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六月の開発局

「業界の人」じゃないよ

結末を回避する技術 -第六次米子映画事変参戦記録-

はじめに

現地レポートはない。ご多分に漏れず僕の個人的な話。殆どは準備の話。

部活の肴化

最初に自主映画を撮影すると決めたのは2008年のThe Escape Velocityだから、もう8年前になる。そのとき集まった最初の4人のとき、僕はまだ監督どころか迷っていたので言ったことがある。「10年後に呑み屋でそういやあの頃は映画とか撮ってたよな、と笑い話にするならやらない」。

僕は学校の部活の大会とか合唱コンクールとかが大嫌いだった。その時は人生のすべてみたいなことを言い、脅し怒鳴り争いを引き起こし泣き喚くくせにどうせ卒業して何年かすればその話を酒の肴にしてしまう。好き好んで映画を撮るなどという馬鹿げた行為に臨むのにそんな茶番には付き合いたくなかった。

結末の回避

そういう現象が起こるのには心当たりがある。それはわかりやすい終わり、つまり、大会とか卒業とかが設定されていて、そこで「スパッと終えた」という威勢と見栄えのいい結末を用意できるので、無茶な辛さを許容できるし、それを武勇伝に変えることもできるからだ。続けていれば地味な辛さは延々と続くし、武勇伝にもならない。見栄えの悪い生き方を強要されることになる。

逆に言えば、僕の望みを達成するためには映画を作り続ける必要があり、大会や卒業を結末にしない策が必要になるわけだ。

初期の対応

今年の8月23日、押井守監督が米子映画事変で行われる3分映画宴の審査員長に就任すると知ったとき、押井監督の発言や作品をかなり参考にし、時にメールマガジンの読者投稿コーナで監督としてどうすべきかを尋ねている身として、当然参戦を検討した。そして決意があったわけだが、当然この争いは結末になり得る可能性があり、また僕をめぐる現状も結末の甘い香りを漂わせていたのでーー勤め人になって数年もすればどんどん脱落は激しくなるものだーー、強固な策が必要となった。もちろん現在進行形のTHE NAME OF THE HEROINEが存在し彼女たちが僕をつなぎとめているのだが、不安は確実に叩き潰す必要がある。

目標の策定

が、やることはさほど難しくない。ここを結末と設定せず、経過点と位置付けるだけである。第一目標を製作による技術開発とその獲得、第二目標を作品の完成、第三目標を映画祭への投入、第四目標を巨匠はもちろん田口監督、赤井監督、湯浅監督をはじめとする大勢に鑑賞していただくこと、第五目標を感想の獲得とした。

第一目標はFILMASSEMBLER、映画をMakeつまり作るのではなくAssemble組み立てる集団の使命である。芸術大学に勝つには自分たちの強み、つまり職人の手技を再現可能な技術に変え工業化することで発展につなげる我が出身大学の強みを生かすしかないのだと決めた名前がすべきことである。記事のネタ集めと言っていい。後日、FILMASSEMBLERのサイトに作品の製作記事などが掲載されるだろう。

第二目標は後述する完成しなかったたくさんの作品のことを思えば当然である。 第三目標は観客を集めるために四苦八苦し人生を切り売りしている我が身を思えば悲願である。 第四目標は力づくで獲得可能な地球上でも珍しい種類の幸運である。

受賞は「おまけ」扱いである。「無冠に終わったからそう言っているのだろう」と思うのなら「押井守の「世界の半分を怒らせる」。第65号」の「おたより(6)」を見れば良い。僕の投稿である。

そして、目標を細分化し、全体の抗堪性を保たないからこそ結末を迎えざる得なくなるのだ。完全勝利しか目指せない組織はやがて破滅を迎える。局所的勝利を積み重ねて生き残ることが重要である。そもそも未知の競争に臨むのに最強兵器を保有しているわけでもない身で勝利を目指そうというのが無謀である。はやぶさ小惑星探査機ではなく工学実験衛星であり、サンプルリターンはおまけに過ぎなかった。

初期の作品計画

これら裏側の問題の他に表側の問題、つまり残り一ヶ月強で作品を作れるかという大問題があった。繰り返すが勤め人になって数年もすれば撮影に臨もうという人間は極めて限られてくる。その時点で稼働が確保できない人材を戦闘単位と計算することは無謀以外の何者でもなく、従って僕は手持ちの映像資産の取り崩しを決断した。

最初の作戦は予告編作戦、A計画である。自主映画にありがちな予告編作戦は3分で技術を誇示するために極めて単純明快かつ効果的であり、簡単な作戦である。ところがこのA計画には致命的な欠陥がある。自主映画でありがち、つまり他の人間がやる可能性が高いのである。大学入学当時、後に所属研究室となる研究室のボスであるその教授に「同じことをやる人間は2人いらないんだ」と言われている以上、この計画は最低最悪の計画で、とりあえず脇に置くことにした。

B計画は宙に浮いている作品、2012年撮影のEnterpriseのダレ場を再編集して3分に収め送り込むことである。この作品はダレ場にこそ真実があるので、それだけで作品を成立させることには何の問題もない。映像は極めて美しく、1080pで4:2:0撮影だが困難な合成処理もなく、おまけに提出形式がDVDなのでソースはオーバスペックだから正直隙のない選択ではある。いくつか事務処理上の不安はあるが、製作も編集のみで基本的に済むので休日を丸一日潰して編集を完了した。

不幸を隠蔽して違いを作り出す

が、この作品にも問題はある。この手の作品もまた誰かが作る可能性がある。基本的に女の子がうろうろしているだけなので、3分映画宴としては被る危険を否定しきれない。ので全面に押し出すには危険が大きかった。とはいえ、後詰めとして大いに価値があるのでとりあえず置いておく。

では何か他の手はないか、と考える。撮影したのにポスプロとその後の諸問題でお蔵になった映画は都合3本あり、計画している作品、試験撮影のみした作品も数本ある。これらの作品にしか協力していただいた人にはなんの結末あるいは通過点を提供できないままであり、これは僕の不徳の致すところである。この沈みを取り返せないだろうか。関わった人間が不幸になるというレッテルが心の中にある。これを打ち消せないだろうか。

死んだ作品達に今一度復活していただき、今後を定めるーー上手くいけば巨匠・押井守監督からお前の作品はここをなんとかしろ、と言っていただけるわけだーーこの計画の特性を鑑み、新たな作戦名を考えた。B計画の次だからC計画というのはいかにもである。とはいえ、復活作戦も子どもっぽい。というわけで宇治作戦と命名された作戦の立案が開始された。

脚本の開発と実装

ざっとプロットを書き、脚本協力のXJINEに送り、査読してもらい意見を反映すること数回、なんとか3分の作品の脚本ができあがった。

今まで自分たちがやってきたことを底に敷くことで資産を活用しやすくした。続いて一本の物語として成り立たせるために順序を入れ替え、おもしろおかしくするために脚色した。三分間で、はじまって、おわり、伏線を敷いて、回収して「なるほどこうなるのか」と見た人が納得の行く作品を作りたかった。得てして短編自主映画は笑いか芸術か意味不明かイイ話になるので「おもしろい辻褄の合う物語、辻褄が合うことでおもしろい物語」を作りたかった。

また、三分にも関わらず物語のある自主映画というのは退屈になる傾向があるので、観る人を飽きさせないために、また持てる技術を見せるためにこれでもかと要素を叩き込んだ。時間を操作して、あっと言う間に終わらせたかったのである。

さらに、今まで僕の作品に関わった皆を不幸にしないために(今さらなんだと思う奴は映像の利用許可をくれないもしくは連絡がとれないので、結局幸せになろうと思う人間しか幸せになれない素敵システムである)今ある素材を組み込めるようにした。

骨が折れたが、当然困難であるということはネタ被りの可能性を無限にゼロに漸近できるということなので、従って文句のない脚本が完成した。

制作

とりあえず、手元にある素材をはめ込んで、ない素材をイラストでごまかしてライカリールを作った。これを腹積もりは決まっていたのだが何人かにB計画と合わせて送り、予想外の視点からのB計画推しが発生しないことを確認した。

あとは期日までにクオリティの高い素材に入れ替えられるだけ入れ替え、必要な許可を獲得し、獲得できなかったときは別素材に入れ替えるなりなんなりして誤魔化しきれば完成である。

この時、友人達の反応は素晴らしかった。長い間連絡を取っていなかった多くの友人が、問い合わせに素早く反応して、映像の使用を快諾してくれた。また佐々井は自ら手伝いを申し出て、素材撮影を頼むとあっという間に仕上げ納品し、表示系をいつも担当してくれる杉田はタケノコでも取りにいくように素材を送り込んできて、名優岡田氏は常軌を逸した物量のナレーションを見事にやり遂げ、夏海ルイはギリギリのタイミングでの素材納品にも関わらず待機してくれあっという間に整音し送り返してくれた。持つべきものは良き友である。まあ、僕のような人間と連絡を取ってくれる人間である以上、人間レベルがZXぐらいなのだけど。

制作進行も問題なく、夏の大失策であった徹夜発生も順調に回避して、締め切り数日前に納品は完了した。

唯一心残りだったのは、いつも大切にしてきた映像の品質をまっさきに捨てることになったことだ。仕方のない話なのだが、映像あっての映画なので「自主映画」という色眼鏡に要求する色の濃さが過去最大級になっていまったことは非常に残念だ。爆撃はドキュメンタリィなので許せる部分もあるが、今回は最悪である。

後詰めの寝台特急

さて、米子に行くことになるわけだが、行くのだからどうせだからおもしろく行きたいものである。場所は米子、つまり出雲市への経路であり、サンライズ出雲の経由地である。選ばない理由がありましょうか。帰りは愚直にやくもに乗っても良いし、三江線というものを体験しても良いし、山口経由で500系を堪能するも良し、智頭急行を満喫するのも悪くなさそうである。というわけで、サンライズ出雲寝台特急券を確保した。ここで欲を出してシングルデラックスを確保しようとすると製作期間が犠牲になるのであっさりソロを選択した。

