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六月の開発局

「業界の人」じゃないよ

西住まほについて

なぜまほは、空砲を撃つ時あんな悲しい表情をしたのだろうか。

アニメ本編で西住みほが一体どんな立ち居振る舞いを黒森峰女学園でしていたのかはわからないが、黒森峰女学園の生徒たちが概ねみほに不満を持っていることは容易に想像できる。そしてまほの存在はその不満感の露出防止に非常に大きな影響力を持っていたはずだ。1年生でありながら、副隊長に任命されたみほは、審判団に試合の中断の要請すべきほどの危機的状況を目にしながら、その判断を誤った、もしくは、大して重要ではないことのために持ち場を離れ、10連覇のかかった試合の直接の敗因を生み出したのである。

滑降した車両の乗員たちが本当に生命の危機に晒されていたのなら、審判に試合中断と救出を要請すべきである。女子高生一人が濁流に飲まれた戦車のハッチを開放したところで、いたずらに密を失わせ、乗員の溺死の危険性を高めることは明らかであり、あらゆる意味で不適切な判断であったことは間違いない。特殊カーボンにコーティングされ、600mm榴弾の直撃を受けても安全が保たれる戦車の中にいれば安全なのだ。水に極めて強いことは知波単学園が証明している。エンジンブロックがあれだけの水密構造になっているのに、搭乗員室はそれ以下ということは考えられない。

しほはみほを叱責している。この際、まほは同席しているが、目を閉じている。そして「犠牲なくして勝利を得ることはできない」との一言の後に目を開けている。重要な発言である。この時「友軍の命」を「犠牲」と捉えることしかできない、そうあるべきだというのなら、もうこの文章を読まない方がいいだろう。不愉快になるだけである。

そんなみほに対する不満や批判は間違いなくあっただろうし、同時に姉の、隊長であり(「昨年度大会」においてまほの地位は不明だが、夏の大会を終えたら3年生は引退して2年生に指揮権が移ると考えるのが日本では一般的である)強化指定選手でもあり、なにより「家元の娘」であるまほの存在はそれを押し留める重要なものであったはずだ。「面と向かって非難すればまほの覚えが悪くなる」というのはかなりの影響力を持つし、まほ自身が自らの地位やその峻烈な性格、狼と表現するに相応しい容貌を持って異を唱えるものを圧殺することを得意としているのは劇場版をみれば明白である。

己の権力を持ってしてまほが妹への不満や批判を押し留めていた半年の後、みほは大洗女子学園に転校する。この時のまほの心中はわからない。

彼女が妹に再会するのは、戦車道全国大会の組み合わせ抽選会後の戦車喫茶である。ここで重要なのは「みほを面と向かって非難する逸見を諌めないまほ」だ。まほにとって最早妹は重要な部下としての下士官ではなく、余所者なのである。逸見には好きにストレスを解消させた方が、後の自分たちの戦いのために有利である――僕個人としては「後に強敵になるかもしれない妹に先手を打って精神的圧力をかけておきたかった」とは思いたくないのでその可能性を語ることはやめよう。

さて、このあたりから記憶が曖昧になってくるが、大洗サンダース戦の後、みほの友人の危機的状況を知ったまほは、逸見にヘリを操縦させてそれを助けている。前節の行動とこの行動ふたつで西住まほの「規範」は明らかになる。簡単に言えば「どうでもいい時は自分たちにとって有利な方を選択するが、そうでないなら自分たちにとって不利益も厭わない」ということだ。逸見は間違いなくまほに不満を持ったはずである。それでも祖母が危篤だという少女を助けないわけにはいかなかったのだ。

しかし、この出来事で重要なのは実はそこではない。まほはみほにお礼を言われた時、何も答えない。なぜなら、これは「みほがやったこと」と表面上同じなので、思慮の浅い返し方をすると、みほが誤解する可能性がある。本質的には違う――ここでみほの友人を助けて損をするのは黒森峰女学園(燃料)と自分(副隊長の心情)と逸見(気分)だけである――のだが、この場においてそれを諭すのは、簡単にいえば空気が読めていないのでまほはやらない。徹頭徹尾状況を冷静に判断して優先すべきものを選択していく、少なくともそうあろうとする、それが西住まほという女である。この出来事はまほの視点でガールズ&パンツァーを考える時、一番重要な出来事である。

まほは実家で母しほと面会し、「みほは西住流とは違う」旨を伝えたそうにする。しかしそれを遮られ、そこでしほからみほを勘当する旨を伝えられる。しほがなぜ勘当を考えたか、そこについて考えよう。しほは、熊本に居を構える西住流家元である。その娘が大会決勝で大失態を演じただけでも問題である。そして他所の学校でこっそり戦車道をやっているというのも問題である。さらに勝手な戦術で勝ち進んでいることはより問題である。弟子達から「先生は日頃から私達に撃てば必中守りは固く云々おっしゃいますが、娘さんには甘いんですね」などと言われたら本人の矜持の問題に収まらない範疇で問題なのだ。ならば「いえ、みほはもううちの子ではありませんので」と言ったほうがよっぽど楽であるし、なにより「甘やかされている娘」としてひとまとめにされて色眼鏡をかけて見られるまほのことを考えれば、一人で他所で暮らす下の娘は勘当しようという考えも理解できる。賛同するかどうかは別として。であるから、みほが西住流と違うとかどうとか、しほにとっては関係ないのである。そしてみほの「やらかし」はここでは直接の理由にはなっていない。

