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六月の開発局

「業界の人」じゃないよ

シン・ゴジラ:感想(約1万5000字:未鑑賞者の閲覧を禁ず)

今週のお題「映画の夏」

↑合っているので、つけておいた。

はじめに

シン・ゴジラの感想を書こうと思っていたし、書きたかったし、書いてくれとも言われていたのだが、なかなか書けなかった。情報量が異様に多く、3回劇場で観たのだが、まだ整理しきれていないからである。台本が来月には手に入るので、それまで待てばいいのだが、諸般の事情で記憶に頼って書く。

順序や事実誤認等が多分に含まれることが予測されるが、ご了承いただきたい。コミケの原稿に追われており、電車の中で書いた。ほとんど推敲していない。よみづらい箇所もあると思う。先に謝っておく。

それから、敬称を略している箇所があるが、様やさんがしっくりこなかったための措置である。決して下に見ているわけではない。

あくまで感想である。僕が思ったことについてどうして思ったかを解説しているだけであって、評論でも作品解説でもない(気にしている方がいたので強調しておく。「わたしのパパ!わたしのパパは、」と日高のり子の声で読み上げるべき性質のものである)。感想なので、僕の個人的な話も入る。

欠点も少なくない映画だが、怪獣映画の歴史に残るだろう。ガメラ2が「以前以後」を築いたように、本作が「以前以後」を築いてくれることを願っている。

縦割り行政

いきなりだが、国交相の「ならそれを早く言え」という台詞から感想を始めたい。この台詞は国交相のキツい性格を表した上で、この作品の多くを担う政府関係者達の物事に当たる態度を見事に言い表した台詞である。

それは、端的に言えば「情報はすべて共有しろ」ということだ。この態度が早い段階で示されることによって、会議において様々な意見が出されることの意義がわかる。

このあとに矢口が「対策立案をお願いします」というような薔薇色発言をすると「それ、何処の役所に言ったの?」という質問が返る。これも重要な台詞だ。これをまあ「縦割り行政」というが、縦割り行政は分掌を明確にし、指揮系統を確立して、混乱を回避する上で欠かせないものである。

例えば中盤「新たな避難場所の指示を乞う」と消防士が要請しているが、この指示が東京消防庁だけでなく、警視庁や国交省から様々な指示が直接この消防士に来たらどうなるだろうか。それどころか、同じ消防庁内でも別の階級から別の指示が来ただけでも混乱するだろう。同様に住民からの問い合わせに各省庁が勝手に対応したらどうなるだろうか。こちらも、表れるのは混乱だけである。

急速に変化する事態において縦割り行政は秩序を保つためにある種の効果を発揮する。現場が考えなくていいから、作業に専念できる、ということだ。

状況を評価、判断して、対策を立て、これを実現可能な計画に落とし込み、実際に指揮して実行する、という「指揮官」を養成することは極めて困難なことがわかっている。士官学校と呼ばれる教育機関が存在するように、指揮官の能力はそう簡単に獲得できるものではないのだ。

何より巨大不明生物対策のような総力戦体制においてはどんな人間の手も使わなければいけないのだから、個人の能力に頼った運用は避けなければならない。また、指揮には情報が必要であり、存在しない情報を努力で補うことはできない。この手のことがわからず大失敗したのが、矢口も別の件についてではあるが反面教師として言及する旧日本軍である。

足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」に代表される、システムの不備を個人の責任にすり替える行為が破滅的事態を招来することは歴史を見れば明らかだ。むしろ単体の性能よりも、アリサ言うところの「バカでも扱えるマニュアル付き」の方が作戦遂行にはよっぽど重要なのである。方々で言っているが、戦争に勝ったのはティーガーではなくシャーマンだ。死をも超越した生物を活動停止に追い込むのは、通勤電車と建設機械である。

統合運用

一方、この作品では矢口が「統合運用の必要性」を意見具申し、実際に防衛面においては財前統合幕僚長という人物が登場し、三自衛隊の統合運用を行う。この「統合運用」という概念はこの20年ほどで急速に広がった考えで、ひとくちに言うなら陸自、海自、空自を連携して動かして防衛に当たりましょう、ということだ。もちろん、事態への柔軟な対応が期待できるが、一方で前述の通り前線が混乱する可能性を秘めているわけだから「情報の共有」は欠かせなくなる。タバ戦闘団指揮所で少なくない隊員がキーボードを叩いているが「おそらく」この共有を担当しているものと考えられる。

話が広がりすぎるので、一旦ここで話を軽くまとめよう。

端的に申し上げれば、巨大不明生物災害のような緊急事態においては「縦割り」と「統合」の両側面、つまり矛盾する二つの対応を両立させることが対応においては重要でありその矛盾を極限するのが情報共有、ということであり、それを見事に描いているのがシン・ゴジラなのだ。