全国自主怪獣映画選手権

さらに製作が進む中、第七回全国自主怪獣映画選手権米子大会というものが開催されることがわかり、こちらの締め切りは二週間遅れとのことなので、こちらにも作品を送り込むことにした。こうすることで、3分映画宴の予備審査に落ちても米子に行く意味が二重に確保できるという寸法である。

怪獣映画だが、二週間でできることは限られているので予告編作戦である。が、ここでボスの教えを実現するために、また製作期間を短縮するために怪獣や破壊活動にはCGIになっていただくことにした。バルンガが大好きなのでバルンガみたいな空に浮かぶ怪しい獣としたかったが、モデリングが簡単な幾何学的な形状とし、使徒との誹りはこれを甘んじて受けることにした。元ネタは私の手元に全50話のプロットと諸設定、撮影計画と資金回収計画の概要が存在する巨人が宇宙怪獣と戦うシリーズ物に登場する「寄生星座」で、星空に擬態して地球に接近する大怪獣である。

こうして昼飯前の1時間で擬態天穹ファルステラは爆誕した。登場だけでなく恐怖の破壊光線デジェネレイテット・スタアライトによる破壊活動も行いたいのだが、CGIの破壊活動は困難が予測されるので、ビルを量産して合成し、冒頭にワンカット、ケツに合成前のワンカットを掲載して破壊前と破壊後だけ見せる素晴らしいアイディアで凌ぐ後詰めを立案した。

本命はニコ生でやっていて一度だけタイムシフトで見ることに成功した破壊のプロ、発破の米岡という二つ名を持っているらしいステルスワークスの米岡氏のシン・ゴジラメイキングを見た記憶を参考に「ガラス、金属、ワッフル構造のコンクリートの三素材でビルを構築し破壊して物理演算で解決する作戦」である(何しろ一回しか見ていないのでそれしか覚えていない)。

どうせならリッチな計画を立ててできることをやってできなかったことを切り捨てて組み上げれば良い、という考えで、ざっくりビデオコンテをつくりFacebookにアップロードし、出演者を集めるということもしたがこれは失敗した。

あとはまあなんとかなるだろと連日物理演算と格闘し、最後は昔の素材をひっぱり出して手作業でマスクを切り、でっち上げ、引き伸ばし、誤魔化し、凌ぎ、バレないだろうとタカを括り、石渡の名曲の雰囲気で押し切り15秒の映像が完成し、納品した。

なお、この製作途中に3分映画宴の招待作品に選ばれたと連絡が入り、これは旅費が浮いたと小躍りした。なお、この招待作品というのは抽選だそうなのでここで運を使い果たしたことは明白である。

当日

一週間の休息ののち地震が発生したのでなんとあのトワイライトエクスプレスロイヤルウヤの悲劇再びかと思ったが、無事22時に人類決戦の地、現実が勝利した場所を特別急行サンライズ出雲号は出発し、次の日の朝私は米子に到着した。

息をつく間もなく全国自主怪獣映画選手権米子大会が開催され、怪獣映画野郎共の秀作奇作怪作快作を堪能し、手前の作品「シリウスの七日間テレビスポット」は田口清隆監督より「次は90秒にしよう!」と誠にありがたいお言葉をいただいた。上記の通り、ビデオコンテはあるので出演者はいつでも募集している。

一旦ホテルに寝て仮眠をとり(寝台特急に乗ると楽しくて寝られなくなるのが鉄道好きの習性である)、ガイナックスシアターに赴くと3分映画宴である。前半戦のトリ、つまりグランプリ作品とその反応を見て、あ、こりゃもうダメだと観念し、その後の作品を鑑賞した。拙作「失われたフィルムを求めて」は予想通りあっさりスルーされたが第四目標は達成した。授賞式を緊張が解けた仏の心で眺め、交流会では足りないコミュ力をかき集め総動員し、審査員の方々と周囲の楽しい会話を邪魔して強引にコメントを獲得し見事五つの目標を達成した上に、素敵な出会い(残念ながら一部が期待するような男女の出会いは当然なかった)などもあり、見事拾えるものを拾い尽くして帰投することに成功し、明日からまたアニメを作ることができるのである。

結末を回避する技術

予定通り結末は回避された。何か劇的な出来事があって映画を撮り続けることを決意したのかと期待していた向きには申し訳ないが、劇的なことがあるようではその時点でダメなのだ。

劇的はお話としてはおもしろいかもしれない(だから劇的と言うのである)。日常としては落第である。「ああ無冠に終わってしまった」と嘆き悲しみ悟り終えて「勝つことから逃亡」するのを回避するために最も必要なことであり同時にその目的は、安定なのだ。そしてその安定は不断の手抜きへの飽くなき追求によってのみ成立するものであり、丁寧に獲得してきた基礎技術があってこそ、この二ヶ月を生きてこられたと捉えている。

努力しなかったとは言わないが、毎日7時間寝ている。見事にやりおおせたことがわかるだろう。

確かに米子映画事変への参加は突発的で異常な、まさに事変であった。ただ、これへのここまで記してきた対処は猛烈な努力などではなく、状況を観察し、評価し、計画を立て、実行するその循環を回し続けたことにあるのは明らかである。そしてその単純に見えることを成り立たせているのが、余裕なのだ。これを忘れてはいけない。余裕なくして勝利なく、余裕がないから、部活の大会が人生のすべてになってしまうから、結末を回避できないのだ。

結末を回避する技術とは、ここに書いたことを「あ、その程度のことなのね」と捉えられるかどうかから始まると僕は考えている。

景色を狩るもの

金曜日からおやすみとし、日曜日の昼下がりまで夏の旅行に出かけていた。ここ4年間、毎年やっている。今年は開催が危ぶまれたが、なんとか開催できてとても良かった。初の9月開催である。

どこに行くか迷っていたが、結局「まあ青森なら間違いないだろう」ということで、まだ行ったことのない青森に行くことにした。ここで誤解のないように書いておくが、青森に行くのは今年は2回目である。「まだ行ったことのない青森」とは「行ったことのない青森の季節、天候、地域」を指す。例えば「冬の下北半島」は行ったことがないし、「秋の晴れた津軽半島」も行ったことがない。青森についてはまた別の機会に書くつもりだが、輸送手段である友人保有の車輌は彼自身が購入時に「これで青森行きが捗る」という名言を残したことからわかるように、非常に思い入れのある土地である。

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青森駅には、スーパー白鳥の残り香や、カシオペアの臨時列車時代の名残りはもちろん、青函連絡船の歴史も残っている。何度も来ているが、好きな駅の一つだ。来年こそいなほ号に乗って見たいと思っている。乗れなかった列車がたくさんある。鉄道だけにかけられる人生ではないからだ。でも、好きだから、できるだけ、そういうつらい気持ちを産む数を減らしていきたい。

旅行に行くときはカメラを担いでいく。一眼レフと、交換レンズを数本、それから、三脚。一般的な旅行のスタイルだ。そして、行き先は「どこかの神社」だ。もちろん神社の写真を撮るけれど、別にそれが目的というわけではない。神社に行く途中で、見つけた景色を撮って行く。大体一日100枚ほどシャッタを切れれば上出来だろう。

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この写真は、青森から魔女のあしあとを求めて、岩木山神社に行き、そこでおみくじを引いたら「南が吉」と出たので、青森から南下して山形に行き、羽黒山に行く途中で助手席から撮った。僕はあまり写真が上手くないから、風景はまあ、こんなものだ。

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その羽黒山ではこんな写真を撮った。朝の光がとてもきれいで、木陰のなかはとても涼しく、とても良い所だった。芭蕉もここに来たのだな、と思う。JR東日本のCMも思い出す。

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公衆電話のコレクションをしている。見かけたら撮る程度だし、まったく詳しくないから特に分別もしていないが、公衆電話の写真を撮るのが好きなのだ。

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5月に青森にでかけた時はよく晴れていて、岩木山がよく見えた。

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地面を撮った時もある。これは光がきれいだったから撮った。

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さて、こんな写真を撮ることが少なくない。この時、この枯れた用水路に架かる橋の上に、僕には「登場人物」が見えている。つまり、旅行は「場所狩り」を兼ねている。この絵をそのまま作品に使うことはないだろうが「こんな枯れた用水路に、こんな橋が架かっている」ということを利用するだろう。ここに選んだ写真はスクロールが少なくて済むから、という理由でキネマスコープサイズにトリミングしたものを選んだ掲載しているが、基本的に景色はスコープサイズで見ているので、スコープサイズの写真は多い。

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このプールもきっと校舎の屋上に組み込まれるだろう。

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晴れていれば、できるだけ星の見えるところに行きたいと思っている。星空を見ているのは好きだ。いつまでも見ていられる。ただ寝転がり、フリースのブランケットを被って、天体が回る様子を朝まで見ていたこともある。ウルトラの星のあるオリオン座以外の星座はわからないし、星を撮るのもあまり得意ではない。

いつも駐車場などに直に寝転がっていて、結構痛かった。あまりきれいなものではないし。それから、砂浜などだと、寝転がれない。だから、コットを買おうと考えている。そんな風に、いろいろなところに行って、様々な知見も溜まってきた。いつか本にまとめて出したいと考えている。僕が必要としている本だから、多分、需要はあるだろう。

君の名は。:感想(約1万字:未鑑賞者の閲覧は推奨しない)

先日書いたシン・ゴジラの感想の評判が良かったので、もう一つ書いてみるかと思い立ち、「君の名は。」を観てきた。あまり期待していなかったので、劇場鑑賞は見送るつもりだったが、正直な話、これを書くためにauマンデイに見に行った。他人の評価は関係ない。個人的には、他人の評価を気にして映画に触れるか触れないかを決めるほど人生を制限する行為はないと思っているからだ。

