでも、この作品のおもしろさは伝わると思っています。そして、「これは本来の姿の方がもっとおもしろいはずだ」と思ってもらえると信じています。

10年前の4月1日、僕は大学生になりました。大学生、大学院生としての生活はとても楽しかったし、今こうして作品を作っているのも、大学生のときにいろいろなことができたからです。そして10年前の今日、つまり3月31日も楽しくしたいと願っていたことを覚えています。これからをもっと楽しくするために、覚悟と勇気を持って、今再び手を打っていこうと思います。

この作品は、17歳がとても幸せとは言えなかった自分の恨みと辛みでできた作品です。どんな手を使ってでも逆襲を誓う、自分たちの欲望を実現するために、勝利を掴み取るために、あらゆる誹りを慮ることのなかった少年たち、少女たちの、穢れきった戦いの物語です。その純粋無垢な輝きにご期待下さい。

ひるね姫:感想(約1万2千字)

はじめに

火曜日はシン・ゴジラBlu-rayが到着するのでさっさと帰宅して見たかったのだが、興行がコケて平日夜の上映がなくなると会社帰りに映画館によってTOHOシネマズの割引日に見られなくなる可能性があり、かといって通常料金で見るとハズレだったときのダメージがデカいので、昨日「ひるね姫」を見てきた。

とてもよかったので感想を書く。なかなか評判がよろしくないのだが、よくできている。神山監督の作品としては最高に出来が良いと感じる。感想を一言で言い表すなら「僕が思っていた神山監督の作品の嫌いなところがない作品」だ。細かく書こうとしているので、前フリが結構あるので、一番良かったところを知りたいのなら「ソフトウェアの映画」まで飛ぶといい。

いつものことながら、作品解説でも評論でもない。感想である。僕個人が見てどう思ったか、僕個人が自分の経験と重ねたり境遇に連ねたりして思うところを書いている。

それから、一回しか見ていない。何度か見たいのだが、今はグラスリップの感想と映画の脚本と小説と新幹線の記事と演技の技術解説と撮影技法の本を書いており、ビルの爆破のためのモデリング作業とコミケのためのお絵かきとそれから積んでいるガレキを作ったり部屋を片付けたりいろいろやることがあるし、シン・ゴジラBlu-rayまだ本編しか見ておらず、さっさと特典も見たいので今のところ2回目に行く余裕はない。ので、記憶違い事実誤認等あると思うが勘弁してほしい。あまり時間がないのでロクに推敲もしていない。例によってほとんど行き帰りの電車の中で書いた。

例によってネタバレ全開である。あと「とある映画に対するアンチな思い」が充満しているので心が狭い方や「飲み会でケタケタ笑いながらしゃべっている」のイメージが理解できない方は帰ったほうがいい。では始めよう。

神山監督の嫌いなところ

いきなり監督の嫌いなところを書き始めるのは感想だから許される。たぶん。念のため書いておくが「嫌い」なのであって「間違っている」のでも「悪い」のでもない。ひるね姫の話は先の「ざっとまとめて話すと」からメインになるのでお急ぎの方はそちらへどうぞ。

僕は神山監督の作品はミニパト攻殻機動隊S.A.C.三作、東のエデン、それから009RE:CYBORGを見たことがある。

僕がミニパトを除くこれらの作品の中で共通して嫌いなところを次に述べる。

まず、ヒロインだ。神山監督の今までの作品のヒロインはどれも共通してヒロインが嫌いだった。いっつまでも男を小馬鹿にしたような態度を取ってイキがる草薙素子、ぐだぐだやってて好きでもない男に思わせぶりな態度を取っていいように扱う森美咲、色ボケとしか思えない上に下着の趣味も体形も行動もババァくさいフランソワーズ(まあ実年齢ババァなんだが)、どれもヒロインとして認めがたい連中ばかりだ(田中敦子さんは好きです早見沙織さんも好きです斎藤千和さんも好きです)。

次に、延々と政治的信条や最近の情勢についての知識を披露するための設定やキャラクタが嫌いだ。「はい監督はお詳しいですねありがとうございました誠に結構なお考えだと思います次に行ってくださいまし」と言いたくなる。何より、神山監督の特徴として最新の技術を作品に取り込む、という点が挙げられるが、その取り込み方が、学部四年生がやるような「僕はこの技術を使ってみたいから研究テーマを定めました!」みたいな感じで、作品の根幹にならないところが嫌だった。