プラウダ戦の最中、席を立とうとするしほをまほは止める。「まだ試合は終わっていません」。

試合後、「相手が油断したから勝っただけ」というしほ。しほも明確な原則をもったキャラクタである。それに対して、まほは「臨機応変に対処する能力」と「心を合わせて戦う」ことを評価する。これはまほのトラウマである。前者はともかく、後者はまほが最も苦手とすることであるということは想像に難くない。「家元の娘」などたくさんのお墨付きである以上「心を合わせて戦う」ことがどれほど難しいかはよくわかる。であるにも関わらず、まほは「自らの地位やその峻烈な性格、狼と表現するに相応しい容貌を持って異を唱えるものを圧殺することを得意として」いるという二律背反を抱えている上に、この舌の根も乾かぬうちに、「西住流の名にかけて、必ず叩き潰します」と誓うほどの信念を抱えているという矛盾を持っている。

ここでしほは「あんなものは邪道よ」と言い放つ。なにをさしたのか、実はよくわからない台詞なのだが、あとで説明する。

「相変わらず甘いわね。その甘さが命取りなのよ」と言う逸見に、まほは何も言わない。まほもそう思っているからである。

決勝戦のHS地点でまほはみほに向かって言う。「西住流に逃げるという道はない。ここで決着をつけるしかなさそうだな」。今までのまほの行動原則からして、実に真っ当な発言である。

決勝後、まほは「完敗だ」と言う。これは「臨機応変に戦うことがみほの長所」とわかっていたのに、自分の部下を臨機応変に戦わせることが出来ずに負けたからである。「西住流とは違うが」と言うまほに、みほは「そうかな?」と答える。重要な台詞である。

さて、まほが次に登場するのは(確か)みほが帰省した際である。ここも実はどうでもよい。

しほは「戦車道にまぐれなし」と言う。「相手が油断したから勝っただけ」と言ってのけたしほらしい台詞である。

まほは大洗を助けるために、試合会場に乱入する。このあとの作戦シーンから西住まほらしさは存分に発揮される。

確認しよう。TV版での西住まほの優先順位は「黒森峰女学園」>「妹」なのである。しかしここでは「大洗女子学園」=「妹」>「黒森峰女学園」となる。ので、まほはまずカチューシャを文字通りひと睨みで打ち倒し、逸見の不満も瞬殺する。まほは「いかにこの大隊長としては役者不足の妹を立てるか」ということに尽力する。もう一つの目的のためにも重要である。おちゃめにニュルンベルクのマイスタージンガー作戦などと言い出すが、まあそれは忘れよう。

その後の作戦展開においては、まほは的確に戦う。カチューシャや逸見がみほの権威を失わせるような真似をすれば絶対に許さない。みほの人柄に惹かれてやってきた有象無象の「心を合わせて」勝つためにはみほに対して疑いを持つような人間で出てきては終わりなのだ。極めて優秀な女である。そしてもう一つの目的のためにも、カチューシャや逸見の勝利を遠ざけるような発言を決定的に叩いておかなくてはならない。

さて、一通りなぞったところで最初の疑問に戻ろう。なぜ、空砲を撃つ時、まほは悲しそうな表情をしているのか。

まほは「心を合わせて戦う」みほに対して確かな憧れがある。そして「臨機応変に戦う」ことができない部下しか育てられなかった自分もある。そしてみほの「やらかし」について、未だにみほに納得の行く形で説明できておらず、なによりもここでみほの決定的な勘違いを自ら助長するような形で、みほは自分すなわち西住流がもっとも重要視した「勝利」を手に入れてしまうのである。

「犠牲なくして大きな勝利を得ることはできない」その言葉どおり、みほは自分を犠牲にして大きな勝利を得てしまう。

西住みほという少女は いつも そうなのだ。周りが間違った判断をしていても、場の雰囲気に流され、それを通してしまう。逆に言えば、「心を合わせて戦う」。このとき犠牲になっているのは「自分=みほの正しい冷静な判断」である。なのに、自分の「臨機応変に対処する能力」を用いて、戦いには勝ってしまう。

みほの決定的な勘違いは、しほが言った「犠牲なくして大きな勝利を得ることはできない」という言葉を「自分を犠牲にすれば勝てる」と誤解していることである。だから、まほに「西住流とは違うが」と言われて「そうかな?」と言ってしまうのだ。なんとみほは「このとき」自分が正しく西住流を実現していると思っているのである。「おねえちゃん見つけたよわたしの戦車道!」という台詞において、みほは「わたしの戦車道」と「西住流」を対立関係においていない。

エキシビションマッチで、みほが勘違いに気づく機会はあった。知波単をまほのように強烈に制止することができれば、勝っていた戦いである。なによりダージリンはみほをもう一度打倒してくれた。みほは負けることによって「犠牲にすべきものが違うのかもしれない」と気づくことができたのだ。なのにダメだった。まほはだからこそ、右腕の逸見の機嫌を顧みず(まあ逸見がまさにまほを崇拝しているので簡単に機嫌を取り戻せるという計算も働いていたはずなのだが)、勝利のために諌めた。犠牲にしたのだ。みほに気づいてほしかったのだ。

そりゃ、濁流に流されて、戦車の中に閉じ込められて、大変怖い思いをするかもしれない。その恐怖ぐらい犠牲にしやがれバカ娘が、というしほの思いを。

が、その機会は決定的に失われてしまうのだ。他でもない自分の、「勝利のための一撃」によって。そしてその思いは誰にも理解されない。まあ、ダージリンあたりなら話せばわかってくれそうだが、まほは母親と同じように不器用な女でもあるのだ。

嗚呼。