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六月の開発局

「業界の人」じゃないよ

君の名は。:感想(約1万字:未鑑賞者の閲覧は推奨しない)

先日書いたシン・ゴジラの感想の評判が良かったので、もう一つ書いてみるかと思い立ち、「君の名は。」を観てきた。あまり期待していなかったので、劇場鑑賞は見送るつもりだったが、正直な話、これを書くためにauマンデイに見に行った。他人の評価は関係ない。個人的には、他人の評価を気にして映画に触れるか触れないかを決めるほど人生を制限する行為はないと思っているからだ。

粗はたくさんあるし、当然書かないが、新海誠監督の良さが全面に出た作品で、監督の最先端と言って良い作品である。今後どう評価されるかはわからないけれど、新海誠監督の作品を観たいという人はこれを見て、それから気に入りそうな作品を観ていくと良いだろうと思う。

前回のエントリィを読んだ方にはくどくて申し訳ないが、あくまで感想で評論でも解説でも考察でもない。僕がたった一度映画館で見て、メモも取らず、ロクに内容も覚えていない映画について感じたこと考えたこと自分にとって価値あるものを記していくだけだ。というか、序盤のとあるシーンでは「登場人物が恥をかくであろうシーンを見られない」人間なので何度か顔を覆っているので文字通り見ていない。基本的に「僕が」という主語が大量に入るので気に入らない人は読まないほうが良い。

それから、この作品についての感想を書くために、僕は過去の監督の作品と比べてどう良くなったか、という話を書きたい。だから、過去に好きな作品があって、それが傷つけられるのが耐えられない人は読まないほうが良い。

くわえて、このあたりの事情は興味のない人のために一番最後の方に書くが、僕は実にくだらない理由があって心の奥深いところで「映画監督としての」新海誠監督を上から見ている。監督としての実績は当然のこと、大人として、一人の職業人として、人間としては他の大多数の他人に対しての中央値の水準で尊敬の気持ちは持っているし、それは嘘ではないが、純粋な映画監督としては別だ。

黙っていればいいのかもしれないが、読む人が読めばわかってしまうから、それなら僕のそういう態度を読み取って不愉快な気持ちになる人に先手を打って対処すべきと判断した。映画は楽しみ認め合うものであって、喧嘩の材料ではない。

御多分に洩れず電車の中でiPhoneで書き、最後はiMacで少し調整したがほとんど推敲していない。

では、始める。

新海誠監督の武器

ここからしばらく「君の名は。」の話にならないので、そこだけ読みたい人は「最先端」の項まで飛ばされたい。

新海誠監督について、僕は三つの武器を持っている、と評価している。作品の姿勢や、価値基準ではなく、実際に作品を作り出すために使える武器だ。

一つ目の武器は、当然よく言われる通り、背景美術である。アニメにおける背景美術の美は、別に新海監督が先駆者というわけでもないし、その独自性と同等の独自性を持つーー即ちアニメの背景美術という一つの世界の競争ではなく、どの美術さんも独自の価値観でやっていて、それらは作品によって良い選択であるかということにおいてのみ比較されるべき性質のものであると僕は考えているからこういう書き方になるーー方はたくさんいらっしゃるが、素晴らしいものであるということは多くの人が認めるところだろう。監督を「スターダム」に押し上げたほしのこえの時点で「現実よりも美しい」と表現されることがあったが、今回もその美は最も信頼の置ける武器として利用されている。語るべきことは多くあるが、その細かな話は少し後に回す。

二つ目の武器はスポッティングである。これは一般的な用語なのかは知らないが、角の立った特徴的な音に合わせてカットを切り替えて音と映像の連携を図る技法のことである。これまたほしのこえの時点で、クライマックスを飾ったのがこれで、これもまた新海監督が映像制作における決戦兵器として保有するものであり、本作ではその最大出力が披露されている。これも語るべきことが多いが、後に回す。

では、三番目の武器とは何か。工業力である。

工業力の基本

僕たち自主映画野郎、自主アニメ野郎が、新海監督を尊敬し畏怖するのは、作品を完成させる能力を持っているからである。これは当人も「とにかく完成させて出す」ということを何度か語っており、とてつもない能力である。