わかりやすい例だと東のエデンシステムだ。「いろいろARでタグ付けして楽しいのはわかった。でもお前が描いてるのは既得権益に対する反発からのこの国の革命に英雄は必要ないんだというシン・ゴジラの元ネタだろ!どこにそのARが必要なんじゃい!」と思ってしまう。押井守監督作品にも信条や思想を滔々と語るキャラクタが登場するが、それはその思想が作品の中心であるから僕は受け止められる。現代の日本における戦争ってなんなのか、という映画において現代の日本における戦争を描いて現代の日本における戦争について語るキャラクタが登場する。攻殻機動隊フチコマは出さない。ところが東のエデンの場合、既得権層に反発する連中の話に全く関係のない技術が登場して、描かれるのはテロだかクーデターだかよくわからないシミュレーションゲームじみたことと自分探しの旅みたいな話で、キャラクタは好き勝手この国がどうのなどと話しているから、どこを真ん中に据えたらいいんだ、と僕は捉えてしまう。

それからエンディングのダラダラした感じが嫌いだ。「9課は壊滅してみんな逃げました。それから、二人でホテルにしけ込んで…トグサはうだうだ喋りながらAパート使い果たして…そこいらんわ!さっさと図書館行けや!」となってしまう。009も宮野氏が「神よ!」とか叫んでて狂気のマッドサイエンティストにしか見えねえなもうお終いかなと思ってたら延々とお話が続いたし(このときはだいぶマシになってた。念のため書いておくが神山監督以下スタッフも悪くないし宮野氏も何も悪くない良い島村だった)、「お前なんでうまく夜明けにして午前の激しい日差しの中に咲ちゃん飛び出して愛する滝沢くんを捕まえたのに、一生懸命映画一本かけて夜が明ける様子を描いたのになんで夜に戻すんや!」ってなっていた。

が、このひるね姫は違う。ヒロインは正直予告編を見たときブサイクだから「なんでこんなもんにしてもうたんじゃ……夏希先輩みたいに黒髪ロングで肩紐白ワンピ着たりお願いとウィンクしてくれるようなテンプレ女の子がワイみたいな30近い童貞は好きなんや……なんでわからんのや……」と思っていた。が、ココネ、見たらわかるがめっちゃいい子である。育ちのいいフリをして他人の財布から金使い放題やりたい放題で悪びれないどっかの女子高生とは大違うわこら何をするやめろ。

この作品は自動運転車が鍵になるが、この技術は作品が描いている「ソフトウェア」にしっかり合致する。この作品はソフトウェアのお話なのだ。

クライマックスを終えると、あっさり時間を立たせて何があったか最低限の情報をテレビでざっくり説明、めでたしめでたしなワンシーンをさらっと描いて、感動のエンディングへと雪崩れ込んで行く。

僕にとっては神山監督の嫌いなところが全部なくなっていて、大変よかった。

タチコマについて

神山監督というとどうしても攻殻SACになってタチコマの話題になるし、この作品は僕の見立てではタチコマの演出についてのもう一つの回答になるので、タチコマについて書こう。

結論から言うと僕はタチコマというキャラクタは可愛いと思うが、その描き方は嫌いだ。なぜなら人工知能を描こうとしてやれているのは「はい人工知能を描いてますよ」「はい可哀想ですねここで泣いてください」と言わんばかりのものだからだ。

第1シリーズのタチコマ御涙頂戴回も白けていたし、「手のひらを太陽に」も受け付けなかった。人工知能としてのタチコマを描くなら、こうして欲しかった、というのがひるね姫にはある。

神山監督の魅力とは

じゃあ僕が神山監督の作品で好きなところ、もしくは監督の尊敬できる点はどこかというと、時折見せてきたスパッとキレるような場面である。

攻殻SACで言うなら、やはり笑い男の初登場の衝撃は忘れられない。強敵の登場方法というのはいろいろあるが、僕が愛する名画「ダークナイト」のヒースレジャー演じるジョーカーでもあれほどの衝撃を持った登場ではなかった。平面に投影された笑い男のサイン、他人をハッキングして登場するそのやり口、完全に優位に立っていることが記号的でなく自然に紡ぎ出される台詞回し、音楽の使い方、全てが見事だった。自分が悪役を登場させるならこの水準に達したいと思わせるものだ。

そこの前振りであるインターセプターの使用が発覚する場面も見事だ。なんの変哲も無いプライヴェートショットに隠された恐るべき事実が暴かれて行く様は見事なものだった。

他にもアームスーツとの最初の戦闘の時間の長さを動かしてしまうような緊迫感の演出、HAWに対して勝ち目がないことを説明する剣菱の役員の言葉に宿る将棋で強敵に確実に詰められており自分の玉将に生き延びる手がないことを強制的に理解させられるような恐怖、ゴーダの暴言に反論するバトーの熱い魂や、そのゴーダが終わりを迎える時に現れた「奴ら」によって描かれる「彼の国」の恐るべき強大さなど、素晴らしい場面の構築技術をもって一瞬で時間を引きつけて輝かせるようなことを神山監督はやってきた。