巨災対のメンバは誰もが縦割りの中での一代表である一方で、情報を共有して統合運用を行っている。そしてそれぞれの良さを描いている。わざわざ列挙することはしないが、丹念に見ていけばその細部の描写に気づくはずだ。

それは、集団で事態に対処する、ということの本質であり、本作の主題「ニッポン対ゴジラ」を効果的に表している。

優秀な部下

話を巻き戻そう。まだ序盤の巨大不明生物を駆除するにあたってどうするかを会議している段階のことを思い出して欲しい。

例えば外務大臣が「日米安保を適用して駆除をお願いする」というと花森防衛大臣が「自衛隊で始末すべき」といい、内閣危機管理監が「民間人を撃ってしまうかもしれない」と言うように、一見無秩序で統制がとれていないようにみえる行動をとる。

しかし、最高責任者として状況を多角的に把握するために、部下はやはり個性があって、違う視点を持っていることが望ましい。でないと、見るべきところを見落として、間違った判断をしてしまう可能性があるからだ。先に挙げた国交相の「ならそれを早く言え」はここで作用する。

記憶に頼って書くが、たしかイノセンスの音響制作のためにスカイウォーカランチで押井守監督が作業した時に、サウンドデザイナのランディ・トムに「私は監督に選択肢を提供するのが仕事だ」とせっかくつけた効果音が整音過程で消えるかもしれないという押井監督の先行する謝罪に対して返していたはずだ。また、本作でも音楽担当の鷺巣氏は苦労して録音した数曲を庵野監督の判断でボツにしている。優秀な部下とは、判断を行う指揮官に有効な選択肢を提示するものなのだ。

この点、大河内内閣の閣僚達は己の立場から周りに流されたり空気を読むことなく、必要な選択肢や判断材料を提示する。エリート集団としての様が見事に描かれているといっていいだろう。

また、指示を乞う時も、曖昧な言い方をしない。「総理、ここは苦しいところですが、総理のご判断をお願いします」「人口密集地ですがやむを得ません。ミサイルの使用を許可しましょう」「撃ちますか!?いいですか!?」「総理には守らなければならない国と国民があります」情勢をわかりやすく言い、はっきりと懸念材料を伝え、すぐに欲しい回答であることを示し、忘れられているであろうことを端的に指摘する様を描くことで、彼らがかけがえのない存在であることを示す。

綿密に構築された脚本の細部に、明確な演出計画があり、それを見事に実行する役者の演技があるから、後の「内閣総辞職熱線」の痛みが観客に伝わる。

信頼できる上司

部下として閣僚達は優秀だが、では上司としてはどうだろうか。

目立つのは防災大臣である。住民の避難は完了したのかという総理の質問に対して「自分は部下の報告を信じるだけです」と返す。もし部下だったら「いやあわかりません」とか「部下のいうことですから」とかより、この回答のほうがずっとマシだろう。上から信頼されている、ということは期待に応えなければ、という作用をもたらす。

防衛大臣もそうだ。「いざとなれば自衛隊は徹底的にやります」というように、部下への信頼を明らかにする。

主人公矢口も巨災対結成の場面で、見事な上官ぶりを見せる。「人事査定には影響しないから、自由に発言してもらって構わない」。不安を取り除くことで、部下からの信頼を得つつ、活発な情報交換と議論を獲得しようとする、考えられた一言である。

集団のバランス

縦割り行政の頂点に立つもの達が集い、己の立場から意見して、総理がこれを判断するというのはいうなれば国家について偏った判断材料だけで物事が進まないようにバランスをもたらすシステムである。

しかしシステムは有効だが所詮システムであり、構成要素は人間なので偏りが生じることもある。この偏りを平均化してさらに安定感を得ようとするのが、竹野内豊演じる調停者、赤坂秀樹だ。

赤坂はその初登場時から、矢口にバランスを崩すな、と釘を刺している。全体を見る広い視野が存在しないことが危険だとわかっているからだ。先に書くと、本作は矢口が広い視野を獲得する物語でもある。

ここでそろそろ特徴的な演技の話を書いておきたい。赤坂最大の見せ場は、まだ序盤の会議シーンである。「生き物ですからいたずらに刺激すると被害を拡大させる可能性もある」という意見に対して赤坂は「そう、生き物です。地震や台風とは違います」と言うのだが、このときの竹野内氏の演技は見事である。