粗はたくさんあるし、当然書かないが、新海誠監督の良さが全面に出た作品で、監督の最先端と言って良い作品である。今後どう評価されるかはわからないけれど、新海誠監督の作品を観たいという人はこれを見て、それから気に入りそうな作品を観ていくと良いだろうと思う。

前回のエントリィを読んだ方にはくどくて申し訳ないが、あくまで感想で評論でも解説でも考察でもない。僕がたった一度映画館で見て、メモも取らず、ロクに内容も覚えていない映画について感じたこと考えたこと自分にとって価値あるものを記していくだけだ。というか、序盤のとあるシーンでは「登場人物が恥をかくであろうシーンを見られない」人間なので何度か顔を覆っているので文字通り見ていない。基本的に「僕が」という主語が大量に入るので気に入らない人は読まないほうが良い。

それから、この作品についての感想を書くために、僕は過去の監督の作品と比べてどう良くなったか、という話を書きたい。だから、過去に好きな作品があって、それが傷つけられるのが耐えられない人は読まないほうが良い。

くわえて、このあたりの事情は興味のない人のために一番最後の方に書くが、僕は実にくだらない理由があって心の奥深いところで「映画監督としての」新海誠監督を上から見ている。監督としての実績は当然のこと、大人として、一人の職業人として、人間としては他の大多数の他人に対しての中央値の水準で尊敬の気持ちは持っているし、それは嘘ではないが、純粋な映画監督としては別だ。

黙っていればいいのかもしれないが、読む人が読めばわかってしまうから、それなら僕のそういう態度を読み取って不愉快な気持ちになる人に先手を打って対処すべきと判断した。映画は楽しみ認め合うものであって、喧嘩の材料ではない。

御多分に洩れず電車の中でiPhoneで書き、最後はiMacで少し調整したがほとんど推敲していない。

では、始める。

新海誠監督の武器

ここからしばらく「君の名は。」の話にならないので、そこだけ読みたい人は「最先端」の項まで飛ばされたい。

新海誠監督について、僕は三つの武器を持っている、と評価している。作品の姿勢や、価値基準ではなく、実際に作品を作り出すために使える武器だ。

一つ目の武器は、当然よく言われる通り、背景美術である。アニメにおける背景美術の美は、別に新海監督が先駆者というわけでもないし、その独自性と同等の独自性を持つーー即ちアニメの背景美術という一つの世界の競争ではなく、どの美術さんも独自の価値観でやっていて、それらは作品によって良い選択であるかということにおいてのみ比較されるべき性質のものであると僕は考えているからこういう書き方になるーー方はたくさんいらっしゃるが、素晴らしいものであるということは多くの人が認めるところだろう。監督を「スターダム」に押し上げたほしのこえの時点で「現実よりも美しい」と表現されることがあったが、今回もその美は最も信頼の置ける武器として利用されている。語るべきことは多くあるが、その細かな話は少し後に回す。

二つ目の武器はスポッティングである。これは一般的な用語なのかは知らないが、角の立った特徴的な音に合わせてカットを切り替えて音と映像の連携を図る技法のことである。これまたほしのこえの時点で、クライマックスを飾ったのがこれで、これもまた新海監督が映像制作における決戦兵器として保有するものであり、本作ではその最大出力が披露されている。これも語るべきことが多いが、後に回す。

では、三番目の武器とは何か。工業力である。

工業力の基本

僕たち自主映画野郎、自主アニメ野郎が、新海監督を尊敬し畏怖するのは、作品を完成させる能力を持っているからである。これは当人も「とにかく完成させて出す」ということを何度か語っており、とてつもない能力である。

自主映画というものは往々にして頓挫しやすく、監督が編集作業における一人の孤独に耐え切れず青春の1ページに埋め込んでしまったり、とりあえずつないだだけの意味不明なヴィデオが完成したりすることがほとんどである。自主アニメはこれに輪をかけて破綻の可能性が高く、特に描き送りのアニメとなればこれはもう完成すること自体が奇跡に等しく、お話がついていたらもうこれは異世界から力を借りてきたとしか思えないほどである。

例えばこのわずか5秒強のアニメ、絵の描けない人間だと、3ヶ月かけてこれだけである。こんな下手な絵でよくアニメを作ろうと思ったな、というかまともに動いてるの1カットだけじゃねえか、と罵りたくなる出来である。何処の誰だか知らないが、とんでもない恥知らずである。まぁ、僕なんだが

いやいや比べる相手の能力値が低すぎるだろ、と思う気持ちはわかる。が、悪例に他人の作品を持ち出すような真似をして何が楽しいのかわからないので、これになった。

本題に戻ろう。大変なことなのにも関わらず。しかし、新海監督は完成させている。そしてそれは才能でも根性でもない。監督の純粋な工業力によるものなのだ。

新海監督の最初期の作品である「彼女と彼女の猫」において、監督は、ほぼすべてのカットを短く、動きは単純に、切り替えの店舗とナレーションで見せ、苦手な人物の作画は可能な限りこれを回避する、という手法を採用している。

できないことはやらない、できることしかやらない、欲しがりません勝つまではとか足らぬ足らぬは工夫が足らぬなんて言わない、できないものはできないし、できることはできるのだ。そして、作品が完成した奴が他のいかなる未完成作品の監督よりも偉大なのだ、そういう態度がある(たぶん)。上手い言い方をすれば「等身大の作品を作る」ということをやったのだ。

続く「ほしのこえ」で監督は、駒を進めた。これが大事なことだ。できることを基礎により良いものあるいは新しいもの、もしくは別のものそして作りたいものを作るために新しく技術を獲得し、「できること」に追加していく、これが新海監督の最大の武器である工業力である。

アニメートが苦手なら、単純な回転や、移動、拡大縮小でできる表現や、3DCGIに頼ればいい、ただそれだけの話だ。そしてそれにくわえて、無謀なことをせず、いつも少し先の、ちょっとできることを、ちょっとずつやっていく。それが監督を支え、いつも安定した「新海誠監督作品」を作り続けてきた。ところが、これだけでは工業として成立しない。工業というものは良い技術を持っているだけではダメで、行使すべき時に行使すること、適切な力を適当な時期に適度に投入すること、というのが大切であり、これを任意の目的、即ち作りたい作品に対して実現することが「映画工業」においては重要なのだ。

この難しい問題に新海監督が、常に向き合い続け、修正と調整を重ねた先にあるのが「君の名は。」だと僕は捉えている。

君の名は。」に至るまで

さて、この後の新海誠監督作品をかいつまんで書く。「雲のむこう、約束の場所」では、初めての長編において、前回成功したSF的要素と「懐かしい景色」そして「離れた心のつながり」を置いて、その先に里佳子とヒロキが成し遂げられなかった「物理的な救済」を描いた。

続く「秒速5センチメートル」では、SF的な要素を排して、より純粋な新海監督の利点だけでの勝負を試みた。「ほしのこえ」のSF的なパーツの魅力は脇に追いやられていたことにあって、それをど真ん中に据え付ける必要はなく、それなりの動機づけができればなくても構わないという判断だと考えられる。それから、前作では実質的な三部構成になっていたが、今作では明快に物語を分割した。背景美術には磨きをかけ、そして最後に前回は投入を見送られた伝家の宝刀、スポッティングを投入した。結果は知っての通り大成功である。

繰り返すがこれが新海誠監督の魅力だ。新海監督をまるで芸術家でアート寄りで、作家性が基本の監督のように語る論評を数多く見かけるが、僕の評価は違う。純粋かつ最高度の技術屋で、工業力を持つ監督なのだ。

さて、お次は新海監督、再度長編に挑戦することにした。やったことのないことをやるのなら、他人に学ぶということも大事である。星を追う子どもは、子どものためにアニメを作るとしたら、つまり、「僕ら」が思春期を経験したか、しているからこそ「ほしのこえ」から始まる三作品にある意味共感できたのだとしたら、では思春期に至る前の子ども達は何を求めるのか、ということを考えていった結果、手堅い造りの作品が築かれた。また、同作最大の魅力は、それまで新海監督が映画で行わなかったアニメートの魅力を最大に活かした描写、メタモルフォーゼがあることだ。今まである武器に先人の知恵と新しく開発した要素を組み合わせて作品を作る工業的な姿勢はこの作品でも変わらない。

次の「言の葉の庭」では、背景美術をさらに追い込んだ。密度を限界まで上げたことは知っての通りだ。それから、そもそも恋愛描写を繰り返してきたのだが、ここにも進化が見られる。自然発生的に恋に落ちていたそれまでとは違い、知り合いが恋に変わり恋愛を築き愛だけの破綻へと向かう過程が丁寧に描かれている。そしてそこには、面と向かっての言葉のやり取りがある。

最先端

三度目の挑戦となる長編大作に臨むにあたり、この開発実装試験計測考察の基礎循環を遂行させることに長けた新海監督が過去の作品を精査し、徹底して開発を行ったことは想像に難くない。実際に本作には過去の新海誠監督作品の要素を取り込んでいる。

まず、基本構造は「雲のむこう、約束の場所」である。立場と舞台の説明、少年と少女の交流を描いた第一部と、その交流の破綻から精神世界での再会を描いた第二部、そして復活と救済を描いた第三部となる。

同作にはなかった、主題歌にスポッティングした映像、即ち二番目の武器を第一部に挿入することで補強と自分の利点を前面に押し出す作戦が取られている。このシークエンスは見事で、一度は見るべき出来栄えだ。

特に、これまでの新海誠監督作品では、こういうシークエンスを含めて情景の美しさを描きながら、台詞や歌詞といった言葉でその情景を再表現していた。その結果詩的な表現になることもあったが、どちらかというと言葉の持つ即物性が露出してしまい、僕は、折角の「現実よりも美しい景色を描く技術」が毀損されたように感じたり、その実力を監督自らが信じていないのかと疑いを持つこともあった。