全裸の王子様を捕まえてワシントンの街を駆け抜けるときに物語の始まる予感がしたし、水上バスに飛び乗るときには恋の予感があったはずだ。咲の悲しい告白に持つべきものの義務で答える滝沢に憧れなかったと言ったら嘘になるだろう。森タワーの屋上から飛び降りて行くときの流れるような映像と音響の連動によってゼロゼロナンバサイボーグが描き出す新たな戦いの予感に心を躍らせたし、3D立体上映の利点を僕が知る限りあらゆる映画の中で最も生かしたラストの水面周りはまさに神秘体験を作り出していた。僕が神山監督の作品を観るのはこういったキレ味の鋭いカミソリのような場面を期待しているからだし、尊敬しているのはそういう引き出しを持っていること、出してくることだからだ。

そんな神山監督の作品の中でも最高の流れだと思っているのは前述した東のエデン劇場版IIの「夜が明ける」ところだ。方々で書いているが、このシーンは本当に見事だ。物語もストーリィもドラマも夜明けを描いていて、美しい絵も夜明けを描いている。この演出を上回るものはほとんど見たことがない。作品が全力で何かを表現する、というのは簡単だが、ここまでやりきった作品は稀有なものだ。映画のすべてが夜明けというものを表現している。ひるね姫を観た後もその輝きは変わらないが、ひるね姫にはそんな監督の良さがたくさん詰め込まれているのでそれを記しておきたい。

「映画は全体である」という面もあると思うし、なんとなくよくわからなくてこの作品に落第点をつけてしまう人もいると思う。けれども小さな描写を読んで行くことで「アニメ映画のひるね姫」を楽しんでほしいと思うのだ。

ざっとまとめて話すと

ひるね姫という映画をぼくは「技術の映画」そして「ソフトウェアとは何か」というお話だと思った。

技術の映画であることは一度見ればわかると思うので、ここではソフトウェアについて書く。

ソフトウェアの生物性を描いたのが攻殻機動隊だが、ひるね姫においても親子三代の物語としてその部分が描かれる。

が、そこは作品全体を通して描かれていることではないと捉えている。最後にまた書くが、先にちょっとこのことを覚えていてほしい。

あと、ストーリィの語り口の上手さについてはパンフレットで作家の上橋氏が見事に語られているので、それを読んだほうが良い。

説明しないこと

僕は説明しないアニメが好きだ。昨年夏に発行した同人誌にいろいろ書いたが、最低限抑えるべきを抑えておいて、「あとはまあわかるでしょ」という態度の作品が好きだ。

ひるね姫はかなり説明しない方のアニメで、ここでこういうセリフを言わせておけばわかるよね、ここにこういう映像を挿しておけばわかるよね、という具合でストーリィを走らせていく。ここで脱落してしまう人がいるかもしれないが、ちゃんと描いてある。描いていないのは「昼寝とはなんだったのか」だけだ。

でもそれは映画の大きなファンタジィの部分であって、細かい部分は何度も正確にトレースしたわけではないがまとめられている。

日差し

本作でも夏の日差しは健在だ。

色々な場面があるが、特に印象に残ったのが警察署のシーンの外の陽射しと、サイドカーが帰還したあとのガソリンスタンド付近の日差しだ。

夏の日差しの描き方についてはいろいろあるが、本作もまた新しく良いものだったと思う。

階段を降りる

さて、映画が始まると、ココネが階段を降りてくる。この時、最後の数段をココネが飛び越えている。これは親父が作業テーブルとして使っているからだ。

このワンカットで親父が生活のことなどロクに考えていないちょっとズレた人間だということがわかるし、ココネもそんな親父に慣れきっているということがわかる。

そのあと様々な形でそれが描かれるが、大切なことは細かい描写を積み重ねてどういうものかをしっかり観客に伝えることだ。

よくあるミスとして、最初の方にちょっと描いた伏線をあとになって大々的に回収して作り手からしたら見事な作りなのだろうけれど、観ている側の大勢からしたら唐突すぎてわけわからない、というものがある。そういう事態を回避するためにひるね姫は3つの策を講じている。こういう細かな描写はそのうちの一つだ。二つ目はわかりやすく描くこと、三つ目は軽い伏線を軽く回収して慣れさせることだ。後で出てくる。

また、この動きを難なくこなしているココネの運動に関する制御ソフトウェアの良さがわかる。バランス感覚が良いのだ。これは後半の大アクションにおける伏線だ。

飛び乗る動き

ひるね姫の魅力の一つがアニメ作品としてのレヴェルの高さだ。僕はこの部分を見に行ったのだが、期待に違わない出来だった。

一つ目にあげるのはエンシェンがサイドカー(ハート)に乗り込む時の動きだ。人間が飛びのろうすると、ああいうふわっと飛び乗る運動はしない。あの動きをするにはハンドルをしっかりと握り、相当力を込めて身体を押しとどめていかないとベタッと落ちてしまう。つまり、嘘っぱちの動きである。