自分は矢口のような理想家ではなく現実主義者である、そしてここでは駆除に傾きつつある状況に対して自分はバランスを取るために先の意見を支えるべきなのだが、赤坂秀樹は最悪の事態を回避しようとする男であり、後に生き残ることからもわかるように危険を察知することに長けた男でもある。この未知の巨大不明生物に対して取るべき対策は駆除しかない。この男の中に相反する複数の感情が混じり合い、絞り出すように言う「そう、生き物です」はこの、役者の技倆が遺憾なく発揮された映画の中でも特筆に値するものであり、感動した。

御用のレッテルで殺される科学

謎の尻尾に対して詳細を知りたいと三人の科学者が呼ばれるが、なにもわからないという結論が出て、大河内総理が「御用学者では役に立たん」と怒るシーンがある。続くシーンで本作の真のヒロインとの声もきかれる尾頭ヒロミ環境省自然環境局野生生物課課長補佐が登場し、有識者会議の結果と食い違うことを発言して、この女の一匹狼らしさと優秀さが描かれるわけだが、このシーンには裏の仕掛けがある。

尾頭が見ている映像は、三人の有識者が見ているものとは違うはずなのだ。ここは宙吊りになっている部分だが、そのほうがおもしろいので、僕は違うものを見ていると仮定する。

そうするとどうなるか。言ってみればあの三人の映画監督は「本編を見ないことにはなにもわかりません」「この予告が嘘じゃないという保証がどこにあります?」「予告編だけ見て映画を批評する、これでは映画評論とは言えんでしょう」と言っているだけということになる。尾頭は本編を見ているので、評価が的確になって当然である。

このシーンを「御用学者が役に立たないことを描いている」と評する論評をいくつか見ているが、僕の見立てでは「御用のレッテルが科学を殺しかけてヒロインによって復活したシーン」である。

ゴジラは科学的にありえない存在のまさに怪獣なのであるから、そのありえなさを描くためには、まず科学で状況把握を追い詰めなくてはならない。その科学の基礎はなにかと言えば「わからないものをわからないものとする」ということだ。そのためには絶対に有識者会議のシーンが必要である。そして、有識者は「わからない」映像を見ている必要がある。

情報共有の大切さを描くために、国交相が「ならそれを早く言いたまえ」と言ったように、この映画は先に基準を提示する。同様に、ここも科学を最初から描くわけだ。

続く尾頭の登場は、尾頭という人間の優秀さを描いている。彼女は、あくまで得られた情報について所見を述べるだけで、人を批判はしない。意見に対して反対意見を述べるだけである。科学と関わる人間として、そうでなくとも一人の職業人としてあるべき行動をとっていることがわかる。彼女の優秀さを巧みに描いている。彼女の前では、御用のレッテルが無視されるのだ。画して、この映画で結末を迎えるにあたって欠かせない科学の死は回避されるのである。

人間の怒り

そして三人の有識者のシーンは、大河内の発言、尾頭の登場と組み合わさって素晴らしい効果をさらに二つ発揮する。

第一の効果は、大河内が追い詰められていて、焦燥している様を描けることだ。大河内は総理大臣、小学校の理科で習う科学の方針はわかっている。わからない映像を見せられたって科学者はわからないというしかないに決まっているのだ。

でも、でもである。都民の安全を何よりも優先する大河内にはその無力さが受け入れきれない。だから口をついて出てしまう。「御用学者は役に立たん」。後で冷静になって考えてみればおかしいのにその時はつい言ってしまったということが誰しもあるだろう。そういう人間らしさが現れるシーンである。

こういうシーンはもう一つある。都知事の初登場時だ。都知事は「マニュアルはいつも役に立たんじゃないか」と怒るが、マニュアルが見事に作用しているからこそ、その後の避難などにある程度の秩序が保たれているのだ。彼がなぜ怒っているのかは第二の効果で説明する。

第二の効果は観客を災害時に引き込む効果である。これは映画だから、政府に呼ばれた科学者達が何を見ているか大体わかる。そして「この尻尾はなんなんだ」という簡単な問いが理解できるし、答えは怪獣であると知っているわけだ。だから僕らは登場人物の動きを「あーはいはいまだ怪獣が出てきてないからね、わかりますよ」と見られるわけだ。

ところが、実際の災害時に僕らは何もわからない。わからないことの辛さは怒りに変わる。都知事が怒っているのも、これだ。怒りは共有しやすい感情で、攻撃すべき敵を探して攻撃させることで、味方を増やすことができる。多くの政治家が演説の時に拳を振り上げ扇動するのはこの効果を熟知しているからである。「悲しみを怒りに変えて、立てよ国民ジーク・ジオン!」。

