六月の開発局

「業界の人」じゃないよ

響け!ユーフォニアム2(1期も)感想など

はじめに

響け!ユーフォニアム2が最終回を迎えた。毎週楽しませてもらった。正直なところを言えば、1期よりは数段僕好みではなかった、よくわからなかったな、という印象だ。

ときどき「ユーフォニアム2は1期みたいなスポ根でなくなってしまった」というような話を見ていて、うーんと、それはちょっと違うんじゃないかなあと思う。

じゃあ自分はどう捉えているのだろうということをつらつら書く。

少し注意書きを書いておくと、僕は、テレビで放送された本編しか見ていない。それから、業界の人ではないので、用語を間違って使っていると思う。ただ、脚本という言葉は意図して使っていない。脚本=お話だと思っていないし、脚本家が話についての全権を握っているとも思っていないからだ。

最大の特徴

響け!ユーフォニアムはめずらしい音楽、というより「プレイ」アニメだった。音楽でなく「プレイ」としたのは、スポーツ物も同様だからだ。

この手の音楽物はいくつかあるが、よくある演出手法として「演奏ポエム」「コンクールブラボー」がある。どちらも自分で思いついたので、多分一般的な言葉ではない。

演奏ポエムというのは、演奏シーンになると、登場人物が突然ポエムをモノローグで語りはじめて、その演奏の素晴らしさを力説する手法で、コンクールブラボーというのは、コンクールのシーンで観客が立ち上がってブラボーと叫び、訳知り顔の登場人物が「コンクールなのにこの熱狂…!」と演奏者の技量を演出する手法である。

これら手法の良いところは、実際に演奏の優劣を描かずともキャラクタの技量を描き出すことができるということは明らかだが、映像作品であるならば、ぜひ演奏で示してもらいたいと思うものである。ところが、その実現はどう考えても難しい。だから、音楽アニメもスポーツアニメも、ポエムに頼るか、極端な技倆の差を描くことになる。

しかし、ユーフォニアム1期はその難題をやってのけた。「高校生ならなかなか上手い中世古香織」と「圧倒的に上手い高坂麗奈」の対立だけでなく、「高校生ならなかなか上手い中世古香織がいくつかの問題を修正し、高坂麗奈を追撃する様」まで、演奏によってのみ描いてみせた。もちろん、ヒロイン黄前久美子も、技巧的な部分で演奏から降ろされるという厳しい状況に直面する場面で、田中あすかとの些細な、しかし確実な技術力の差を認識させられた。響け!ユーフォニアムの一つの特徴は、この「音楽と真正面から勝負した」ということにある。

お話の堅さ

しかし、隙のない手堅いお話について見逃してはいけない。演奏が特徴なら、お話の堅さは土台となった。

まず、主人公にとっての課題が示されるが、これはやりたいことが見つからない、という定番である。 で、なんとなく高校生になった久美子は友達と出会い、部活見学に行き、基本的な講義を受け、また行う。部活ものの定番展開である。 それが済むと、今度は滝が現れ、久美子の課題を再度認識させる。そして「上手くなければ生き残れない」の原則を提示する。 続いて首の皮の繋がった吹奏楽部は、サンフェスで上手くなったご褒美としての勝利を満喫する。 さらに、初心者の葉月が合奏したことないのでつまらない、というわかりやすい話から、好きになる、というもう一つのキーワードを提示する。 「自分はどうしたいか」「上手くなければ生き残れない」「何が好きか」これが響け!ユーフォニアムの三大主題である、と前半を使って描ききっている。

それからは、葵が「上手くなければ生き残れない」の原則で脱落し、葉月が「何が好きか」を示し、大吉山で「自分はどうしたいか」が再度取り上げられ、オーディションでは改めて「上手くなければ生き残れない」と「自分はコンクールで吹きたい」が示され、その間に吉川優子が「香織先輩が好きだ」とか麗奈が「滝先生が好きだ」という気持ちを強く出し、滝が非情な決断を下し、さらにそこに救いの手を差し伸べることで、久美子は「自分はユーフォニアムが好きで、演奏したい。だから、上手くなって生き残りたい」と結論を出して、あとはご褒美で終わりだ。

実に手堅いお話で、それが響け!ユーフォニアムの良さだ。お話には様々な要素があるが、その多くが「あ、わかるわかる」とか「これが好きなら、もしくは嫌いなら、そうなるだろうね」というものでできている。感情移入がしやすいし、お話に違和感がないから納得して進んでいける。対立する場面においても対立する両者の気持ちにそれなりの感情移入ができるから、そこに現実感が生まれるわけだ。

また、次はどうなるか、というところに、例えば「麗奈がソロに選ばれる」とか「わたしね、滝先生が好きなの」みたいな「予定内の驚き」はあるのだけれど、突然吉川優子が出刃庖丁を持ち出して麗奈を刺突したりはしない、安定感がある。予定調和の良さがある。

さらに、同時にさりげなく常に「強大な敵に立ち向かう久美子」という構図を入れている。それから、物語の中心メンバでない、準レギュラでもない葉月やみどり以外のキャラクタが吹奏楽部に社会を描き出していたことも忘れてはいけない。

くわえて、滝を中心とした「無言のお話」が、明快にその下支えをしてきたことも重要だ。滝について言うなら、初登場時点で大吉山北中学校の地獄のオルフェを確認している。その後、中世古や吉川の実力を確認し、トランペットパート全体と信頼できる高坂の能力を最大限に活かせる三日月の舞を選曲したことは想像に難くない。オーボエに鎧塚がいたこと、あまりやる気のないホルン隊を「ホルンがかっこいい曲」でおだてて仕事をさせること、ユーフォニアムに名手田中あすかがいたことは、彼の選択を決定したものと思われる。