が、その嘘っぱちの動きが気持ち良い。良いアニメートだと感じる。もちろん、夢の中だから気持ち良さ優先と捉えても良いだろう。

それから、エンシェンの運動能力の高さ、つまりイクミも運動能力が高いということがわかる。

自動運転車のディスプレィ

モモタローが老人に自動運転車をセットアップしてやる場面には二つの見所がある。

まず見せ方だ。目的地を設定しているときに、まだカーナビの説明が必要な老人がいるんだな、となんとなく捉える。老人が右に座っているから運転席についていることがわかるが、ハンドルが自動で切られるのであれ?っとなるが、今度は外から老人が運転席についていることが再び描かれるので、やっぱり運転してるのか、となって、モモタローのセリフで自動運転であることが確かになる。なるほど、カーナビの説明ではなくて自動運転の説明だったな、ということがわかるわけだ。

軽く伏線を引いて軽く回収していて、そのことによって伏線を張って回収する作品だと観客に慣れさせていく、という二つの作用があるし、もちろん自動運転が認可されておらず一方でモモタローはそれを持っている、という伏線の張りどころにもなっている。

また、ここで登場するシステムの画面デザインが非常に良い。今までこういったディスプレィは妙に洗練されすぎていて「なんで無骨な業務用システムなのに色数豊富で線にアンチエイリアシングがかかっていて、グラデーション彩色までしてて、アニメーションは無駄に滑らかなんだ」と思うことが多かったが、色数少なく実用一点張りのデザインで大変よかった。まあ、今ならAndroidあたりに雑にコンポーネントをペタペタ貼り付けたインターフェイスになるんだろうが、まあそこらへんは目を瞑ろう。

ココネの投球モーション

掃除をサボって逃げ出そうとする男子生徒たちに、ココネは何か投げつける(何かよくわからなかった)。ココネの身体能力の高さ、特に足腰の強さが描かれるシーンだ。

野球をやったことがないとわからないかもしれないが、足腰が強くないと芯が定まらないので、遠投したときに自分の振る腕の遠心力に煽られてコントロールが定まらなくなる。肩の回転による角速度は人体の中でもスピードが出る部分だから、その遠心力はかなりある。移動予測をしながら投擲に入ってあのコントロール、ということは身体能力が高いということがうかがえる。

さらに、時をかける少女の真琴は「女投げやめろよな」と注意されていたように、肘で投げる女投げである。対してココネは肩で遠投する本格的な投球姿勢であることにも注目したい。

また、ココネのように身体の軽い女の子はタイミングを合わせるとよりコントロールが安定する。ああやって助走をつけているときは特にそうだ。ココネは投球モーションに入る前に片足でつっかけてリズムを取る。見事な作画だ。

鴨居の低さ

渡辺が森川家に入ってきたところで顕著になるのが、森川家の鴨居や天井の低さだ。高度経済成長期あたりに建てられた家の中にはまだこういった作りの建物がある。

長いこと使っていたことが感じられていて良い。自動運転装置のディスプレィと同じでデザインの良さがある。

足音

渡辺が森川家に侵入したとき、ココネは足音で自分の存在がバレかける。その後高松空港でジョイ奪還を目指す時にはバレないように靴を脱いで接近する。

これも軽く伏線を引いて軽く回収しているし、さらにココネの「知能」水準を見せている。前に起きた事象から次に起きる事象を予測して、さらに不本意な結果にならないように事前に手を打っているわけだ。

田圃の夜

二人が逃避行して社で夜を明かす時、ココネが畦道に立つ姿を遠くに捉えたレイアウトがある。明かりのない夏の夜に星空が見えてとても綺麗だ。この空気感はこの写真を撮った時と同じなので「ああ、やっぱりいいよな」と思った。素敵な絵だった。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170213223259j:plain

かな入力

社でタブレットからSNSに書き込んで連絡が取れるかもしれないと思ったココネが書き込む時、ココネはかな入力を行なっている。ここは、他のシーン、つまり志島自動車を知らないとかいったことと合わせて、ココネの「知識」水準を描いていると捉える「こともできる」。ココネはおそらくローマ字を覚えておらず、かなでしか入力できないのだろう、というわけだ。そう読んでおくと後でおもしろくなるのでそう読んでおこう。

他人の財布

モリオが新幹線に乗る金がないと言ったココネに対し、渡辺の財布から拝借したらどうかと提案するとココネはそれを否定する。他人の財布に手を出してはいけないという「良識」や「規範」がココネの中にあるわけだ。ここも抑えておきたい。