だが、今作のこのシークエンスについては、絵は絵の仕事をして、歌は歌の仕事をし、台詞はどういうわけが共に生きなければならなくなった二人がお互いを尊重し、自らを認めてもらおうとする過程で信頼関係が生まれる、つまり恋に落ちる過程が見事に描かれている。

二人が再会する「聖地」やそこに至る過程は「星を追う子ども」の経験が生かされているし、「言の葉の庭」で極端な水準にあげた結果、作品全体の情報量の不均一が目立ちすぎた背景美術も全体の密度を巧みに調整して修正している。

他にも上げるべき「最先端の新海誠監督作品」としての要素はあるが、それは個別に書いていこう。

また、本作は細田守監督作品の技法を巧みに投入していることも見逃せない。詳細は後述するがクライマックスで疾走するヒロインは「時をかける少女」だし、物語の少年少女たちに対する態度は「バケモノの子」のそれである。

構図

新海監督は背景美術に強い。だから、長く観ていても耐えられる絵作りができたし、それで十分に勝負することができた。一方で僕からすると、なぜか構図は妙なことをしがちで「なぜこんなことをしたの?」と首をかしげる事がままあった。

例えば、「雲のむこう、約束の場所」では、駅のホームが画面のほとんどを占めて、キャラクタの足元だけが見えるカットがある。この構図、難解すぎて僕には意図がさっぱりわからない。

他にも例を挙げるなら、「言の葉の庭」のお弁当を食べるシーンのカットがある。ここでは、手前を草木が占拠しているが、この草木には何もなく、アウトフォーカスで、その隙間から首の切れた二人の姿がちらちらと見える。一体何を見せたいのか、なにをしたいのか、さっぱりわからない。例えば、首から上の見えない二人の体の動きだけを描けば、触れ合いそうで触れ合わない、恋が恋愛に変わるときの揺らぎを描けるし、表情が見えれば、二人がお互いにどんな感情を持っているか、直接的に伝えられるだろう。しかしそれでもかなり難易度の高い構図なのに、それ以上のことをやっているので見ている側としてはついていくことが難しくなる。少なくとも僕には無理だ。

ところが、本作の構図は極めて簡単で、わかりやすいものを積み重ねていく。

新海誠監督作品でもっともわかりやすい構図の一つが「秒速5センチメートル」で重ねられた分断の構図だが、本作でもこれは採用されている。

さらに、デートシーンの終盤の歩道橋における陰と陽の描写は見事なものである。陰と陽は三葉の親父の執務室にはっきり文字で書いてあることも見逃せない(たしか書いてあったはず)。男と女が入れ替わる話であるということも気に留めておくべきだろう。

繰り返されるドアの構図は「青春」が「場面」を積み重ねていったものであるという一つの性質を描くために必要な、切断の描写として作用しているし(これ、俺も昔やったことあるわ……実習で……)、それ以外にも基本的な絵がわかりやすく作ってあるので観客がじっくり入り込むことができる。もちろん、カメラがダイナミックに動き夜空を仰ぐシーンなども素晴らしいものだ。

が、もっとも素晴らしいのは、瀧に乗り移った三葉が初めて教室に入るときの構図である。

三葉の視線は、姿は瀧なのだからバレてお咎めを食らうということがないのに、それでも見知らぬクラスメイトと目を合わせるのが怖くて、顔を見ないでそのちょっと下の物を見るのだ。

足と作画

新海誠監督はそもそも、女性の足首より下の足の描写に拘りのある監督である。女性の足にこだわったアニメは「冴えない彼女の育て方」など枚挙に暇がないが、足首以下にフォーカスした監督は大変珍しい。

もちろん特徴的なのは「言の葉の庭」であるが、それ以前の、例えば「Wind」のOPだと、足のカットが4つもあるのに、足首以下が75%を占めている。「はるのあしおと」のOP(余談だが、製品にしか収録されていないサビの落下カットは素晴らしい出来だ)でもソックスを履くカットが入っている。「ef」は足カットが多いが、太ももやひざ、ふくらはぎも入っていて、それほど極端ではないが、しっかり足首以下も描写されている。注目するとかなり多いことがわかるだろう。「猫の集会」も足首より下が重要な役割を果たしている。

最初に新海誠監督の足首以下の描写にびっくりしたのは「雲のむこう、約束の場所」だ。大変丁寧に描かれるので驚いたが、まさか足首以下を主題にした作品を作るとはその時は思ってもいなかった。まあ、この作品の話はもうみんな知っているのでどうでも良い。

さて「君の名は。」は見る前から参加スタッフについての噂を伝え聞いていたので「これは新海監督、とうとう足首から上に全力を注ぎ込んでくるな」と予感していて、その予感は的中した。

最初の入れ替わり時が、いきなり全力の足である。つま先から太ももまで全力である。前作で足首以下に想いを注ぎ込んだ結果がこれである。

が、そんなことはどうでもよろしい。クライマックスが、足なのだ。

山を駆けずり回る三葉の作画はすさまじい。他の追随を許さない世界最高の足メーション「人狼」を思い出させる動きである。特に蹴り上げた太ももにまとわりつくスカートの動きはとてつもない執念を感じさせる。もし見たのに覚えていないのならもう一度見に行くべきである。

また人体の動きにも注目すべきだ。人間の腕は胴体から肩というジョイントによって接続されており、肘という可動部が、手首という回転部に骨を通じて繋がっており、それを左右交互に前後させることで下肢の運動を補助している、ということがものの見事にわかり、「普通の」女子高生が疾走したときに起きる各ジョイントに引きづられて末端部が追いついてくる様が見事に描かれているのだ。

こういう作画をするとき、素人は「そういう動きを細かく描けばそうなるだろう」と思いがちだ。だがそれは大きな過ちだ。少ない枚数でいかにその動きの特徴をつかんで描くか、そこに優秀なアニメータの能力がある。これは描けばわかる。

あまりにも見事な動きで、帰るときに再現したくなる四肢の動きだ。「パリで一緒に」を見たあとで、階段を降りる際にあの動きを再現したくなったのと同じである。小澤征爾がコンサートの成功は帰り際に観客がメロディを口ずさんでいるかどうかでわかると言ったそうだが(真偽不明)、まさにそれである。

劇場にアニメを観に行くことの価値の一つならが高品質な作画を見に行くことにあるとするのなら、その価値は十分あると言って良い。担当アニメータには賛辞を贈るべきカットだ。本年度の日本アカデミー賞最優秀アニメータ賞ノミネートは当然のこと(念のため書いておくがそんなものはない)、P.A.WORKS井上俊之原画集と同じ仕様か、e-sakugaで原画集はよ。

現実感と臨場感

新海誠監督は「現実感」を極端に大事にする人だ。言い換えれば「現実感」さえ補えていれば構わないために現実をしばしば無視する覚悟を持っている人間である。

僕はまあそれなりの鉄道好きだから、新海監督の鉄道の扱いは非常に不満だ。本作も東海道新幹線の座席配置が入れ替わっており(これも見事な演出としてもいいのかもしれないが)、すごく気に入らない。が、「秒速5センチメートル」で、95年にモータ駆動のボタン式ドアを有する115系を登場させ、宇都宮以南でドアの取扱いを客に任せ、小山雪まつりを開催し、大雪の中運転指令に職場を放棄させて雪合戦をさせた新海監督なので、そういうことは諦めて無視している。

なぜなら、そんなことほとんどの観客にはどうでもいいことで、それは「彗星」と同じような舞台装置に過ぎないことで、「正しい-間違い」の文脈で語られるべき性質のものではないと評価している。僕が個人的に「好き-嫌い」で言ったら嫌いというだけの話だ。

では、そうやって細部を喪失、もっとキツい言い方をすれば、ないがしろにして現実感を得られるのか、という問題は当然浮かび上がってくるだろう。でも、僕は「現実がそうである」ということが「現実感」だと考えていない。もし、現実に則っているならそう言えば良いのであって、現実のように感じるということは現実である必要はないと捉えている。

であるから、本作の現実感がどこにあるかというと、それは「初めて東京の新宿に出てきたときの感じ」や「初めて田舎の子供たちの登下校に旅路の途中で出くわしたときの印象」、「まだ寒くはないけれど適度に涼しい秋風のなか、暗い夜空を明るく感じるほどの星を見上げたときに滲んだ想い」にあると思っている。そしてそれは、新海監督の武器でしっかりと描かれている。

他の作品の話になるが、ほとんどの人が戦車に乗って戦った記憶はないだろう。けれども、観客を凍えさせないために暖かく設定された空調の劇場で4DX上映の劇場版ガールズ&パンツァーで風を受けたとき、自分もゴルフ場で夏風を受けているような、その場に居合わせたような、その場に望んだような雰囲気つまり、臨場感があったはずだ。現実感や臨場感というものはそもそもそういった、嘘の中にある性質のものであって、確かに嘘が多い映画だが、それが現実感を毀損しているとは微塵も思わない。

むしろ「ああ、こうだったよね」「きっと、こうなるよね」という具合がよく出ていて、だからこそ、作品をふんわりと受け止める人たちの心に響いているのだと思っている。

だから、僕は本作もMX4Dで上映してほしいと思っている。そうしたら、きっと「臨場感」も生まれると思うのだ。

子ども騙し

最終盤、物語は穏やかな流れになり、その後と結末が描かれる。

この結末は、「秒速5センチメートル」で救済を願っていた、つまり前々々作からずっとこれを願っていた人たちに対するものだと捉えている。それは「ガメラ3の続きが見たい」みたいなもので、僕の気持ちとは全く相容れないが、そういうのもあっていいだろう。

この流れは、「バケモノの子」と同じだ。「バケモノの子」は少年たちに「図書館に行ったらなんかものすごく素敵な子とお近づきになれるかもしれない」という期待を供給したのだが、本作も「今日電車でチラッと見かけたあの可愛い子ともしかしたら運命的な再会が果たせるかもしれない」とか同等の奇跡を、絶対に口にはしないが、心の奥底に潜めて明日を生きる糧になる期待を供給している。陳腐な言い方をすれば、夢があると言っていいだろう。