「御用学者は役に立たん!」と言われることで、「おお!ここは怒るところなんだな!うおおおおおお!」という感情が繋がり、「有識者会議はバカばっか!」から「尾頭さん最高!」になっていく。つまり「怪獣映画のお約束シーン」への冷めた対処モードが、感情移入に変わる仕掛けだ。 これは映画の基本であり、我々がまんまと騙され続けている技法だ。「駆逐してやる!」とか「犯人はお前だ!」とか、散々見てきただろう。怒りに至るまでのプロセスを描き、爆発させれば一丁上がりである。

三人の科学者は、以上四つの効果のために登場したのだ。文字通り、人と科学に殉じたのである。合掌。僕は最小の時間で最大の効果を発揮する脚本と演出、演技に勉強させてもらった。

巨災対

シン・ゴジラを見た上司から「豊住くんは巨災対にいそうだね。無人在来線爆弾を考案しそう」と言われてよろこんでいたのだが、「鼻つまみ者、厄介者」の意であったのかもしれないと二日後に気づいた。が、気づかなかったことにした。

巨災対の職員は皆個性的で大変おもしろいのだが、その性質は先に説明しているので省略する。

いくつか人を取り上げると、まず、森文哉厚生労働省医政局研究開発振興課長は、矢口の補佐としていい仕事をしている。矢口が演説すると皆が固まってしまい、その固まる演技も見所なのだが、彼が「さあ仕事にかかろう」と声をかけると動き出す。この作用は彼が序盤で職員を紹介したり司会進行の役を担っていることが描かれるからすんなりいくわけだ。常に最初の方で基準を示して後で利用するのがシン・ゴジラの脚本の美点のひとつである。

高橋一生演じる安田龍彦文部科学省研究振興局基礎研究振興課長は芝居がかったキャラクタというものを上手く表現していて気に入っているキャラクタだ。「あー!あー!」とか「なので、うちの局長のコネを使って世界中から…」みたいに勿体つけた喋り方をするイヤな感じ(褒め言葉)の野郎である。

この勿体つけた奴が「ごめんなさい」と反射的に素直に謝ったり「頼むから計算通り行ってくれ」と漏らしたりするところが、一人の人間としての現実味を感じさせ、また好感が持てる。

高橋氏の演技の真骨頂は、核攻撃を伝えられたときである。「そりゃ選択肢としてはあるかもしれないけどさ、普通選ぶかよ」という文章にしたら何の変哲もない台詞が、高橋氏の演技では、絶望感はもちろん自分達の大切なものが失われていく怒り、仕方ないと思う気持ち、そう思ってしまう自分を許せない感情など様々なものが組み込まれて、大変な苦しさの表現になる。普段、基本的に芝居がかった物言いをする男が、このことについてだけは本音が溢れて止められなくなってしまった、という雰囲気がして賞賛に値するという他ない。

EM20

巨災対のメインテーマであるEM20は、プログラムのインタビューで鷺巣詩郎氏が語っているように、最初は重く、後になるにつれて、軽い感じの楽器を使うことで、職員達の個性を描こうとしている。

また、こちらは私見だが、原曲であるDecisive Battleにある旋律が存在しないことは、本作の芯に流れる「英雄不要」の考えを描いていると思う。

僕は自分の作品の音楽発注で、場面のために考えたことはあったが、こういう全体のために手を打つということをしたことがなかった。だからとても勉強になった。

自衛隊と演出の手順

自衛隊の描写は、シン・ゴジラにおける脚本の基本指針、丁寧に前振りをして重要さを見せる、ということを正確に実行した結果重いものに仕上がっている。

大杉氏の技術がどれだけあっても、1キャラクタの台詞だけではダメで、繰り返されるその実力の発動までに設けられた安全装置の解除手順や例外処理があることで、自衛隊の強さと期待値の高さが描かれているわけだ。

だからこそ、タバ作戦の途中、ミサイルの使用許可を具申する防衛大臣に対して、総理大臣が武器の無制限使用を許可するに至るとき、その衝撃度が高まる。こういうものは丁寧にやることでしか効果が得られないので、限られた時間の中でやりきれていることに尊敬の念を抱いている。

同様の演出方針が生きているのが、総理に避難を具申する内閣危機管理監である。警備部長の印象が拭いきれないのだが、渡辺哲はここで初めて、自衛隊の攻撃に際しても落ち着き払っていた男がもはやダメだと観念した、という演技を見せる。今までの経緯があるからこそ生きる限界状態の表現はここにも生きている。

恋愛映画として

怪獣映画というものはまずはじめに怪獣映画であるわけだが、54年のゴジラは様々な側面を持った映画で、それが魅力でもある。その一つが三角関係を主軸とした恋愛映画なのだが、本作の恋愛映画としての性質も上質で大変楽しんだ。