マルス

新幹線に乗りたいと書き込むと、JR西日本の職員がやってきて、ココネにマルス券を渡してくれる。このときマルス券がアップになるがC席である。東海道新幹線を二人で移動しているのにC席を割り当てる、ということはグリーン車を手配してくれた、ということだ。実際、二人はグリーン車に乗車する。

グリーン券かどうか見ればいいじゃんと思ったあなた、その通りである。僕がグリーン券の表記があったか覚えていないのは、昨年の夏に3人がけを山側に設定した東海道新幹線というとんでもない映画を観てしまい、どちらに座るのかが気になったからである。

「金にある程度余裕のある人間だな」ということがわかるし、ココネに対して本当に好意的な人たちか、もしくはかなり悪辣な罠であることが予想できる演出である。

幕の内弁当

乗車して腹が減ったココネはまたSNSに書き込んで弁当のデリバリィを受ける。これは新幹線のチケットを入手したことによって「前例」を得たココネが「知能」を発揮するという伏線回収シーンであり、伏線の新規設定でもある。

どんな育ち

渡辺に対し、ココネはどんな育ちをしているのかと非難する。ココネのオヤジは元ヤンでココネも徹マンするような女子高生でまったく良い育ちではない。やり返して盗ろうとは思わない。

字面通りに捉えるなら大企業で役員に上り詰めている渡辺の方がずっと育ちは良いだろう。

が、ココネはここまで説明してきたように、「マトモ」である。盗られたもんは取り返すが、だからと言って報復するような捻じ曲がった根性はなく、ただ謎をときに行くだけである。ここも抑えておきたい。

走るココネ

ココネは走る。この走るシーンは見事な作画で「あ、多分カリスマの担当はここだな」と思っていたのだが、本当にそうだったらしい。

走りは難しい。望遠平面投影横位置ならともかくこんな3Dガイド合わせでアングルもパースも変化するところに人間らしい動きを載せるのは神業と言って問題ない。

作画も見事だが、ここでも伏線が回収されている。前半に描いてきたココネの運動神経の良さが現れているわけだ。

スジと配慮

ココネは終盤、着地後にこっそり抜け出して「連絡を取らない」という筋を通そうとした親父を捕まえて会長に引きあわせる。これはココネの「こうした方が良かろう」という「知性」による行動だ。べつにそうしろと言われていたわけでも、前にそういうことがあったから学習したわけでもない。ココネの知における性分から「こうした方が良かろう」となったことが想像できる素晴らしいアニメートだし、良いシーンだ。

主題歌とエンディング

まず主題歌について書こう。

僕は昨今の「主題歌悪玉論」に異議を唱えたい。主題歌というものは本当にハマれば良いものだ。僕が最初に感じたハマりきった主題歌は「ガメラ3邪神<イリス>覚醒」の主題歌「もういちど教えてほしい」だ。その映画がどういうものであったか、何を描いたか、つまり主題それを歌にしたもの、それが主題歌だ。 ハマりきった主題歌がエンドクレジットに演奏されれば、映画の余韻をさらに良いものにする。

テレビアニメだと「シュタインズ・ゲート」の「Hacking to the Gate」なんかがこれに該当する。「なんとなく雰囲気があってる」程度ではダメなのだ。「THIS IS IT」が必要なのだ。

ひるね姫の主題歌デイドリーム・ビリーバーは、かなり高い水準で「主題歌をしている」と僕は思えた。

まるで白昼夢を見ているような親父にとってのクイーンの姿が描かれるエンディングに、この曲はふさわしいと思える。

が、あえていう。この映画の最悪のシークエンスはエンディングである。

これほどのアニメータの技倆を見せつけられて、エンドクレジットを追わない気になれるだろうか。その裏で西尾さんの情感たっぷりの原画によるアニメが映し出されているのは悪魔の所業としか言いようがない。そもそもエンドクレジットの時間ぐらいのんびりさせてほしい。ちょこまか細かいネタを仕込んで伏線回収祭りにしているので、情報過多である。例えば親父のバランス感覚が良いことがわかるので、エンシェンつまりイクミの身体能力が高いことと相まって、ココネに運動神経のソフトウェアが生きていることがわかる。そこには攻殻機動隊と同じソフトウェアと生物のつながりが描かれていて、それは後に書く僕が思う本作の最大の見所において大切な役割を果たしているのだ。

賞賛したいのだけど、出来がいいから賞賛すべきなのだろうけど、僕のこの気持ちをわかってほしい。

欠けていること

ちょっとナーバスなことを書いてきたのでここで書ききってしまって最後は良かったことを書いておきたい。

ひるね姫で一番残念だったのは、何かが始まるドキドキする感じがなかったことだ。さらさらと物語が流れて結末にたどり着いてしまったので「映画館に来てすげえ楽しそうな映画がはじまったぞ!」というところが僕には感じられなかった。