自主映画というものは往々にして頓挫しやすく、監督が編集作業における一人の孤独に耐え切れず青春の1ページに埋め込んでしまったり、とりあえずつないだだけの意味不明なヴィデオが完成したりすることがほとんどである。自主アニメはこれに輪をかけて破綻の可能性が高く、特に描き送りのアニメとなればこれはもう完成すること自体が奇跡に等しく、お話がついていたらもうこれは異世界から力を借りてきたとしか思えないほどである。

例えばこのわずか5秒強のアニメ、絵の描けない人間だと、3ヶ月かけてこれだけである。こんな下手な絵でよくアニメを作ろうと思ったな、というかまともに動いてるの1カットだけじゃねえか、と罵りたくなる出来である。何処の誰だか知らないが、とんでもない恥知らずである。まぁ、僕なんだが

いやいや比べる相手の能力値が低すぎるだろ、と思う気持ちはわかる。が、悪例に他人の作品を持ち出すような真似をして何が楽しいのかわからないので、これになった。

本題に戻ろう。大変なことなのにも関わらず。しかし、新海監督は完成させている。そしてそれは才能でも根性でもない。監督の純粋な工業力によるものなのだ。

新海監督の最初期の作品である「彼女と彼女の猫」において、監督は、ほぼすべてのカットを短く、動きは単純に、切り替えの店舗とナレーションで見せ、苦手な人物の作画は可能な限りこれを回避する、という手法を採用している。

できないことはやらない、できることしかやらない、欲しがりません勝つまではとか足らぬ足らぬは工夫が足らぬなんて言わない、できないものはできないし、できることはできるのだ。そして、作品が完成した奴が他のいかなる未完成作品の監督よりも偉大なのだ、そういう態度がある(たぶん)。上手い言い方をすれば「等身大の作品を作る」ということをやったのだ。

続く「ほしのこえ」で監督は、駒を進めた。これが大事なことだ。できることを基礎により良いものあるいは新しいもの、もしくは別のものそして作りたいものを作るために新しく技術を獲得し、「できること」に追加していく、これが新海監督の最大の武器である工業力である。

アニメートが苦手なら、単純な回転や、移動、拡大縮小でできる表現や、3DCGIに頼ればいい、ただそれだけの話だ。そしてそれにくわえて、無謀なことをせず、いつも少し先の、ちょっとできることを、ちょっとずつやっていく。それが監督を支え、いつも安定した「新海誠監督作品」を作り続けてきた。ところが、これだけでは工業として成立しない。工業というものは良い技術を持っているだけではダメで、行使すべき時に行使すること、適切な力を適当な時期に適度に投入すること、というのが大切であり、これを任意の目的、即ち作りたい作品に対して実現することが「映画工業」においては重要なのだ。

この難しい問題に新海監督が、常に向き合い続け、修正と調整を重ねた先にあるのが「君の名は。」だと僕は捉えている。

君の名は。」に至るまで

さて、この後の新海誠監督作品をかいつまんで書く。「雲のむこう、約束の場所」では、初めての長編において、前回成功したSF的要素と「懐かしい景色」そして「離れた心のつながり」を置いて、その先に里佳子とヒロキが成し遂げられなかった「物理的な救済」を描いた。

続く「秒速5センチメートル」では、SF的な要素を排して、より純粋な新海監督の利点だけでの勝負を試みた。「ほしのこえ」のSF的なパーツの魅力は脇に追いやられていたことにあって、それをど真ん中に据え付ける必要はなく、それなりの動機づけができればなくても構わないという判断だと考えられる。それから、前作では実質的な三部構成になっていたが、今作では明快に物語を分割した。背景美術には磨きをかけ、そして最後に前回は投入を見送られた伝家の宝刀、スポッティングを投入した。結果は知っての通り大成功である。

繰り返すがこれが新海誠監督の魅力だ。新海監督をまるで芸術家でアート寄りで、作家性が基本の監督のように語る論評を数多く見かけるが、僕の評価は違う。純粋かつ最高度の技術屋で、工業力を持つ監督なのだ。

さて、お次は新海監督、再度長編に挑戦することにした。やったことのないことをやるのなら、他人に学ぶということも大事である。星を追う子どもは、子どものためにアニメを作るとしたら、つまり、「僕ら」が思春期を経験したか、しているからこそ「ほしのこえ」から始まる三作品にある意味共感できたのだとしたら、では思春期に至る前の子ども達は何を求めるのか、ということを考えていった結果、手堅い造りの作品が築かれた。また、同作最大の魅力は、それまで新海監督が映画で行わなかったアニメートの魅力を最大に活かした描写、メタモルフォーゼがあることだ。今まである武器に先人の知恵と新しく開発した要素を組み合わせて作品を作る工業的な姿勢はこの作品でも変わらない。