僕が「秒速5センチメートル」を見たのは大学生の時だから「まあ、こんなもんだよね。いいじゃん」と思っていたが、中高生に夢を与えられるかと言えばそれは難しいだろうと思う。もちろん、受け手によるだろうが。

届けたい相手がいて、そこに対して適切な手段を行使できている、ということが重要で、繰り返すけれども新海監督の最大の長所はその工業力にあるのだから見事にやってのけたと言えるだろう。

もちろん、辻褄が合わないどころか合わせる気がないし、ご都合主義だから、子ども騙しだと言うこともできる。

そして、確かに辻褄が合っていることに対する物語の楽しさや喜びというものはある。「シュタインズ・ゲート」なんか、辻褄があっているからおもしろいのだ。辻褄を合わせるのは難しい。ちょっとした綻びが全体を破綻させてしまう。物語を書いたことのある人間なら誰もが知っていることだと思う。だからこそ辻褄が合う物語は高く評価される。

一方で、子ども騙しには子ども騙しの難しさがある。「甘城ブリリアントパーク」で可児江西也が言った通り、子どもを騙すのは大変で、そう簡単に騙されてはくれない。誰かに夢を見せたいのなら、まず自分自身がその夢を信じる必要がある。

繰り返すが、新海監督がやってきたことは奇跡でもなんでもなく、不安定で判断の難しいことを、いつも自分の手に負える水準になんとか押し込めて築いてきたということであり、くわえて並走する電車の中にいる大切な人を見つけたときのように、掴むのが難しい機会を掴み取ってきたということだ。だからこそ僕ら自主映画野郎や自主アニメ野郎が尊敬する立場にあるわけだ。

それを普通は夢を叶えたというのであって、自分が叶えたのだから信じていない筈がない。夢を信じている人にしか子ども騙しができないのなら、それを夢を信じられる立場であることで真っ当にやって見せたと言えるだろう。

大衆迎合

以下「君の名は。」の話はほとんどない。

僕はテレビを基本的にアニメを録画するための受信機としてしか捉えていないから、本作の宣伝が大々的に行われていたのもよく知らないが、確かに映画館には宣材が大量にあったから、東宝の人たちは推していたのだろう。

本作は「恋愛描写てんこ盛りで」「泣かせ」「普段声優業をやらない俳優が声優をやり」「絶叫し」「主題歌のついた」作品であり、これがものの見事に大ヒットして、一人の「シン・ゴジラ」ファンとして胸がすくような思いだ。僕は一部の「シン・ゴジラ」ファンが、言葉の足りない主張をして、それが伝播していく様子が実に気に入らなかったからだ。「シン・ゴジラ」を作らせてくれたのは、こういう大衆に寄り添い、大勢の人間に「製作委員会」という形でその興行安全性を担保された作品が多数あって潤沢な予算が確保でき、また失敗時の救済策があったからだと考えているから、思慮の浅い連中の物言いが本当に気に入らなかった。こうやって、ヒットしてくれて大変嬉しく思っている。

今になって「恋愛映画なんだから恋愛描写があるのは当然」などと言っているが、男性も女性も誰も映画に恋愛描写を求めていないと断じるような言動をここ1ヶ月続けてきたことについて誰もが見逃してくれるとは、彼らと同じ「シン・ゴジラ」ファンとして思わない。見事に劇場には多くの若い女性の姿が溢れており、「シン・ゴジラ」とは違う様相を呈しているので、大変嬉しく思っている。

彼らは、やっと「正しいありかた」が認知されたと思っていたのだろう。が、それは違う。それは正しいことでも間違ったことでもなく誰に向けたかという違いだけの話であり、僕ら特撮ファンは「こういうおもしろい怪獣映画で金が儲けられることが証明されてよかった」と純粋に喜ぶべきだと思う。もちろん、そうしている人も多いが、今までの恨みを晴らすかのような言動によって(恨みなんて個人的には全くないが)、また特撮ファンや映画ファンに対する「排外的」という風当たりが強くなるのではないかと少しぐらい危惧すべきだったと思う。

そして、僕としては、どちらのファンも認めてくれるような、素晴らしい怪獣映画を作るために生きていこうと決意を新たにさせてくれるような、価値のある作品だった。

新海誠監督について

以下、本当に「君の名は。」の話はない。自分語り。

冒頭に書いた、僕が新海監督を純粋に監督としては心の奥深いところでは上から見ている、というのは単に出会った時期が悪かっただけである。文字通り中学校2年生の時に出会ったので、焔燃のような態度で向き合い続け、内輪なのでそういう態度を隠すことなく、それが延々と続き、30近くなって今更書き換えるのも無理になったというだけの話だ。

だから今回もプライベートでは「どうでした?」と知り合いから聞かれれば、焔燃のように「いつものような話です!」と答えている。

それから、前述の実習において、僕は新海監督の描く東京が嫌いなので、東京の美しさが出るように努力したのに「新海誠みたい」と講評されたのを逆恨みしているのも多分あると思う。

ね、実にくだらない理由でしょ?

公にするのはどうかと思ったけれど、書いてきた新海誠監督に対する尊敬の念は本物だし、仔細に記した高く評価している点は嘘偽りのないものだし、新作もきっと見るだろうから、十分補って有り余るものだと思うし(補う必要があるかどうかは別として)、そういう「心」を、読んでいる人には理解してもらえるものだと信じている。

非モテ、合コンへ行く:シン・ゴジラを語る会に行ってきた(約4000字:レポートに非ず)

シン・ゴジラ」を語る会 ~ネタバレOK!!~【独身者限定】に行ってきた。なお、レポートではないので、レポートを期待している人は読まないほうが良い。

念のため書いておくがおもしろおかしくするために一部誇張したりしているし、他の人のプライバシィを侵害しないために複数の人物を統合したりしている。誤解のないよう

作戦

実際の状況が知りたければこの項は読み飛ばすことを推奨する。

なぜ行くことになったかは省略する。が「シン・ゴジラにおいてはてブで3位」という地位が最終的な出動を決意させた。戦いは勝たねばならない。勝てる戦いなら赴く価値がある。

さて、公式ページには「ファン交流を目的としており、男女比が揃わないことがございますので予めご了承ください。」とある。 僕は「おそらく男8女2ぐらいだな」そして「全枠埋まらないだろうな。8割埋まれば御の字だろうな」と予測していた。それ以前に「彼女候補を見つけよう」「伴侶候補を見つけよう」とはまったく考えていなかった。確率論的に不可能だからだ。

考えてみよう。80人の中に、16名女性がいて、そのうちの何人が「同じ映画を3回見て1万5000字の感想を書きなぐる、実際にはそれを口角泡を飛ばしながらバルカンのような勢いで喋ったりする、俺は怪獣映画を商業大作で撮るんだと喚きながら絵が描けないのにフットボールアニメを作っているアラサーの誇大妄想男」に興味を持つだろうか。ちなみに金も名声もなく、顔も「乗った人より馬が丸顔」の絶望的な感じである。絶対にない。

それでも万が一、誰かいたとしよう。だが、非モテ非モテになる最大の理由は「選り好みをする」ということである。特に非モテに多いのは「小学校のとき好きになった女の子が忘れられない」というパターンだ。というか、非モテのほとんどはこれである。なぜイケメンで親も金持ちでマトモに働く秒速5センチメートルの主人公遠野貴樹君は、あんなことになってしまったのか。それは彼が明里のことが忘れられないからである。少なくとも僕はかなり選り好みをする方だ。

例えば、僕は理想の女性は、と聞かれると「PSYCHO-PASS常守朱」と答えている。常守は素晴らしい女性である。結婚相手として「ある意味」常守以上の存在はないと思っている。極めて安定した精神、高い思考能力と倫理観、肉体的にも精神的にも恐ろしく強靭な上とても可愛い。カツカレーの上にハンバーグを積載し、さらに卵を乗っけたみたいなフルスペックの女である。仕事もできるから、お互いがお互いの収入の予備として機能するだろうし(彼女に一方的に依存することにはならないと信じたい……信じたい……)、彼女に負けたくないと思うことで自分も高められるだろう。相談相手としても優秀である。葬式を出したり相続したり、家を建てたり車を買ったり、子供が学校で起こしたトラブルを収拾しなければならないことを考えれば、常守ほど素晴らしい女性はいない。軽自動車みたいな女が跳梁跋扈するアニメ界において、常守朱はまさにランドクルーザー、例えドライブシャフトが折れようとも、地球上のどこからでもお家に帰れる安心感のあるキャラである。人生の伴侶として申し分ない性能を持っている。

が、実際に常守と結婚するとどうなるか。間違いなくその高性能な邪魔者を排除したいと思う存在によって、自分が残忍な手段で殺害されたり、死んだほうがマシレベルの拷問にかけられることになるだろう。残念な話である。

もう一例あげよう。千反田えるは大変すばらしい少女である。僕が高校生なら是非彼女になっていただきたいと思う女性である。淑やかな色白黒髪ロングヘア、体格も良く料理上手で世話焼き、常守のように伴侶がテロの標的になる可能性もおそらくない。が、彼女としては魅力的だが、結婚相手としてはいかがなものかである。千反田の結婚相手としてのまずさを知りたければ「あきましておめでとう」の回を観るべきである。千反田は正月早々、夜も明けていないのに近所付き合いに駆り出されている。娘の千反田がこの忙しさである。こんな女と結婚したが最後、盆暮れ正月は各種イベントの消化に追われ、知ってるやつも知らんやつもまとめて法事は50回忌までコンプリートすることを強要され、ゴールデンウィークは農繁休暇に早変わりし、シルバウィークも秋祭り等で潰れ、土日もゆっくり寝ていることは許されない、定年退職後も文字通り死ぬまで続く地獄の生活が待っているに決まっている。安易な気持ちで色香に惑わされてはならんのである。なお、僕は伊原摩耶花がかなりのお気に入りである、と念のため書いておく。