去年の7月29日、蒲田くんが大スクリーンに現れたときの衝撃や、新幹線N700系電車が突撃してきたときのとてつもない希望、会社を上がって満員の劇場で夢灯籠を効いたときの「イケる」という感触、前々々世がはじまった時の「新海監督の伝家の宝刀が炸裂するぞ!」という高揚感、そういうのが残念ながらなかった。 確かにビジュアルは素晴らしいし、アニメートも最高なのだけれど、すべてのレベルが高すぎて「おーすごいすごい」「うんうんそれでー」みたいな感じで盛り上がりに欠けたように僕には感じた。繰り返すが感想なので正しい間違いの問題ではない。

だからと言って映画館で観る価値がないかといえばそんなことはない。暗い部屋、大きな画面で隔離されて全てを映画に集中してたゆたう時間は大切なものだし、それに耐えうる強度を持っている。集中し続けないとすべてを堪能できないほどによく作り込まれている。映画館という環境を生かす別の方向で作品が作られているだけの話だ。

ソフトウェアの映画

さて、いろいろ書いてきたが、そろそろソフトウェアの映画としてのひるね姫についてまとめよう。

いくつかカッコ書きで書いてきた「知能」「知識」「知性」「規範」「前例」「マトモ」というキーワードをこうして列挙すれば気付くかもしれないが、これ、自動運転に全部必要なのである。

つまり法律や車の制御に関する「知識」、今起きている事象を捉え用意されているケースに落とし込んで行動に変換する「知能」、なんだかわからないけど生き物っぽいものがいたらそれを轢かないようにするという「規範」、人通りが少ないからといって傍若無人な走行をしない「良識」、「前例」を覚えておいてより良い方向に近づけようとすること、追い越し車線を走行して渋滞で詰まったからといって少しずつ流れている走行車線に割り込まない「マトモ」さ、こういうものが全部揃わないと、ハンドルフリーで自動運転なんかできないのである。とくに問題なのが「追い越し車線を走っている自分が外側になるカーブで内側の走行車線の先に故障車がいたら、並走するまだそれが見えていない車相手に強引な幅寄せをして減速させてやる」というような「知性」である。

もうわかったと思う。この映画、モモタローとイクミによってこの世に生まれたもの、つまり自動運転とはココネ本人なのである。だから親父がハンドルフリーにしても勝手に目的地に行ってやるべきことをやったのだ。そしてそれは子供が大人になっていくということは知を育み養っていくということなのだ。ココネは素性の良いソフトウェアであって、その経緯は夢の中であろうが現実なのかは関係ない、良い結果になったということが重要なのである。自動運転は単なるギミックでなく、作品の芯として、ソフトウェアを育てていくことを描くために作用しているものなのだ。

ここまで書けば僕がタチコマについてどうあってほしかったと思っているかわざわざ説明する必要はないだろう。そういうことだ。

ハードウェア屋がソフトウェア屋に頭を下げる日が来たら

いろいろ書きたいことはあるのだが、すでに一万字を超えており、そろそろ収束させようと思う。最後に志島の会長が喋るこの台詞について書いておきたい。

自動運転が大きな題材であることから、冒頭のシーンを含めてこの作品を日本の自動車業界に対する風刺だと捉えている意見を見ている。否定するつもりはないが、僕は別の話と捉えることができることに気づいた。

肝心な話を書くから、先にしっかり断っておく。「神山監督がそう思っている」と書いているのでもない。「豊住はそう思っている」と書いているのでもない。誰の意見を想定してもいない。これはオタクの楽しみ勝手解釈を披露しあって「なるほどそういう風にも読めるな」と見せあいっこする楽しみのひとつなのだ、とよく理解して読んでもらいたい。

渋滞が続いているから稼働時間が少なくなり、だから日当が下がっていて、常に新しい車に乗り換えることを求められる、というのは線数が多すぎるから作画の生産量が落ちていて、だから作画の実入りが減っていて、常に新しい絵柄に乗り換え続けることを求められている――つまり今のアニメ業界を描いている、と読めると思うのだ。

それで、だ。プログラムを持っている方はちょっと開いてもらいたい。真ん中のページが自然と開くようになっていると思う。左に捲ろう。つまり、助手席の側だ。そこには監督につづいてキャスト陣のコメントが掲載されている。続いて右に捲ろう。運転席の側だ。レビューや解説に続いて、作画スタッフなどのコメントが掲載されている。