カヨコは登場した時「tradeして」というように動詞を英語に切り替えて話すが、徐々にそれがなくなっていく。これは雑に言えば「ツンがデレてきた」という描写、もうちょっとマシな言い方をすれば二人の距離感が縮まってきた、という描写だ。

「赤坂センパイが良かったけどフラれたからあんたにしたのよ」みたいな感じで、かなりイヤな性格むき出しで登場したカヨコが、どんどんデレるのを楽しめるわけだ。

巨災対にカヨコが初登場するシーンは強面の兄貴を連れていく。矢口の女友達を威嚇したり、手を抜かないのがカヨコである。「ウチはパパが決めるの、君んちは誰が決めるの?」とか言ってみたりする。

また「god…ゴジラ」は、もうわかると思うが「矢口く……蘭堂くん///」みたいな爆発しろよてめーら台詞である。ベタだが大変よろしい。このデートシーンでは「私に即時退去命令が出た」とカヨコが言うわけだが、もちろん「パパがうちに帰ってこいというの」と言っているのである。まったく古臭い展開である。いいぞもっとやれ。

ヤシオリ作戦開始前、カヨコは常に綺麗な格好をしていたのに、ここでは防護服である。ここの石原さとみは、くそかわいい。普段見ない格好、まあつまりそういうシーンだ。握手は出撃前の清い交流である。たまらん。

恋人の帰りを待つ女カットもあり、カッコよく描いているのが印象的だ。スカイ・クロラのラストシーンである。というか矢口もマスクをして敵に突っ込んでいくので、スカイ・クロラである。

最後「私が奥さんであなたが旦那さんをやりましょう」と言っているのに、矢口は「ATMだろ」と返すのである。何度も言うが大変よろしい。こういうイチャイチャは大変好みなので、ぜひ自分もやりたいと思う。できれば自分の作品の外でもやりたいが、できそうな気配がない。

俳優の技術

そろそろ俳優陣の技術について書く。よかった演技シリーズである。労力の都合上俳優陣すべてを網羅できるわけでなく、ここに書かなかったからといっていい仕事をしなかったというわけではない。先に書いた人もいる。

アクアトンネルで前田敦子がちょっと出てくるが、たまたまかわいい子がそこにいた感があってとても自然で好感が持てる。

矢口の演技で最も良いな、と思ったのはゴジラが第二形態から第三形態に進化するシーンの「すごい」である。すごい演技だ。とんでもないものを見て、思わず口をついて出てしまったという感じが、とてもよく出ている。悲劇の後理不尽な出来事に怒りを滾らせ歩いていく姿も見事だが、あの「すごい」の前にはやはり霞んでしまう。もちろん脚本と演出がいいのだが、それでも長谷川氏の演技力がなければ成立しない場面である。長谷川氏は好きな役者なので、えこひいきしそうだから、これぐらいにとどめておく。

目立つところはないが全体的に演技の水準の高さを見せつけてくれる名優は柄本明ーー僕にとって氏は永遠の結城だがーーなど何人もいるが、國村隼演ずる財前統合幕僚長について書く。

序盤の財前は花森防衛大臣の部下であり、おそらく自衛隊出身者でなく、選挙されて入閣防衛大臣の職に就き、着いたからにはとレク(チャー)を受けて職務を全うしようという上官を支える身である。花森は自信と気概にあふれた女で、財前はその勢いを削がず必要以上に押さないように心がけている様が細部に滲み出ている。

後半、矢口に支えるようになると、今度は自分よりも息子の方が精神年齢が近いような矢口に接することになる。前半には見えなかった優しさが今度は表れてくる。こういういわゆるオーラは、僕ら自身言葉にするほど認識してはいないけれど、無意識に認識している細かな様子が積み重なって得られるものである。それを巧みに操る國村氏の技倆には感嘆するしかない。

里見総理代理は一度目と二度目で全く印象が変わるキャラクタである。一度目は見ていてイライラしたが、二度目は有能以外の何物でもない。こんな怪演を言葉で表現するのは、僕には不可能である。有識者が表現してくれることを祈ろう。素晴らしい演技であることは確かだが、それ以上の詳細な表現を僕は持たない。

