六月の開発局

「業界の人」じゃないよ

劇場用アニメGODZILLAに思うこと(約4000字)

先日、劇場用アニメ、GODZILLAが発表された。僕の知る限り、一枚絵と数名のスタッフと制作会社それから公開日が発表されており、また「SF」という単語が飛んでいるので、それについて少し書く。なお、虚淵氏のことしか取り上げない。

はじめに断っておくが、あくまで僕自身の個人的な見解、感想である。まずないと思うが何も知らない人がこの記事をネタに他の誰かの主張や作品を「これはSFではない」などと断罪するような馬鹿げた行為に及ばないことを願っている。シン・ゴジラがらみでその手のくだらない行為をたくさん目にしており、はっきり言って嫌になりつつある。劇場版ガールズ&パンツァーのときは作品自体嫌いになったので(ブルーレイを見て持ち直した)、そういうことがないことを祈りたい。

あくまで僕の勝手な想像を書いている。昼飯食いながら「あれどうなるかな」と話している水準の話だ。

なお、いくつかの虚淵氏の作品を含む、作品の重大なネタバレを含むので、未見の方にはスポイラとなるから、注意されたい。取り上げるのは地球最後の男、アイ・アム・レジェンドFate/Zero魔法少女まどか☆マギカ翠星のガルガンティアサイコパス、楽園追放、Thunderbolt Fantasyである。なお、ガルガンティアについてはOVA「まれびとの祭壇」まで鑑賞する必要がある。一応書いておくと、これ以外の虚淵氏の作品を見ていないので、知識の多寡を気にする人はお引き取りいただいた方が身のためである。もちろん、他の作品も断片的に扱うので、何か楽しみにとっている作品があるなら、読まない方が賢明だ。

それから、別に資料を当たっているわけではない。ご多分に漏れず電車の中で、曖昧な記憶に基づいて書いている。論文でも評論でもない。文の性質に注意されたい。

また、実はあと2500字ほどあったのだが、公の場で披露することはふさわしくないと判断して削除した。結論を別の側面からの文脈で補強するものであった。ので、わかりづらいと思う。立場というものがあるので、勘弁してもらいたい。

「僕の考えるSF性」

前置きに真っ向から挑戦する形で、まずSF性というものについて書いていきたい。僕はあまり本を読まないので詳しくないのだが、SF性というものがどういうものか、という考えは持っている。個人的な、自分の作品の構築の際に利用するものだが、まずそれを書いていく。 その考えに大きな影響を与えたのが「アイ・アム・レジェンド」という作品だ。僕はこの映画を衛星放送で見て、その後おもしろい感想を書く方が見ていないかなと思って漁ったのだが、倉田わたる氏のサイトで以下の記述を目にした。

まさに「SF」の神髄とも言うべき、世界観の素晴らしい逆転である。

廃墟通信(2007年12月10日~2007年12月16日)

僕が考えるSF性とはこれに大きく依存しており、つまり「何か突拍子もない嘘をついて、その嘘の上にはあくまで論理を積み重ねていき、我々に広く浸透している価値観を裏切ったり覆す結末を示すこと」である。SFの科学的、という部分はこのうちの「論理を積み重ねていく」ということであり、決して理系科学に偏ったものではない、ということだ。

だから、別の言い方をすれば、ロボットや宇宙船が出てきただけではSFではないし、剣と魔法の世界でもSF性は獲得できると考えている。

以下、SFといったらこの「ぼくのかんがえたえすえふ」に基づいて説明するので注意してほしい。

翠星のガルガンティア

わたしが最も好きで、高く評価しているアニメシリーズは「翠星のガルガンティア」だが、この作品のSF性は群を抜いている。というのは「価値観を裏切ったり覆す結末」を二段階用意しているからであり、その裏切る対象が根源的なものだからだ。

同作の脚本はこれ以外にも演出技術等優れているのだが、それを語るのはやめておいて、端的に裏切りの部分を説明したい。「人間らしさ」とは何か、と言われたら、おそらく多くの人が単純化すると「ゆらぎ」や「優しさ」とするだろう。例えば「都会の効率化によって消耗した主人公が、田舎に行って素朴な暮らしをすることで人間らしさを取り戻した」みたいな話は具体的に上げるとなると難しいが(僕も何本か見たがタイトルを忘れた)「そういう形式」として広く浸透している。

だが、ガルガンティアは違う。「人間らしさとは文明である」と、文明を築かずただされるがままに生きることは動物と同水準である、と断じるのである。物語はそこまで主人公が効率化されすぎた自分の生まれ育った環境と今生きる優しさを湛えた環境の間で悩んでおり、その二つの対立構造のなかでのゆらぎを描いているのに、ここに至ってまことにわかりやすい理由で「人間とは何か」という哲学的な問題に「そのどちらでもない」とその二つの長所を吸収し短所を断ち切る新たな解を示すのだ。

これこそ僕の望んでいたSFで、最終話終了直後Blu-rayを全巻予約するという人生初の行為に及んだ。そして、そこに収録された「まれびとの祭壇」には、その解を導き出したシステムが、入力値の変化によってどれほど悲劇的な結末に至るか、という初期値の嘘を変化させて物語の中で示され視聴者の中に取り込まれた価値観を覆す結末を導くという高度な芸当を見せている。