運転席の反対側が助手席とされているのは、助手が地図を読んだりして運転を支援するからである。例えば、ラリーなんかだと「世界最高クラスの助手席」が揃っていて、恐ろしい速度と正確さで運転手に指示を与えていくさまがわかる。が、技術の発達で、助手席の仕事はコンピュータであるカーナビに回されて久しい。自動運転は運転席の仕事がカーナビに回されるようなものなのだが、大事なことは地図上における目的地を設定するという最低限の任は人間に任されるということであり、それはそもそも運転席の仕事ではなく助手席の仕事だったということだ。運転手自らがカーナビに入力することは多いが、そもそも地図上で行きたい場所がどこなのか指定するのは助手席の仕事だ。

助手席の側、つまり演技の仕事の一部はアニメでは運転席に変わっている。アニメータという演技者がいるからだ。アニメータが絵を作り、キャストが声を吹き込む。絵をハードウェア、声をソフトウェアと読み替えた上で「その台詞」を聞き直してほしい。

単なる「時代の変化についていけない老人のテンプレ台詞」ではなくなるはずだ。

だから、僕はこの作品がとても良くできている、つまり、いろいろ深読みして楽しめる耐性を持っていると思うのだ。

最後にもう一度書く。神山監督以下スタッフの見解を想像しているわけでもなく、僕の意見を表明しているわけでもない。誤解のないように。「心持ち一つで映画は変わる」ということを伝えたかった。

ラ・ラ・ランド を見て考えたこと

感想ではない。ほとんどポエムである。

同僚のミュージカルが好きそうな人物に「ラ・ラ・ランドを見たか?」ときいたら「みたよ。ミュージカル好きだから楽しみにしていて、初日に見た。つまらなかった」と言われた。「豊住も見て、感想聞きたいから」と言われたから見たのではなく、先日、シン・ゴジラを見たときに予告編を見て、撮影が良さそうだし主演のおねえちゃんも気に入ったので品川のIMAXで見た。DOLBY ATOMOSの劇場で見た方が楽しめると思う。

そもそも、ミュージカルというものをほとんど見たことがない。完全なミュージカルで見たことがあるのは、ウエスト・サイド物語の冒頭、サウンド・オブ・ミュージックの一部、それからヘアスプレー、学校の音楽の授業で見せられほとんど内容を覚えていない(確か黒人の女の子がデカい家で働いてトントン拍子に出世して舞台に立つ話だったはず)アニーぐらいである。歌詞を覚えているミュージカルなナンバは映画クレヨンしんちゃんブリブリ王国の秘宝の「ああ果てしないジャングルの中で」しかない。「私のささやかな喜び」もミュージカルと言えるかもしれない。そんなんだから雰囲気とイメージしかない。

見終わってなんとなく同僚がつまらないと言った気持ちがわかった。繰り返すがミュージカルという形式にはイメージしかない。それでも、ヘアスプレーの「You can’t stop the beat」のようなクライマックスの最高に盛り上がるナンバーはなく、演奏であることには違和感を覚えた。

ラ・ラ・ランドの冒頭は実にミュージカル、という感じだった、突然歌い出し、歩きながら歌い、華麗なカメラワークとダンスが広がり、周囲の人物もショウを形作っていく。

なのに、なぜこのクライマックスは演奏なのか。そこから少し考えたことを書く。

繰り返し念のために書いておくが、これは考察でもなければ、監督をはじめ製作陣の意図や思想を想像するものでもない。ただ「こう捉えることもできる」というだけの話だ。

この作品の最大の意外性はもちろんセブとミアが結ばれないことにあるだろう。ここを取り出して秒速5センチメートルと同質であると評価する人がいるが、僕はまったく違うものだと感じた。秒速5センチメートルには顔に恵まれた主人公が、自ら失態を繰り返してあらゆる物を失い落ちぶれていく、僕のようなスクールカーストの下位に位置するブサメン非モテにとっては胸がスッとするような爽快感と同時に、今まで幸せになることしかなく感情移入できない作品しかなかった青春アニメ、例えば前年に公開された時をかける少女なら真琴に感情移入なんかできず、高瀬の気持ちがよくわかる「俺たち」がかろうじて感情移入できるアニメを作ってくれた、という喜びがあった。これが秒速5センチメートルの特異性であり、新規性だ。ところが、本作にはそういったものはなく、セブもミアも成功を収めている。

成功を収めているのに上手くいかなかった、と捉えることができるのは二人の仲だ。クライマックスに描かれる「もしも」の世界に歌のない曲が奏でられることには何かの意味があると考えてよいだろう。

二人の仲を隔てる最大の要因は「パリ」だ。大西洋によって二人の仲は分断されてしまう。僕はロサンゼルスにもパリにもいったことはないので、大西洋の広さというものをあまり感じたことがない。ほとんどの映画は飛行機で軽く飛び越えてしまい、その搭乗時間がどれほどかもわからないからだ。