印象に残る芝居

巨災対の一人が、周りが作業している中一人食事を終えて手を合わせ「ごちそうさまでした」という芝居はとても好きだ。日常を維持する努力が感じられて良い。

巨災対と言えば、深夜に間教授がゴミを集めている芝居があって、これも大変気に入っている。

最後、尾頭が表現を綻ばせるシーンで、泉が電話をしているのも印象的だ。泉という男を支えているものを彼がどう維持しているのかよくわかる。

ゴジラ自体は得体の知れない脅威として描いているので、平成ガメラ三部作のガメラのように表情豊かな演技や芝居――ガメラ3の浅黄とふたりきりで、語り合うガメラの表情は怪獣映画の到達点だ――をしてもらっては困る。JDAMや自らの熱線から目を守るために瞬膜を閉じる芝居は芸が細かく、僕の好むところだ。

石原さとみの仕事

カヨコについては細かく感想を書いていきたい。良い仕事をしているので、その印象を言葉に変えておきたいからだ。

まず、カヨコの特徴的な喋り方、英単語をnaturalに発音するものは、真似しようとするとなかなか難しいことを知っている。発音体系の違う言語を瞬時に切り替えるのは難しい。あの早さで演技を交えて行っているのは役者根性を感じる。

また、あの喋り方誰かに似ていると思っていたのだが、しばらくして気付いた。MITメディアラボ石井裕教授があの喋り方をしていた。おそらく日本語と英語を自由に操る方にとっては基本的なことなのだろう。10年ほど前に20秒ほどお話しする機会があったのだが、早口で恐ろしい情報量を注ぎ込んでこられ、こちらの思考まで見抜くような鋭い視線を向けてこられる。思い出すと巨災対の精鋭描写に対する納得度がより高まる。

話を戻そう。カヨコの佇まいは、プレゼンテーションやボディランゲージについて訓練を受けてきた人間という感じがして大変素晴らしかった。さすがに外交官ではないが何人か高度に訓練された優秀な女性と会ったことがあるが、歩き方や立ち姿、表情の使い方がまさにそれだった。よく演じていると感じる。

それから、ダークナイトインセプションに引き続き、短期間で4回もIMAXの劇場に足を運んだので、本編にくわえて、何度もSuicide Squadsの予告編を見ている。その中で見てきた西洋の女優の演技と比較すると、その様子を見事に再現していると感じる。アメリカで生まれ育ったのなら、こうなるだろうという自然な演技で良い。

全体的に基礎技術の話をしてきたので、最後にカヨコの最大の見せ場について書く。わかると思うが、プライベートジェット内部で「40代で大統領の夢が消えるぞ」と言われる場面である。この時の石原氏の演技は見事である。進撃の巨人の演技も良かったが「ネジの外れてる」キャラクタの演技であり、複雑さよりも極端に振ることが求められる性質の役所で、まったく別物である。

カヨコが「彼」の手を握り返すまでの間に「夢が消える」という痛みを感じ、自分と向き合い、関わるあらゆるものを評価して、決断する表情が組み込まれている。そしてそのあとの覚悟を決めた表情を一際際立たせている。

唯一「一枚岩ではない」ことを明示的に作り込まれたキャラクタという大任を与えられ、見事にやってのけた彼女の技術をよく観察して、自分の演出につなげていきたいと思う。

感想と政治的な態度

公開から1週間経ち、様々な感想や評論が公開されていて、中には総監督以下製作側の政治的意図を語るものも少なくない。

僕はまったくそういう感想を書く気はないが、そういう感想が出てくることについて、良いことだと思っている。

なぜなら、僕は映画における政治的立場は、サー・リドリィ・スコット監督のいうとおり「見た人が決めることだ」だと思っているからだ。

自分の想像で監督や脚本家などの政治的立場を断定してどうのこうの言う事には眉をひそめるが「僕はこの映画でこう感じた」「こういう意見を巧みに描いている」という感想はあって当然だと思っている。

映画は感想を語り合ってこそだと思うし、だからこそ僕の友人達がこれを書くことを求めてくれたわけだから、この点においてもシン・ゴジラ大変優れた映画だと評価している。

石原氏の言う通り、見た人のバックグラウンドによって印象が変わる映画だし、それを語り合い、お互い認め合うことが大切だと思っている。映画に正義はそれほどなく、大事なことは起点になることだと思う。

そういう作品を作れたのは庵野総監督や樋口監督が政治的立場を公の場で声高に主張することなかったからであると思うし、脚本もそう設計されているし、もちろん御二方の高度な演出技術あってこそのものであるし、当然このある意味メッセージ性の希薄な作品を認めて世に出したプロデューサや東宝の勇気によるものだと捉えていて、非常に尊敬している。

ひとつだけ私見を述べるのなら、そういう特定の政治的立場の感想を「お前の感想は間違っている」と攻撃する姿勢が見受けられることは残念で、悲しいと思う。どんな内容であっても、自分はこう感じたという意味での感想は自由なものだ。