「あの子は可愛い」とか「あの子と話をしているとおもしろい」という感覺は僕にもある。けれども、それと「彼女」とか「結婚」は別物で、そんなんだからモテないのである。ああ、こうやって自分がなぜモテないかがよくわかるように書いてしまうあたり、俺の芸も気合が入っているな、と思うが、こんなことより映画を認めてほしいと思っている。

そろそろ話を戻そう。ではなぜ行ったのか。「ファン交流」をしたかったから、である。

せっかく思いついた「シン・ゴジラの犯人と牧教授は殺された説」とか「なぜアニメ版GODZILLAは人の話になるのかの別解説」とか「シン・ゴジラの続編予想」を披露したかったのである。「牧教授は殺された説」は実際の映画の内容に基づいているが、若干の二次創作性があり、ブログで公にできないのだ(映画の中で明確に語られてないことを幾つかの要素から推測して話を組み立てているので創作と言える)。そして次の話は、変なことを言い出す奴が出かねないのでとてもオープンにはできない。続編予想も二次創作性があるので、これもブログや同人誌には書けない。というわけで、知らん奴と話して、言いたいことを言いたかったのである。

それから、今まで僕の話を楽しんで聞いてくれたのは、基本的に僕の同僚や友人といった僕と親しくしてくれる人たちである。けれども、初対面の人に僕はその人が知らない映画のおもしろさを上手く伝えられるかどうか試したかった。僕は他人に億単位でゼニを出させて自分の作りたいものを作って皆で幸せになることを夢見ている。初対面の人物にある程度評価の定まった他人の映画の良さを共感してもらえるよう語れない人間が、自分の作品にゼニを出してもらえるわけがないのだ。

くわえて、特撮ファンとお友達になれれば、自分が怪獣映画を撮る時に応援に来てもらえるかもしれない、という下心もある。

だから、行くことにした。

実施

服装はまよったが、普段会社に行くときの格好でいった。

会場に到着して、運転免許証を提示して、受付のお姉さんに「今日のことをブログに書いても良いか」と一応確認した。もちろんおっけーだと言われたので書いている。表がシン・ゴジラのメインビジュアル(中村憲剛選手のように使われたアレ)、裏が54ゴジラのポスタ画像になっていて、中には横浜の展覧会とジ・アート・オブ・シン・ゴジラのチラシ、それから団扇が入っていた。そうそう、どうやらジ・アート・オブ・シン・ゴジラは返品できないらしく、書店によっては先払いを求められるので注意したほうが良い。

テーブルを指定する番号が記された名札が渡された。名前と鑑賞回数、好きな登場人物を書く欄があった。尾頭がやはりいちばん多かった。僕は空欄とした。キャラ萌えが本作にはないからである。僕は演技を見ているが、キャラクタを見てはいない。

年代的にはやはり「VSシリーズリアルタイム世代」がほとんどだった。また、意外なことに男女比はかなり5:5に近かったと思う。結構騒がしくて、怒鳴らないとまったく聞こえないので、声がかれてしまった。

何分かテーブルで好きに喋る時間があり、そこはpersonal serviceである。2回ほどくじを引いて席替えとなった。例のエントリィを読んでいらっしゃる方がいたので、では僕のスタイルを知っているだろうと思い、一度だけ「牧教授は殺された説」を披露できた。聞いてくださった女性にはお礼を言った。最初は不満そうだったが、話が進むとそれなりに理解してもらえたようなので(目の前のキモヲタが熱く語ってるし、邪険にするわけにもいかないと気を使ってくれたのだろうが)、よいことにした。他にも何名か読んでくださっている方がいた。とても嬉しい。

その後クイズがあったが、なかなか難易度が分散していて、よかったのではないだろうか。一問外したが。景品はムービーモンスターシリーズだった。くじ運はないので、もちろんもらっていない。

酒もあったし、ケーキも振る舞われたが、ちょっと最近暴飲暴食気味なので食べていない。軽く昼食程度と、コーラとジンジャエールだけもらった。

名言缶バッジなるものが販売されていて、結構お買い上げになっている方がいたようだ。僕は実のところ、あまりシン・ゴジラで印象に残っている名言というのがないので、眺めるだけにした。それよりも、缶バッジを作るところがとてもおもしろかったので、観察していたら、説明してもらえて嬉しかった。

東宝バンダイの方がいらっしゃっていて、アニメ版GODZILLAについての印象を聞かれたので、この前のエントリィの結論部分だけかいつまんで伝えた。どうやら気にされているようなので、機会があったら伝えると良いのではないだろうか。他にもいくつか質問されたので答えておいた。

それからアンケートがあった。反応次第ではまた開催するかもみたいなことがぼかしてきこえた気がしたので、やってほしかったら言えば良いのでは、と思う。

もちろん、まわりには異性との交流を試みたり、婚活をされている方もいらっしゃった。連絡先を交換したりも頻繁にあったようだ。僕も主に男性陣と交換したし、ここのアドレスを広めたりした。他にも、一緒に横浜の展覧会に行く計画や、もちろん劇場鑑賞に行かれる計画を立てている方もいらっしゃった。つまり、好きにすれば良いとおもう。少なくとも、私は好きにした。

ただ、これだけは注意しておくべきだが、所謂「ニワカ」の方がかなりいらっしゃる。そしてその中には「シン・ゴジラがすべてでほかは考慮にも値しない」と思われている方もいる。そこまで行かなくても、シン・ゴジラのキャラについて語ることが主目的の方もいらっしゃる。また、そうでなくても、僕なんかは樋口監督はじめ多くのスタッフが共通しているし、歴史の一つなのだから平成ガメラについてもたくさん語ったが「ゴジラの席でガメラについて語るなんて」と思っている方もいる。皆で楽しくやりたいと思っているところで喧嘩をすることに価値はない。だから、一定の配慮と妙な言い方だが警戒心を持っていく必要があるし、同じ空間を共有しているのだから「ぬかりなく」やることが必要だとは思った。

終わってから8人で連れ立って近場のファミレスで3時間ほど話した。なかなか楽しかった。話したかった3つの話はもちろん話したし、他の特撮のことや、鉄道のことなんかも話した。

具体的には書けないし、異性絡みではないが、素敵な出会いもあった。ので、行ってよかったと思っている。

明日から戦わなければいけないから、がんばろう。

劇場用アニメGODZILLAに思うこと(約4000字)

先日、劇場用アニメ、GODZILLAが発表された。僕の知る限り、一枚絵と数名のスタッフと制作会社それから公開日が発表されており、また「SF」という単語が飛んでいるので、それについて少し書く。なお、虚淵氏のことしか取り上げない。

はじめに断っておくが、あくまで僕自身の個人的な見解、感想である。まずないと思うが何も知らない人がこの記事をネタに他の誰かの主張や作品を「これはSFではない」などと断罪するような馬鹿げた行為に及ばないことを願っている。シン・ゴジラがらみでその手のくだらない行為をたくさん目にしており、はっきり言って嫌になりつつある。劇場版ガールズ&パンツァーのときは作品自体嫌いになったので(ブルーレイを見て持ち直した)、そういうことがないことを祈りたい。

あくまで僕の勝手な想像を書いている。昼飯食いながら「あれどうなるかな」と話している水準の話だ。

なお、いくつかの虚淵氏の作品を含む、作品の重大なネタバレを含むので、未見の方にはスポイラとなるから、注意されたい。取り上げるのは地球最後の男、アイ・アム・レジェンドFate/Zero魔法少女まどか☆マギカ翠星のガルガンティアサイコパス、楽園追放、Thunderbolt Fantasyである。なお、ガルガンティアについてはOVA「まれびとの祭壇」まで鑑賞する必要がある。一応書いておくと、これ以外の虚淵氏の作品を見ていないので、知識の多寡を気にする人はお引き取りいただいた方が身のためである。もちろん、他の作品も断片的に扱うので、何か楽しみにとっている作品があるなら、読まない方が賢明だ。

それから、別に資料を当たっているわけではない。ご多分に漏れず電車の中で、曖昧な記憶に基づいて書いている。論文でも評論でもない。文の性質に注意されたい。

また、実はあと2500字ほどあったのだが、公の場で披露することはふさわしくないと判断して削除した。結論を別の側面からの文脈で補強するものであった。ので、わかりづらいと思う。立場というものがあるので、勘弁してもらいたい。

「僕の考えるSF性」

前置きに真っ向から挑戦する形で、まずSF性というものについて書いていきたい。僕はあまり本を読まないので詳しくないのだが、SF性というものがどういうものか、という考えは持っている。個人的な、自分の作品の構築の際に利用するものだが、まずそれを書いていく。 その考えに大きな影響を与えたのが「アイ・アム・レジェンド」という作品だ。僕はこの映画を衛星放送で見て、その後おもしろい感想を書く方が見ていないかなと思って漁ったのだが、倉田わたる氏のサイトで以下の記述を目にした。

まさに「SF」の神髄とも言うべき、世界観の素晴らしい逆転である。

廃墟通信(2007年12月10日~2007年12月16日)

僕が考えるSF性とはこれに大きく依存しており、つまり「何か突拍子もない嘘をついて、その嘘の上にはあくまで論理を積み重ねていき、我々に広く浸透している価値観を裏切ったり覆す結末を示すこと」である。SFの科学的、という部分はこのうちの「論理を積み重ねていく」ということであり、決して理系科学に偏ったものではない、ということだ。

だから、別の言い方をすれば、ロボットや宇宙船が出てきただけではSFではないし、剣と魔法の世界でもSF性は獲得できると考えている。

以下、SFといったらこの「ぼくのかんがえたえすえふ」に基づいて説明するので注意してほしい。

翠星のガルガンティア

わたしが最も好きで、高く評価しているアニメシリーズは「翠星のガルガンティア」だが、この作品のSF性は群を抜いている。というのは「価値観を裏切ったり覆す結末」を二段階用意しているからであり、その裏切る対象が根源的なものだからだ。