次の「言の葉の庭」では、背景美術をさらに追い込んだ。密度を限界まで上げたことは知っての通りだ。それから、そもそも恋愛描写を繰り返してきたのだが、ここにも進化が見られる。自然発生的に恋に落ちていたそれまでとは違い、知り合いが恋に変わり恋愛を築き愛だけの破綻へと向かう過程が丁寧に描かれている。そしてそこには、面と向かっての言葉のやり取りがある。

最先端

三度目の挑戦となる長編大作に臨むにあたり、この開発実装試験計測考察の基礎循環を遂行させることに長けた新海監督が過去の作品を精査し、徹底して開発を行ったことは想像に難くない。実際に本作には過去の新海誠監督作品の要素を取り込んでいる。

まず、基本構造は「雲のむこう、約束の場所」である。立場と舞台の説明、少年と少女の交流を描いた第一部と、その交流の破綻から精神世界での再会を描いた第二部、そして復活と救済を描いた第三部となる。

同作にはなかった、主題歌にスポッティングした映像、即ち二番目の武器を第一部に挿入することで補強と自分の利点を前面に押し出す作戦が取られている。このシークエンスは見事で、一度は見るべき出来栄えだ。

特に、これまでの新海誠監督作品では、こういうシークエンスを含めて情景の美しさを描きながら、台詞や歌詞といった言葉でその情景を再表現していた。その結果詩的な表現になることもあったが、どちらかというと言葉の持つ即物性が露出してしまい、僕は、折角の「現実よりも美しい景色を描く技術」が毀損されたように感じたり、その実力を監督自らが信じていないのかと疑いを持つこともあった。

だが、今作のこのシークエンスについては、絵は絵の仕事をして、歌は歌の仕事をし、台詞はどういうわけが共に生きなければならなくなった二人がお互いを尊重し、自らを認めてもらおうとする過程で信頼関係が生まれる、つまり恋に落ちる過程が見事に描かれている。

二人が再会する「聖地」やそこに至る過程は「星を追う子ども」の経験が生かされているし、「言の葉の庭」で極端な水準にあげた結果、作品全体の情報量の不均一が目立ちすぎた背景美術も全体の密度を巧みに調整して修正している。

他にも上げるべき「最先端の新海誠監督作品」としての要素はあるが、それは個別に書いていこう。

また、本作は細田守監督作品の技法を巧みに投入していることも見逃せない。詳細は後述するがクライマックスで疾走するヒロインは「時をかける少女」だし、物語の少年少女たちに対する態度は「バケモノの子」のそれである。

構図

新海監督は背景美術に強い。だから、長く観ていても耐えられる絵作りができたし、それで十分に勝負することができた。一方で僕からすると、なぜか構図は妙なことをしがちで「なぜこんなことをしたの?」と首をかしげる事がままあった。

例えば、「雲のむこう、約束の場所」では、駅のホームが画面のほとんどを占めて、キャラクタの足元だけが見えるカットがある。この構図、難解すぎて僕には意図がさっぱりわからない。

他にも例を挙げるなら、「言の葉の庭」のお弁当を食べるシーンのカットがある。ここでは、手前を草木が占拠しているが、この草木には何もなく、アウトフォーカスで、その隙間から首の切れた二人の姿がちらちらと見える。一体何を見せたいのか、なにをしたいのか、さっぱりわからない。例えば、首から上の見えない二人の体の動きだけを描けば、触れ合いそうで触れ合わない、恋が恋愛に変わるときの揺らぎを描けるし、表情が見えれば、二人がお互いにどんな感情を持っているか、直接的に伝えられるだろう。しかしそれでもかなり難易度の高い構図なのに、それ以上のことをやっているので見ている側としてはついていくことが難しくなる。少なくとも僕には無理だ。

ところが、本作の構図は極めて簡単で、わかりやすいものを積み重ねていく。

新海誠監督作品でもっともわかりやすい構図の一つが「秒速5センチメートル」で重ねられた分断の構図だが、本作でもこれは採用されている。

さらに、デートシーンの終盤の歩道橋における陰と陽の描写は見事なものである。陰と陽は三葉の親父の執務室にはっきり文字で書いてあることも見逃せない(たしか書いてあったはず)。男と女が入れ替わる話であるということも気に留めておくべきだろう。