魔法少女まどか☆マギカ

最初に虚淵玄という名前を知ったのは魔法少女まどか☆マギカで、当時僕は全く氏の作品を知らなかったから「あ、魔法少女ものね」とスルーしていた。ところが3話の急展開が話題になり、ストーリィをざっと調べたら「なんでも願いを叶えてくれる」という条件を知ったので「ああ、こんなのその条件を逆手にとって全部ひっくり返せばいいんだけど、適当にごまかしてお涙頂戴で終わらせるんだろうな」と思って、再度スルーした。

が、最終話でその「全部ひっくり返す」をやってのけた、という話を聞いて、「おお、やりおったか」と実に偉そうな態度で迎えて、最終的に再放送で鑑賞した。

まどマギの上手いところは「僕程度の知能(つまり中の下……下の下ではないと思う、そうあってほしい……の知能)があれば誰でも思いつく」頓知を、まどかというトロい女の子とほむらというアホの極みみたいな女の子(念のため書いておくが俺が千和さんの声で喋る黒髪ロングヘアの武闘派美少女を嫌いなわけがないだろ)を中心に据え全体の知能水準を極端に下げたところである。これにより「トロいまどかが艱難辛苦を乗り越えて成長し、答えにたどり着いた」というドラマと「いろいろあったけど、なんとか収まった。が、まどかは雑な願い方をしたので神様になってしまいました」というストーリィ両方を実装していることだ。

なんでも願いを叶えてくれる魔法のランプから魔人が現れた時、税務署から文句を言われないように「僕が1レースに1パターンの三連単しか購入しなかった時その三連単は、落馬や故障、反則による降着といった付帯被害なしに必ず当たるようにしてください」という実に考え抜かれた願いを言おうと心に誓った者からすると「まどかもう少し考えればよかったのに」と思わないでもないが、まどかの初期値からすれば大変な進歩である。

まどマギは少なくとも作品世界、まどかと周辺の魔法少女たちにおける「常識」すなわち「みんな死ぬしかないじゃない」を論理を積み重ねてひっくり返したという点でSF性を持っている、と考えている。

サイコパスとその他の作品

サイコパスは僕の大変なお気に入りキャラである常守朱が登場するのだが、それは脇に置いておく。サイコパスは比較的単純な話で、要は「精神的に病んでしまった人間への対処はかなり病んでる人にやらせるのが良いのではないか」というシステム化されたハンニバル・レクタと彼の魔術に堕ちないクラリススターリングの物語である。ので、あまりSF性はないと僕は捉えている。

このクラリスである常守という女は極めて論理的な女で、かなりの強度を誇っており、よほどのことがない限り動揺したりしない。

これは虚淵作品に共通する登場人物の特徴で、感情と理屈を切り離して運用することが可能で、理屈で感情をねじ伏せるのである。感情で理屈を捻じ曲げるような人間は主要な登場人物にはほぼおらず、人の話を全く聞かない連中(Fate/Zeroの多くの登場人物が該当する)や、極端に違いすぎる初期入力のある者が敵になるだけなのが魅力だ。Thunderbolt Fantasyでもあっさり丹翡ちゃん(とてもかわいい)が、殤不患にやりこめられていたし、鬼鳥が屁理屈でも理屈は理屈を体現するかのようにポンポン仲間を増やしていく。

また、翠星のガルガンティアにも魔法少女まどか☆マギカにもサイコパスにも、Fate/ZeroにもThunderbolt Fantasyにもそれぞれ武器として実装されている「世界を支配するアイテム」が存在するが、これ自体は物語の中心ではない。チェインバー魔法少女も、ドミネーターも聖杯も天刑劍も物語に深く関わるが、中心ではない。これらによってそもそも存在し、危ういバランスを保っていた登場人物達の関係に変化が強制される、という描写がある。このあたりも虚淵氏の作品の魅力だと僕は考えている。

端的に言えば、「SF性」と「魅力的なキャラクタ」が氏の作品を輝かせている、と僕は考えている。

GODZILLA

さて、GODZILLAである。この作品について勝手な予測を披露する前に、僕も数本みたことがあるゴジラシリーズの過去作品の特徴について説明したい。

基本的に今までのゴジラ映画ではゴジラに立ち向かう人がほとんどで、たまにゴジラを利用して悪事を働こうとする奴やゴジラを保護しようとする存在が現れたことがあったが、そもそもの、人間同士の関係性の限界を引き出すギミックとしてゴジラが作用したことはほとんどない(ほとんどシリーズを見ていないのでわからないが、初代ゴジラの三角関係は特徴的である)。だが、虚淵氏が(僕が思い込んでいるだけだけど)自らの特技を生かすなら、そういう方向があるのではないか、と想像している。

GODZILLAは、GODZILLAそのものとそれに対する人々、というよりも、GODZILLAをきっかけとして、人々の関係性にどういう変化が訪れるのかを描いた作品になるのではないだろうか。それに立ち向かうかどうかはともかく、それぞれ理想も同機もなにもかも違い、時には対立する人々が、 GODZILLAの出現によって関係性を変えて物語を紡いでいくのではないだろうか。

そして、その始まりか終わりが「なるほど、ゴジラという突拍子もない嘘があって、そこにこういう論理を積み重ねていけばこういう常識を覆すような結果が導かれるよな」ということになるのではないか、と予想している。

なぜなら、公開された絵にはゴジラの姿がない。だから、これは人の物語になるのではないか、と想像しているのだ。