同作の脚本はこれ以外にも演出技術等優れているのだが、それを語るのはやめておいて、端的に裏切りの部分を説明したい。「人間らしさ」とは何か、と言われたら、おそらく多くの人が単純化すると「ゆらぎ」や「優しさ」とするだろう。例えば「都会の効率化によって消耗した主人公が、田舎に行って素朴な暮らしをすることで人間らしさを取り戻した」みたいな話は具体的に上げるとなると難しいが(僕も何本か見たがタイトルを忘れた)「そういう形式」として広く浸透している。

だが、ガルガンティアは違う。「人間らしさとは文明である」と、文明を築かずただされるがままに生きることは動物と同水準である、と断じるのである。物語はそこまで主人公が効率化されすぎた自分の生まれ育った環境と今生きる優しさを湛えた環境の間で悩んでおり、その二つの対立構造のなかでのゆらぎを描いているのに、ここに至ってまことにわかりやすい理由で「人間とは何か」という哲学的な問題に「そのどちらでもない」とその二つの長所を吸収し短所を断ち切る新たな解を示すのだ。

これこそ僕の望んでいたSFで、最終話終了直後Blu-rayを全巻予約するという人生初の行為に及んだ。そして、そこに収録された「まれびとの祭壇」には、その解を導き出したシステムが、入力値の変化によってどれほど悲劇的な結末に至るか、という初期値の嘘を変化させて物語の中で示され視聴者の中に取り込まれた価値観を覆す結末を導くという高度な芸当を見せている。

魔法少女まどか☆マギカ

最初に虚淵玄という名前を知ったのは魔法少女まどか☆マギカで、当時僕は全く氏の作品を知らなかったから「あ、魔法少女ものね」とスルーしていた。ところが3話の急展開が話題になり、ストーリィをざっと調べたら「なんでも願いを叶えてくれる」という条件を知ったので「ああ、こんなのその条件を逆手にとって全部ひっくり返せばいいんだけど、適当にごまかしてお涙頂戴で終わらせるんだろうな」と思って、再度スルーした。

が、最終話でその「全部ひっくり返す」をやってのけた、という話を聞いて、「おお、やりおったか」と実に偉そうな態度で迎えて、最終的に再放送で鑑賞した。

まどマギの上手いところは「僕程度の知能(つまり中の下……下の下ではないと思う、そうあってほしい……の知能)があれば誰でも思いつく」頓知を、まどかというトロい女の子とほむらというアホの極みみたいな女の子(念のため書いておくが俺が千和さんの声で喋る黒髪ロングヘアの武闘派美少女を嫌いなわけがないだろ)を中心に据え全体の知能水準を極端に下げたところである。これにより「トロいまどかが艱難辛苦を乗り越えて成長し、答えにたどり着いた」というドラマと「いろいろあったけど、なんとか収まった。が、まどかは雑な願い方をしたので神様になってしまいました」というストーリィ両方を実装していることだ。

なんでも願いを叶えてくれる魔法のランプから魔人が現れた時、税務署から文句を言われないように「僕が1レースに1パターンの三連単しか購入しなかった時その三連単は、落馬や故障、反則による降着といった付帯被害なしに必ず当たるようにしてください」という実に考え抜かれた願いを言おうと心に誓った者からすると「まどかもう少し考えればよかったのに」と思わないでもないが、まどかの初期値からすれば大変な進歩である。

まどマギは少なくとも作品世界、まどかと周辺の魔法少女たちにおける「常識」すなわち「みんな死ぬしかないじゃない」を論理を積み重ねてひっくり返したという点でSF性を持っている、と考えている。

サイコパスとその他の作品

サイコパスは僕の大変なお気に入りキャラである常守朱が登場するのだが、それは脇に置いておく。サイコパスは比較的単純な話で、要は「精神的に病んでしまった人間への対処はかなり病んでる人にやらせるのが良いのではないか」というシステム化されたハンニバル・レクタと彼の魔術に堕ちないクラリススターリングの物語である。ので、あまりSF性はないと僕は捉えている。

このクラリスである常守という女は極めて論理的な女で、かなりの強度を誇っており、よほどのことがない限り動揺したりしない。

これは虚淵作品に共通する登場人物の特徴で、感情と理屈を切り離して運用することが可能で、理屈で感情をねじ伏せるのである。感情で理屈を捻じ曲げるような人間は主要な登場人物にはほぼおらず、人の話を全く聞かない連中(Fate/Zeroの多くの登場人物が該当する)や、極端に違いすぎる初期入力のある者が敵になるだけなのが魅力だ。Thunderbolt Fantasyでもあっさり丹翡ちゃん(とてもかわいい)が、殤不患にやりこめられていたし、鬼鳥が屁理屈でも理屈は理屈を体現するかのようにポンポン仲間を増やしていく。

また、翠星のガルガンティアにも魔法少女まどか☆マギカにもサイコパスにも、Fate/ZeroにもThunderbolt Fantasyにもそれぞれ武器として実装されている「世界を支配するアイテム」が存在するが、これ自体は物語の中心ではない。チェインバー魔法少女も、ドミネーターも聖杯も天刑劍も物語に深く関わるが、中心ではない。これらによってそもそも存在し、危ういバランスを保っていた登場人物達の関係に変化が強制される、という描写がある。このあたりも虚淵氏の作品の魅力だと僕は考えている。

端的に言えば、「SF性」と「魅力的なキャラクタ」が氏の作品を輝かせている、と僕は考えている。

GODZILLA

さて、GODZILLAである。この作品について勝手な予測を披露する前に、僕も数本みたことがあるゴジラシリーズの過去作品の特徴について説明したい。

基本的に今までのゴジラ映画ではゴジラに立ち向かう人がほとんどで、たまにゴジラを利用して悪事を働こうとする奴やゴジラを保護しようとする存在が現れたことがあったが、そもそもの、人間同士の関係性の限界を引き出すギミックとしてゴジラが作用したことはほとんどない(ほとんどシリーズを見ていないのでわからないが、初代ゴジラの三角関係は特徴的である)。だが、虚淵氏が(僕が思い込んでいるだけだけど)自らの特技を生かすなら、そういう方向があるのではないか、と想像している。

GODZILLAは、GODZILLAそのものとそれに対する人々、というよりも、GODZILLAをきっかけとして、人々の関係性にどういう変化が訪れるのかを描いた作品になるのではないだろうか。それに立ち向かうかどうかはともかく、それぞれ理想も同機もなにもかも違い、時には対立する人々が、 GODZILLAの出現によって関係性を変えて物語を紡いでいくのではないだろうか。

そして、その始まりか終わりが「なるほど、ゴジラという突拍子もない嘘があって、そこにこういう論理を積み重ねていけばこういう常識を覆すような結果が導かれるよな」ということになるのではないか、と予想している。

なぜなら、公開された絵にはゴジラの姿がない。だから、これは人の物語になるのではないか、と想像しているのだ。

弱小サークルの製造戦略 コミックマーケット90反省

おことわり

世間は夏休みもしくは盆休みらしく、ガラガラの朝の電車の中でこれを書いている。殴り書きなのでわかりづらくても勘弁してほしい。

コミックマーケット88とその後

前回のコミケは落ちたが、前々回コミックマーケット88には受かっていた。ので、艦これの瑞鶴に適当な服を着せたイラスト集を頒布した。

全ページカラーという大変豪勢な仕様にした結果製造原価が300円になり、これを400円で14部頒布したため、粗利が1400円で、売り子に昼飯をご馳走して消えた。

が、とても楽しかった。400円という大金で僕の本を手に入れたいと思ってくれる人がそれなりにいるのである。瑞鶴に好き勝手な服を着せるというむちゃくちゃなコンセプトに理解者がいるのである。もちろん義理で来てくれた人もいたが、知らない人の方が多かった。当然、瑞鶴という大変可愛い艦娘の魅力あってこその成績だが、それでも嬉しい。清々しい気持ちで撤収できた。

当然次も出ることに決め、それからは創作少年で行くことに決めた。僕が長年作っている作品を出していきたいと思ったからである。磯風とか描きたいけど、そっちが優先である。というわけで創作少年、3日目である。

仕様の策定

前回の反省を踏まえ、表紙のみカラー本文モノクロとすることにした。カラーは時間がかかる上に、描きたい水準に仕上げることが僕の技倆では難しく、むしろモノクロでも読み応えあるものを提供したほうが良いと考えたからだ。

頒布対価は700円と設定した。これは20部頒布すればスペース代をほぼ回収できるものである。他にもものすごいコストはかかっているし、よりよいものを頒布する元手を考えたりすると全然足りないのだが、上を見過ぎてもしょうがないので700円とした。1000円にするかかなり迷ったが、700円として手に取ってもらいやすくすることにした。

前回はイラストだけだが、イラストは僕の持っている技術の中でも音楽の次にレベルが低いので、文章を主体に構成した。文章の技術は比較的高く、先日もそれが証明されたのでこの判断は正しかった。

内容は「THE NAME OF THE HEROINE」という物語の良さ、僕の企画の論理性つまり「素性の良さ」「展開できそうな感じ」や、緻密さ、そして想いを伝え、読んだ人に「この作品が見たい」「金や労働力を差し出そう」と思ってもらえることを目的とした。

制作

内容の主となる文章は電車の中でコツコツ書き溜めていたが、小説も入れようと思って2万字強書いた。こちらも電車の中で書いた。小説はウェブに全文掲載すると、同人誌が捌けるという話を聞いたのでその通りにした。わけがわからなかったがそういうものらしい。おまけのお話もつけておいた。

苦手だが、イラストもできるだけ頑張った。いろいなトラブルが重なり、最終的な原稿においてその成果が発揮できた部分は少なくなかったが、それでもやれることはやった。足りないイラストは前に描いたラフなどを引っ張ってきた。コミケ89用にラフを描いておいてよかったと思う。