人は誰でもウルトラマンになれる

本作を過去のいろいろな作品を引き出して、あれに似ている、これに似ている、ということはいくらでもできる。庵野総監督は様々な作品をよく見ていて、細かく記憶していて、自らの表現に巧みに組み込むことが姿勢の一つなので、そうなって当然だ。だから、書き始めたら止まらなくなるので、ひとつだけ書く。まあいろんな人が書いているだろうが、僕は書きたいから書く。

ヤシオリ作戦は、ウルトラマンである。怪獣が現れて、通常兵器では勝ち目がない。その時に、顔の見えない英雄が、厳しい時間制限の中精一杯戦い、最後の最後で勝利を収め、帰っていく。

放射性物資を吸い込まないようにする防塵マスクは銀色の仮面であり、防護服は銀色の皮膚だ。繰り返される許容被曝量の超過警告はカラータイマの点滅であり、最後に除染して帰ってくる部隊は、あれは空に飛び去る銀色の巨人である。 人は誰でもウルトラマンになれる、という描写だと僕は思っている。

特撮について少しだけ

映画の特撮や視覚効果、合成について語ることは難しい。背景を知らずして、正当な評価を下すことが難しいからだ。特に視覚効果はなんでもできると思われているので、小柄な中年男性に幼女の役をやらせるような無茶振りが平気で行われる。僕は、そういう背景を無視して威丈高に裁くような評価をしたくない。ファーストフードで星付きのフレンチレストランのサーヴィスを求めるような無粋な行為だと思うからだ。

カットごとに品質にムラがあるのは当然で、それはどんな映画でも基本的には同じだ。そして、本当に上手くいけば全くバレない。

そんなわけで、あまり書きたくないのだが、幾つかのカットは素晴らしい出来であった。特撮も視覚効果も皆良いところがあった。ただ、先述の通り、金と時間があれば、あそこの視覚効果はもっと良くできたな、あそこは特撮でやればすごかっただろうな、そういうカットがいくつかあって、それを許すような、前向きにいつもやっていけるような世の中になって欲しいと願っている。

粗を探せば

冒頭に少し書いたが、この映画、粗はかなりある。が、それを書く気はないし、その理由も書かない。

一方で、その粗を見事に覆っている演出について書く。

本作の見どころの一つは、やはり演出技術である。同じ映画でも編集のちょっとした機敏でまったく別物になってしまう。これはTHE NEXT GENERATION PATLABOR GRAY GHOSTという作品をTHE NEXT GENERATION パトレイバー首都決戦という作品と見比べればわかるが、見比べるハードルが異様に高いのが難点である。ともあれ、同じ物語、同じ映像であっても、カットの入れ方でシーンひとつ見ても印象が変わってしまうということをまず前提としたい。

ここまで頭から読んできた奇特な方はわかると思うが、僕は一般人よりは細かい見方をしている。僕ぐらいの見方、まあ映画好きとしては小結ぐらいの見方をしていれば、多くの粗に気づいているはずだ。だが、それに対する不満を見事な演出で覆ってしまうのが本作だ。

それが最も顕著なのが、本作の真のクライマックスである。僕は立川広域防災基地に巨災対が移動したあたりから涙が溢れてきていて、ヤシオリ作戦開始時には興奮で心拍が上がり始め、新幹線N700系電車が登場した時には軽いパニックになっていた。在来線無人爆弾という単語は知っていたので、新幹線の登場は予測していたのだが、それでも、だ。完全に演出に取り込まれてしまった。

何度も書いている通り、繰り返し同じことをやって、段取りを示して、あとの効果を最大化するのがこの作品の優れた演出手段の一つなのだが、延々と出てきた字幕達がここで最大の効果を発揮するのである。

「この機を逃すな!無人在来線爆弾、全車投入!」

脳の処理能力を凌駕する、間違いなく歴史に残る場面だが、この場面の音楽を正確に記憶していない人間が散見される。ここでM32は演奏されていない。なのに、M32をバックに〜という記述を複数の箇所で見ている。

同じことである。粗があるなら、それを隠すほど良いものを出す、それで印象を変えてしまう。ものすごいことだと思う。

なお無人在来線爆弾についてこれ以上書くとまた面倒なので、省略する。僕の新幹線や鉄道についての話が読みたければ、北海道新幹線に失敗の選択肢はないがある。本当に小さい声なので聞き取りづらいが、言及される無人新幹線爆弾の威力を知る手助けにもなるだろう。

自分のこと

ここからしばらく自分のことが大半を占めるので、興味のない方は読み飛ばしてほしい。感想としてかなり高度な領域なので、他人はあまり楽しめないはずだ。

僕は大した怪獣映画ファンではないが、いつか怪獣映画を撮りたいと思っている人間の一人だ。そして自主映画野郎の一人であるから「あのシリーズの新作、自分ならどうするか」というのを考えている。