なにかその距離感を感じられる作品はないだろうか、と思いを巡らした時、思い出したのはトニー・カーティス主演の「グレート・レース」だ。

こち亀でパロディにもされ(コミックス第67巻収録、ザ・グレイト・レースの巻)、おそらく両津勘吉絵崎コロ助教授の元ネタは同作の悪役「フェイト教授(文字通り、悪さをしようとする度にひどい運命によりひどい目に会う)」であろうと想像できるこのコメディは、トニー・カーティス演じる主人公(金持ちであらゆる乗り物を乗りこなし、冷静沈着、つまり中川圭一である)とフェイト教授が、ニューヨークからパリへ向かう「グレート・レース」に出場し、その珍道中を描いた作品である。

彼らはお互いの相棒に加え、女性の権利を主張する女新聞記者(全身ピンク、男勝りなつまり秋本麗子である)とともに南極を経て大西洋を渡り、ロシアを経由して中欧の謎の国で政争に巻き込まれて壮絶なパイ投げを繰り広げ(絵崎コロ助パイ投げを習得しており、両津に圧勝し「リーチの長さが違う」と豪語する)、パリへと向かう。要はアタマ空っぽ、薄っぺらで楽しいコメディだ。ラ・ラ・ランドの冒頭で歌われた「テクニカラーで彩られた世界」の一つだといっていい。

けれども、こんなコメディが今作られることはないだろうな、と思う。キャラクタは皆ステレオタイプ、ただバカをやり続けるだけの話だ。中欧の国の描写など、今ではできないと思う。僕はあまり映画を見ないので、詳しくないが、こういった作品の予告編も見た覚えがない。

ラ・ラ・ランドの中盤、セブとミアがプラネタリウムで踊る時、周囲はおそらくコンピュータグラフィックスで描かれた美しい銀河になる。あのロサンゼルスの夜景を見下ろすマジックアワーも輝いている。

ところが、理想の世界であるべきはずのクライマックスに描かれる「もしも」の世界では、星ではなく電球のようだし、パリは絵である。物語は明るく楽しく夢があるのに、それを支える背景は明らかに手が古い。

ラ・ラ・ランドを作るためには、セッションが必要だったという(僕は見たことがない)。誰も知らない歌の流れるミュージカルなんか作れないからだ。勇気を持って新しい作品を作ることがハリウッドにはもうできなくなっていて、求められるのはあらゆる作品のいいところを組み合わせたインドミナス・レックスのごとく怪獣のような映画になっているのではないか。もちろん、それが悪いとは言わない。僕は黒澤明のように「カツカレーの上にハンバーグを乗せて卵でとじた映画」を作りたいと心から思っている。

けれども、ハリウッドの優秀なスタッフなら、まだ誰も見たことのない組み合わせ、誰も試していない食材で美味しい料理を作れるし、そういった料理も並べられることがハリウッドに「多様性」をもたらすのではないのか。声高に多様性を叫び、映画のキャラクタの設定に拘るのに作品は固さを求めていってしまっているのではないか。背景のコンピュータグラフィックスは確かに映画に臨場感と現実感を作るために進歩しているかもしれないが、テクニカラーで彩られた世界、憧れた夢の世界、ヒーローがヒロインと出会い、お互いが高め合って結ばれる単純で薄っぺらで軽い幸せな物語を作ることはもうできなくなってしまった。別に電球バレバレの星空だって、絵に描いたパリであっても描けた素敵な夢の世界なのに、その魂の部分はもうない。ジングルベルと自分の演奏したい曲を100対0で演奏しなければクビを切られる。

それを口にすることははばかられ、だから歌のない音楽と映像で叫び伝わることを待つしかない。成功しても、何かが欠けているーー

正直、IMAX料金を払って見るような映画ではなかった。ただただ退屈で、エマ・ストーンが好みのタイプなので彼女の姿を眺めること以外にすることがなかった。ただクライマックスのシーンが奏でられはじめた時に「ああ、こう捉えればなかなかの傑作だな」と思っただけだ。だから、今書いたことに間違いがないかすり合わせるためにもう一度映画館に行こうとは思わないし、衛星放送で何シーンか録画するだけだろう。影響といえば、その日の夜の夢は昔好きだった女の子が二人も出てきて、片方には無視され片方には食事しながら苛烈になじられ、こっちも言い返して言い争いになる内容だった、ぐらいだった。

自分の趣味に合わない映画なんかたくさんある。けれども、その映画の価値を見つけ出すこと、作り出すことは自分でできることだと僕は思っている。どんな映画にだって輝く一瞬があるはずだ。そういうものを見つけ出せば、映画はもっと楽しくなるだろう。それを教えてくれたのは、今春、幕を閉じる日曜洋画劇場で解説を担当していた淀川長治だ。

もう一度書く。監督をはじめとした制作側がそういう意図で作ったとは一言も言っていない。映画を観ることは、監督の意図を当てるゲームではないと僕は考えている。