繰り返されるドアの構図は「青春」が「場面」を積み重ねていったものであるという一つの性質を描くために必要な、切断の描写として作用しているし(これ、俺も昔やったことあるわ……実習で……)、それ以外にも基本的な絵がわかりやすく作ってあるので観客がじっくり入り込むことができる。もちろん、カメラがダイナミックに動き夜空を仰ぐシーンなども素晴らしいものだ。

が、もっとも素晴らしいのは、瀧に乗り移った三葉が初めて教室に入るときの構図である。

三葉の視線は、姿は瀧なのだからバレてお咎めを食らうということがないのに、それでも見知らぬクラスメイトと目を合わせるのが怖くて、顔を見ないでそのちょっと下の物を見るのだ。

足と作画

新海誠監督はそもそも、女性の足首より下の足の描写に拘りのある監督である。女性の足にこだわったアニメは「冴えない彼女の育て方」など枚挙に暇がないが、足首以下にフォーカスした監督は大変珍しい。

もちろん特徴的なのは「言の葉の庭」であるが、それ以前の、例えば「Wind」のOPだと、足のカットが4つもあるのに、足首以下が75%を占めている。「はるのあしおと」のOP(余談だが、製品にしか収録されていないサビの落下カットは素晴らしい出来だ)でもソックスを履くカットが入っている。「ef」は足カットが多いが、太ももやひざ、ふくらはぎも入っていて、それほど極端ではないが、しっかり足首以下も描写されている。注目するとかなり多いことがわかるだろう。「猫の集会」も足首より下が重要な役割を果たしている。

最初に新海誠監督の足首以下の描写にびっくりしたのは「雲のむこう、約束の場所」だ。大変丁寧に描かれるので驚いたが、まさか足首以下を主題にした作品を作るとはその時は思ってもいなかった。まあ、この作品の話はもうみんな知っているのでどうでも良い。

さて「君の名は。」は見る前から参加スタッフについての噂を伝え聞いていたので「これは新海監督、とうとう足首から上に全力を注ぎ込んでくるな」と予感していて、その予感は的中した。

最初の入れ替わり時が、いきなり全力の足である。つま先から太ももまで全力である。前作で足首以下に想いを注ぎ込んだ結果がこれである。

が、そんなことはどうでもよろしい。クライマックスが、足なのだ。

山を駆けずり回る三葉の作画はすさまじい。他の追随を許さない世界最高の足メーション「人狼」を思い出させる動きである。特に蹴り上げた太ももにまとわりつくスカートの動きはとてつもない執念を感じさせる。もし見たのに覚えていないのならもう一度見に行くべきである。

また人体の動きにも注目すべきだ。人間の腕は胴体から肩というジョイントによって接続されており、肘という可動部が、手首という回転部に骨を通じて繋がっており、それを左右交互に前後させることで下肢の運動を補助している、ということがものの見事にわかり、「普通の」女子高生が疾走したときに起きる各ジョイントに引きづられて末端部が追いついてくる様が見事に描かれているのだ。

こういう作画をするとき、素人は「そういう動きを細かく描けばそうなるだろう」と思いがちだ。だがそれは大きな過ちだ。少ない枚数でいかにその動きの特徴をつかんで描くか、そこに優秀なアニメータの能力がある。これは描けばわかる。

あまりにも見事な動きで、帰るときに再現したくなる四肢の動きだ。「パリで一緒に」を見たあとで、階段を降りる際にあの動きを再現したくなったのと同じである。小澤征爾がコンサートの成功は帰り際に観客がメロディを口ずさんでいるかどうかでわかると言ったそうだが(真偽不明)、まさにそれである。

劇場にアニメを観に行くことの価値の一つならが高品質な作画を見に行くことにあるとするのなら、その価値は十分あると言って良い。担当アニメータには賛辞を贈るべきカットだ。本年度の日本アカデミー賞最優秀アニメータ賞ノミネートは当然のこと(念のため書いておくがそんなものはない)、P.A.WORKS井上俊之原画集と同じ仕様か、e-sakugaで原画集はよ。