例えば名探偵コナンなら、コナンが犯人の罠にかかり小五郎に間違った犯人を逮捕させてしまい、裁判でひっくり返されて犯人だと追い詰めたことを何も知らない小五郎が責められるという物語を考えたことがあるしーーちなみにタイトルは二度目の失敗-ミステイク-であるーー、ウルトラマンもシリーズ構成を玩具の販売計画をはじめとして費用回収方法も考えている。

おなじようにゴジラも考えていたものがあって、最後にゴジラを殲滅するトリックは新宿中央公園ゴジラを誘き出して都庁を爆破して生き埋めにし、動けなくなったところをガスで毒殺するというものだった。Aで生まれたBをCで倒すという考えだったのだ。作品コードネームはThe Long Runである。

さて、ご存知の通り、同じことをやられたのである。そして多くの面で上回った形でやられたのだ。

が、残念だという気持ちは全くない。とても嬉しい。その嬉しさはわかる人にしかわからないし、この話だって信じる人はいないだろう。が、構わない。

また一から考え直しだと思う一方で本当に嬉しかった。

「わたしは好きにした、君たちも好きにしろ」という台詞もとても嬉しかった。特に「君も好きにしろ」ではないところが嬉しかった。大事なことは怪獣映画を観られること、作れることで、それを一人のものとされたくはないのだ。意味がわからないと思うが、感情や想いをそのまま書いているので、諦めてほしい。

また、自分が自分の現場でやってきたこと、演出計画をはじめとする様々なことの正しさが確認できたこともよかった。もちろん、先に書いた音楽のように勉強になった部分も多い。次回からは参考にして、より上手くやっていきたいと思う。

話は変わるが、このところTHE NAME OF THE HEROINEの同人誌を作っていて、キャラクタの設定や小説はすらすら描けるのに、一番求められるであろう、何をしたいのか、何を狙っているのか、どうやっていくのか、というあたりの文章がまとまらなくて苦労していた。締め切りが近づけば近づくほど、絶対にこうではない、という思いが先行する一方で、自分の考えていることをストレートに表現すれば、絶対に伝わらないという感覚があった。こういうときの対策をいくつかもっているのだが、諸般の事情でそれが使えないため、本当に追い込まれていた。しかし本作を見たことで、どうやればいいかわかった。非常に助かった。

そんなわけで、個人的にも得るところの多い作品であった。

誰が誰を殺したのか

最後に「怪獣映画」としてのシン・ゴジラについて思うことを書いて終わる。

僕が、怪獣映画を撮りたい、と言っているのは怪獣映画こそが映画の究極形態だと捉えているからだ。まず、大怪獣の迫力を満喫できるのは劇場のスクリーンだけである。そして、怪獣映画には映画のあらゆる要素が詰まっている。戦争映画であり、政治映画であり、社会映画であり、人間映画であり、恋愛映画で家族映画であるのが、54年のゴジラの特徴で、優れているところだ。これだけ多くの要素を詰め込んでいるのに、まったく破綻していないところが魅力である。

それを目指したというシン・ゴジラも僕の見方では、その多くを満たしている。今まで挙げてきたし、もっと挙げることができる。だが、一つだけ足りないことがある。

それは、怪獣とは関係なく人間が死を選択することを要求する描写だ。

こういってもいい。殺人の描写である。

54年のゴジラでは、芹沢博士が死ぬ必要はどこにもない。けれども、彼は自ら良心によって自殺する。水中酸素破壊剤の使用は彼の死と引き換えの選択であったが、彼が死ぬことは彼の選択である。見方によっては、その選択を知りながら周囲が彼を追い詰め、死に至らしめたとも言える。

なぜこんな描写が54年のゴジラにあるのか実は理解不能なのだが、シン・ゴジラにはその描写がない。例えば「男女の間で交わされた秘密を片方が破る」といった些細なことまで54年のゴジラを模倣しているシン・ゴジラにその描写はない、ように見える。

最初から「生き物は殺せる」という伏線を引き続けているのに、生き物を殺さないのだ。

実は、どこかで誰かが殺されているのかもしれない。あるいは、ないことの理由が示されているのかもしれない。先に答えを想像して逆説的に解く べきなのだろう。

そういう、大きな謎があることも、本作の魅力だと思っている。

書き残したことも多いし、書かなかったことも多いが、一旦これで終える。

最後に宣伝する。こういう感想を持つ人間の作品に興味があれば、Twitterをたまに見に来てくれると嬉しい。