特に表紙の美波はものすごく頑張った。特にスカートは凝った。スカートの下にホットパンツをはいていたり、ブラウスの下に透け対策でキャミソールを着ていたりとか大事だと思っている。当然一番気に入っているキャラクタだし、そういう細部がキャラクタに現実味を与えより可愛らしくしてくれると思う。本当はブラウスや髪をもっと描き込んでやりたかったし、なにより崩れ切ったデッサンをなんとかしたかったのだが、できるだけのことはやってやったと思う。

もっとも凝ったのはページの順序や組版といった外形のフォーマットである。InDesignを一ヶ月だけサブスクリプションして作業した。これについては自信がある。すごくかっこいいものができたと思う。

例えば、最初の企画の経緯、の次に何の説明もなしにキャラ紹介が連続している。なぜならば、ド真ん中のページに詩とイラストを入れたかったからである。これで前半と後半を切り分けたかったのだが、キャラ紹介がページ数が多いので、こういう順序でないとキャラ紹介が途中で分断されてしまうから、こうなった。

詩もものすごく凝った。全フレーズ7文字という「雪の進軍」仕様で(やめろ!歌うんじゃない!)、韻を踏んだり同じ単語をできるだけ使わないようにしたりと大変だった。この詩はエンディング用に使うつもりである。というか主題歌クラスである。まあ最終的には得意とする人に修正してもらうことになるだろうが、大変良いものができたと自負している。

フォントは本文を游明朝体ミディアムの11歯、見出しはヒラギノ明朝を基本とした。数ページを除いて段の最終行まで文字を詰めた。さらに、A3で小冊子印刷をして、最後にドーラのカッタでA4変形版にした。

一方で校正基準や禁則などはあまり詰め切れなかったし、徹夜で作業になってしまい製本中に数多くのミスを発見してとてもつらい。小石川高校の存在を忘れていて、茗荷谷への変更を決意したりとか些細なトラブルも多かった。

が、全体としてすごくいいものになったと思う。もっと内容を充実させたかったが、まあしかたない。というか、よく見たら「THE NAME OF THE HEROINE」の文字がなんと表紙に小さくしか入っていなかった。完全に内容については失策である。

宣伝および頒布

宣伝戦略は実に周到だった。八月に入ったら小説の公開を始め、告知画像をアップしたりツイートしたりして知名度を上げようと努力した。

その結果がこれである。大変な広告力を確認できると思う。思わず涙を流す水準である。

生産数についてだが、前回参考にしていたウェブカタログでのお気に入り登録数は今回全く役に立たなかった。前回登録してくれた方々がまったく外さないでいてくれたためである。したがって「今回はこのサークル瑞鶴じゃないけど、この次は瑞鶴かもしれないからとりあえずお気に入りに入れておこう」みたいな感じと思われる。

ので、Twitterでアンケートを実行し、最も伸びた10部を採用しかけたが、悪い予感がして12部にした。前回の反省を踏まえて、近所のセブンイレブンですべて印刷した。大変高品質に仕上がり満足である。

会場に到着してから慌てて紙を折って製本した。すべてが製本し終わったのはなんと会場と同時だった。まあ、そのあと気づいて裁断したのだけれど。

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スペースはこんな感じだった。ポスタフレームは家で冴えない彼女の育て方の絵を飾る仕事しているものを引っぺがして持ってきた。スタンドがなかったのが痛恨の極みである。素晴らしいクロスは友人が貸してくれたものである。表紙と絶妙に調和していて、大変よかった。シン・ゴジラで語られたように、持つべきは友人である。

成績と評価

さて、気になる成績だが、まず準備会が一部召し上げていった。当たり前である。会社の上司が夫婦でいらしてくださったのと、後輩がきてくれたのでこれは計算に入れない。またてめえの分と、同僚二人の分も除外する。上司の奥様が、内容を見て初めて巨大不明生物を見たような声をあげていたのが印象的であった。多分、あまりの絵の下手さに驚いたのだろう。

で、残りは誰だかわからない人が手に入れてくださった。

5冊捌けたのである。皆狙い撃ちで手に入れてくれたものと思われる。もちろん、その場で目に留まって手に入れてくれるというのも嬉しいが、5人もの人が僕のよくわからない本のためにスペースまで来てくれて、対価を支払い持って行ってくれてとても嬉しい。宣伝効果があったとみていいだろう。

ふりかえり

今回最も良かった点はここには書かなかったが様々なトラブルや突発事故が重なり、大変計画が破壊されたが、徹夜という回復手段を使うことでなんとか仕上げられたことだ。

情報量と時間を最後天秤にかけ、誌面のレイアウトを確定した時点で、入れるものがなくなれば謎の空白ができることを甘受しなければならなかったが、常に最適な手を打ち続け、最悪の事態を回避した。うまくやったと言って良い。

もちろん、当然徹夜を計画に入れて生産を行うべきではない。工業における安定稼働とは緊急時の余力をもった上で掲げられるべきものであり、僕は継続的に作品を作り続けたい。だから、これは極めて異常な対応として同じ事故を発生させないよう認知、予防、対策を徹底しなければならないと評価できる。

くわえて、仮に同規模の事故が発生した場合もより良い回復もしくは減退計画に移行できるような事前のより高度な計画が求められていると言えるだろう。

今後について

捌ける同人誌と捌けない同人誌の違い、特にイラストを主体とする本において重要なのは上手いか下手かである。

もちろん文章を主体としているわけだが、映像作品のための文章であり、映像の多くは絵が占めるわけであるから、イラスト本と捉えて今後について考えたほうがいいだろう。

率直に言って、僕の絵が下手だから5部しか出なかったのだ。オリジナルで絵が10枚程度しか載っていなくても、上手いやつは部数が出る。

部数が出る、ということは、金が手に入って次の作品を作りやすくなるだけではない。より多くの人に見たいと思ってもらえるという期待、作品の価値や自らの総合的な力を極めて高い水準で数値化して観測できるということだ。創作者にとってはこれも大きな価値がある。

僕も上手くなれば、もっと部数が出て、つまり見たいという気持ちを多く受け取れるようになるだろう。これに10億円の価値があれば、僕は大作の怪獣映画を撮れるのだ。だから、一歩ずつやっていく。その速度は上げたいが。

したがって、もっと上手くなる予定だ。これは夢でも希望でもない。予定である。さらに技術を高め、より良い生産計画を立て、適切に設備投資を行い、余力をもって事にあたり、事故に適正に対処する。ただそれだけの話だ。僕はそういう世界で長く生きているし、それで生計を立てているので、やれるだろう。

ただ、一方で、僕の本の魅力は「5」なのかということにやはり悩む。これが「5」で5冊出て行ったのなら、大変喜ばしいことだ。だが、「7」なのに5冊しか出て行かなかったのなら悲しい。しっかりと宣伝もしていきたいと思う。

さて、次にむけて頑張ろう。

C90告知と御礼

この記事にシン・ゴジラ成分はありませんが観てない人は読まないほうがいい

どこから書いたものか困るが、まず本題を書いておく。先のエントリィにあるように、僕の個人サークル水無月追跡所は来る8月14日日曜日、コミックマーケット90の3日目で西し06bに出展し「ScoutReport1」という本を頒布する。コピー本だが700円という暴挙である。40Pを予定していて、大体4万字以上は入ると思う(かなり少なめに見積もっている)。

内容は、去年のエイプリルフールにゲームを作るとFILMASSEMBLERのサイトで嘘告知をして、今年のエイプリルフールにアニメを作るよとFILMASSEMBLERのサイトで告知をしたのだが、その企画のものになる。

17歳の少年が幼馴染に頼まれて、学校の蹴球部監督をする羽目になり、2部リーグで戦う物語である。物語がはじまる前を描いた小説二本と、キャラクタ設定や第1話の脚本準備稿、それから演出メモなどが収録されている。

小説のうち一本はpixivで公開している。サンプルもあげたいのでTwitterを当日の朝にでも確認してほしいと思う。

まあそんな「種類」の同人誌だから、二桁捌ければ御の字と思っている。もちろん内容には自信があるし「とにかくおもしろい、おもしろいフットボールアニメ」の企画であると自負しているが、それと興味を持ってもらえるかは別の話だ。

去年出した最初の本は艦これブーストで14部捌いたが、今年は10部出るか怪しいだろう。僕にシン・ゴジラの感想を書かせた友人の一人から 「シン・ハンニン すべて赤坂先生の仕業」というシン・ゴジラ陰謀論(昼飯食いながら喋った)本を抱き合わせて頒布すれば部数が稼げるのではないかと悪魔のささやきをいただいた がーーシン・ゴジラを見た貴方なら僕の決断もわかるだろう。

というわけでよろしくお願いします。

御礼

ここから、シン・ゴジラのネタがちょこまか入るから観てない人は引き返してください。

前回の記事をお読みいただいた方、また広めていただいた方々ありがとうございました。はてブで週間3位を獲得し、一時期Google検索で「シン・ゴジラ」の単ワードで一番上に表示されたりと、およそ信じがたい結果を得られたのは皆様のおかげです。感謝しています。

Twitterはてブでざーっと感想を眺めさせてもらってますが、概ね好評のようでとても嬉しいです。内閣総辞職熱線は僕のネタではありません。ニコ動かどこかで見ました。何者?というコメントがついていましたが、タダの自主映画監督です。5年前の映画になりますが、下にPathfinderという一番普通な感じの映画を貼っておくので、ご覧いただければと思います。きれいな女の子が喋る10分ほどの短編映画です。いろいろ仕掛けてあるので、楽しんでください。全カット解説もあります。

まさか自分が「Twitterからの通知が止まらない」という事態に陥ると思いませんでした。フォロワが3倍以上に増加しました。びっくりしています。そして迂闊にツイートできなくなったことをちょっぴり残念に思っています。

ともかく、ありがとうございました。また書く機会があったらよろしくお願いします。