現実感と臨場感

新海誠監督は「現実感」を極端に大事にする人だ。言い換えれば「現実感」さえ補えていれば構わないために現実をしばしば無視する覚悟を持っている人間である。

僕はまあそれなりの鉄道好きだから、新海監督の鉄道の扱いは非常に不満だ。本作も東海道新幹線の座席配置が入れ替わっており(これも見事な演出としてもいいのかもしれないが)、すごく気に入らない。が、「秒速5センチメートル」で、95年にモータ駆動のボタン式ドアを有する115系を登場させ、宇都宮以南でドアの取扱いを客に任せ、小山雪まつりを開催し、大雪の中運転指令に職場を放棄させて雪合戦をさせた新海監督なので、そういうことは諦めて無視している。

なぜなら、そんなことほとんどの観客にはどうでもいいことで、それは「彗星」と同じような舞台装置に過ぎないことで、「正しい-間違い」の文脈で語られるべき性質のものではないと評価している。僕が個人的に「好き-嫌い」で言ったら嫌いというだけの話だ。

では、そうやって細部を喪失、もっとキツい言い方をすれば、ないがしろにして現実感を得られるのか、という問題は当然浮かび上がってくるだろう。でも、僕は「現実がそうである」ということが「現実感」だと考えていない。もし、現実に則っているならそう言えば良いのであって、現実のように感じるということは現実である必要はないと捉えている。

であるから、本作の現実感がどこにあるかというと、それは「初めて東京の新宿に出てきたときの感じ」や「初めて田舎の子供たちの登下校に旅路の途中で出くわしたときの印象」、「まだ寒くはないけれど適度に涼しい秋風のなか、暗い夜空を明るく感じるほどの星を見上げたときに滲んだ想い」にあると思っている。そしてそれは、新海監督の武器でしっかりと描かれている。

他の作品の話になるが、ほとんどの人が戦車に乗って戦った記憶はないだろう。けれども、観客を凍えさせないために暖かく設定された空調の劇場で4DX上映の劇場版ガールズ&パンツァーで風を受けたとき、自分もゴルフ場で夏風を受けているような、その場に居合わせたような、その場に望んだような雰囲気つまり、臨場感があったはずだ。現実感や臨場感というものはそもそもそういった、嘘の中にある性質のものであって、確かに嘘が多い映画だが、それが現実感を毀損しているとは微塵も思わない。

むしろ「ああ、こうだったよね」「きっと、こうなるよね」という具合がよく出ていて、だからこそ、作品をふんわりと受け止める人たちの心に響いているのだと思っている。

だから、僕は本作もMX4Dで上映してほしいと思っている。そうしたら、きっと「臨場感」も生まれると思うのだ。

子ども騙し

最終盤、物語は穏やかな流れになり、その後と結末が描かれる。

この結末は、「秒速5センチメートル」で救済を願っていた、つまり前々々作からずっとこれを願っていた人たちに対するものだと捉えている。それは「ガメラ3の続きが見たい」みたいなもので、僕の気持ちとは全く相容れないが、そういうのもあっていいだろう。

この流れは、「バケモノの子」と同じだ。「バケモノの子」は少年たちに「図書館に行ったらなんかものすごく素敵な子とお近づきになれるかもしれない」という期待を供給したのだが、本作も「今日電車でチラッと見かけたあの可愛い子ともしかしたら運命的な再会が果たせるかもしれない」とか同等の奇跡を、絶対に口にはしないが、心の奥底に潜めて明日を生きる糧になる期待を供給している。陳腐な言い方をすれば、夢があると言っていいだろう。

僕が「秒速5センチメートル」を見たのは大学生の時だから「まあ、こんなもんだよね。いいじゃん」と思っていたが、中高生に夢を与えられるかと言えばそれは難しいだろうと思う。もちろん、受け手によるだろうが。

届けたい相手がいて、そこに対して適切な手段を行使できている、ということが重要で、繰り返すけれども新海監督の最大の長所はその工業力にあるのだから見事にやってのけたと言えるだろう。

もちろん、辻褄が合わないどころか合わせる気がないし、ご都合主義だから、子ども騙しだと言うこともできる。

そして、確かに辻褄が合っていることに対する物語の楽しさや喜びというものはある。「シュタインズ・ゲート」なんか、辻褄があっているからおもしろいのだ。辻褄を合わせるのは難しい。ちょっとした綻びが全体を破綻させてしまう。物語を書いたことのある人間なら誰もが知っていることだと思う。だからこそ辻褄が合う物語は高く評価される。

一方で、子ども騙しには子ども騙しの難しさがある。「甘城ブリリアントパーク」で可児江西也が言った通り、子どもを騙すのは大変で、そう簡単に騙されてはくれない。誰かに夢を見せたいのなら、まず自分自身がその夢を信じる必要がある。

繰り返すが、新海監督がやってきたことは奇跡でもなんでもなく、不安定で判断の難しいことを、いつも自分の手に負える水準になんとか押し込めて築いてきたということであり、くわえて並走する電車の中にいる大切な人を見つけたときのように、掴むのが難しい機会を掴み取ってきたということだ。だからこそ僕ら自主映画野郎や自主アニメ野郎が尊敬する立場にあるわけだ。

それを普通は夢を叶えたというのであって、自分が叶えたのだから信じていない筈がない。夢を信じている人にしか子ども騙しができないのなら、それを夢を信じられる立場であることで真っ当にやって見せたと言えるだろう。

大衆迎合

以下「君の名は。」の話はほとんどない。

僕はテレビを基本的にアニメを録画するための受信機としてしか捉えていないから、本作の宣伝が大々的に行われていたのもよく知らないが、確かに映画館には宣材が大量にあったから、東宝の人たちは推していたのだろう。

本作は「恋愛描写てんこ盛りで」「泣かせ」「普段声優業をやらない俳優が声優をやり」「絶叫し」「主題歌のついた」作品であり、これがものの見事に大ヒットして、一人の「シン・ゴジラ」ファンとして胸がすくような思いだ。僕は一部の「シン・ゴジラ」ファンが、言葉の足りない主張をして、それが伝播していく様子が実に気に入らなかったからだ。「シン・ゴジラ」を作らせてくれたのは、こういう大衆に寄り添い、大勢の人間に「製作委員会」という形でその興行安全性を担保された作品が多数あって潤沢な予算が確保でき、また失敗時の救済策があったからだと考えているから、思慮の浅い連中の物言いが本当に気に入らなかった。こうやって、ヒットしてくれて大変嬉しく思っている。

今になって「恋愛映画なんだから恋愛描写があるのは当然」などと言っているが、男性も女性も誰も映画に恋愛描写を求めていないと断じるような言動をここ1ヶ月続けてきたことについて誰もが見逃してくれるとは、彼らと同じ「シン・ゴジラ」ファンとして思わない。見事に劇場には多くの若い女性の姿が溢れており、「シン・ゴジラ」とは違う様相を呈しているので、大変嬉しく思っている。

彼らは、やっと「正しいありかた」が認知されたと思っていたのだろう。が、それは違う。それは正しいことでも間違ったことでもなく誰に向けたかという違いだけの話であり、僕ら特撮ファンは「こういうおもしろい怪獣映画で金が儲けられることが証明されてよかった」と純粋に喜ぶべきだと思う。もちろん、そうしている人も多いが、今までの恨みを晴らすかのような言動によって(恨みなんて個人的には全くないが)、また特撮ファンや映画ファンに対する「排外的」という風当たりが強くなるのではないかと少しぐらい危惧すべきだったと思う。

そして、僕としては、どちらのファンも認めてくれるような、素晴らしい怪獣映画を作るために生きていこうと決意を新たにさせてくれるような、価値のある作品だった。

新海誠監督について

以下、本当に「君の名は。」の話はない。自分語り。

冒頭に書いた、僕が新海監督を純粋に監督としては心の奥深いところでは上から見ている、というのは単に出会った時期が悪かっただけである。文字通り中学校2年生の時に出会ったので、焔燃のような態度で向き合い続け、内輪なのでそういう態度を隠すことなく、それが延々と続き、30近くなって今更書き換えるのも無理になったというだけの話だ。

だから今回もプライベートでは「どうでした?」と知り合いから聞かれれば、焔燃のように「いつものような話です!」と答えている。

それから、前述の実習において、僕は新海監督の描く東京が嫌いなので、東京の美しさが出るように努力したのに「新海誠みたい」と講評されたのを逆恨みしているのも多分あると思う。

ね、実にくだらない理由でしょ?

公にするのはどうかと思ったけれど、書いてきた新海誠監督に対する尊敬の念は本物だし、仔細に記した高く評価している点は嘘偽りのないものだし、新作もきっと見るだろうから、十分補って有り余るものだと思うし(補う必要があるかどうかは別として)、そういう「心」を、読んでいる人には理解してもらえるものだと信じている。