十分に世界観の性質の中で流れを収める選択をしていて、そこには「下手くそだった北宇治が府大会で金賞をもらって関西大会出場を決めました」という「ストーリィ」、「何をしたいかわからなかった黄前久美子が、何をしたいかわかりました」という「ドラマ」、そして「適当にやって思い出が作れる」から「一生懸命がんばってよい結果を出すと思い出が残せる」に変わる、言うなれば始まりがあって終わりがある「物語」がある。

この三点セットがしっかりあるお話つまり文芸を、高い作画、演技、演奏そのほか諸々の技術が支えた。つまり、映像作品、総合芸術としてやるべきことをやった、それが、響け!ユーフォニアムだったと僕はみている。

1期と2期の大きな違い

で、ユーフォニアム1期と2期の違いは、これらのうち、文芸の変化であることは明らかであるので、どう変化したか、ということを記していこう。

その変化の要点は3つで、1.問題に共感を得られる人の数が減った、これが大きく、小さなものとして2.久美子が強い立場になった、3.問題を冷めた目で見ている人間がいなくなった、だと思っている。

1期と2期の最大の違いは、久美子が出会う問題が、共感を得難いものになったということだ。

葉月が合奏したことないから音楽が楽しくない、という話は、まあ「そりゃ基礎練ばっかなら初心者は飽きるわな」となって、共感できない人は少ないだろう。「去年は下手くそな3年生がソロやってて、今年は下手じゃない自分が3年なんだからソロできると思ってたら1年に持ってかれたくやしい」というのも、多くの人が共感できると思うし、「私の方が上手いんだからソロ吹きたい」もわかると思う。

一方、「大好きな友達にキツイこと言われたから話しかけられると逃げたくなっちゃうんです」、と言われたら「は?」と思う人はそう少なくないのではないか。僕なら、好きな女の子にキツイことを言われたことは何度もあるが、それは「豊住キモい近づくな話しかけんな死ね」みたいな内容だし、そのあと話しかけられても尻尾振って喜んでいた。アホである。でも、高校生の好きってそう言うものでは?と思う。なお「そういう」趣味はない。

ところが、鎧塚はそうではない。それなのに、16にもなって黙って走り出して逃げました、という話を見たら「なに"ぶってる"の?」としか僕は思わない。

「記憶にないオヤジだけど、自分の演奏を聴いて欲しいからいろいろやったけど、おかんがうっさいのでもーいーです」と言われて「お前に何度も頭下げた傘木に詫び入れんかコラァ」とまでは思わなくてもちょっと違和感感じることはあるのではないか。僕でも言わないが、陰口は盛大に叩くだろう。いや、言っただろうな、多分。

「うぜえ、家からすでに出て行っており、たまに帰ってくる姉貴だけど、本格的に引っ越したら電車の中で泣くほど寂しいです」と言われても「大変だねぇ(棒」となる人はいそうだし、僕はそうだ。

同様に「好きな先生の元奥様が死んでるから墓を見に行きたいです」と言われて「わかるよその気持ち!!」となる人は珍しいのではないか。

「いやいや、久美子が麻美子のことを想っていることは丁寧に描いてあったじゃないか」という人はいると思う。が、それが「感想」だ。正しい、間違いではない。伝わる、伝わらないの問題なのだ。そこについて作り手は、諦めるしかない。シン・ゴジラのときもいたし「あのシーンの痛みがわからない奴は人でなし」みたいに言う奴もいた。はっきり言って、どうかしていると思う。

少数派から多数派への変化と社会描写の消失

話を元に戻そう。次に、久美子は1期において、概ね少数派であった。初登場シーンでは、みんなが大きく喜んでいるところで、一人だけ麗奈を上から目線で見ていて「よかったね」なんて声をかけている。

滝が着任すると、久美子は「手を挙げなかったずるい子」であり、ここでも少数である。この後久美子は「真面目に練習する派」「麗奈の味方」「2人しかいないユーフォニアムでダメ出しを食らった方の1人」と、少数派の道を歩き続ける。

ところが2期における久美子は大衆の尖兵、最も危険な領域に単身切り込み解決を要求される、特殊部隊隊員か007の立場となる。巨大な力を背景に、異端児を更正させる立場が主になるのだ。みぞれに対しても、あすかについても、麗奈についてもだ。

そして、些細に見えるが大きな違いとして、久美子が取り組む問題について冷めている人間をはじめとした周囲の描写が弱い。1期の場合、例えばあすかは、誰がソロかに「心の底からどうでもいい」立場だった。そしてそれについて晴香は「1人でやるしかねーぞ」と自分の立場を持っていた。さらにあまり焦点を合わせてもらえないキャラクタ達が、滝の悩みや立場を描き出すことを支えてくれていた。

これらは「本人達にとっては大問題だけど、まわりにとっては」というある意味社会の恐ろしさを描くために必要であり、それがあるからこそ、久美子の「周りが、ではなくて、自分がどうしたいか」という主題を強く描けていた。

ところが、2期は描くべき内容がわかりづらいものになったが故に、その説明のための描写を強化する必要があり、部活の社会を描写することができなくなり、結果として「巨大な組織を背景にした強者の久美子」を支えてしまった。まさに物言わぬ大衆として、1期で久美子が立ち向かった麗奈の敵を、今度は背景にすることを、支えてしまったのだ。

特殊なお話の良さと高坂麗奈

じゃあ、その違いは「ダメだったのか」というとそうではない。究極的には良し悪しの話ではない。好き嫌いの話だ。

響け!ユーフォニアム2のお話は、一期よりも一般的なものではないだと思う。つまり、特殊だ。だから、その特殊さに合えば、一期よりも良いと評価する人も出て来て当然だ。その逆もあり得る。

僕の場合、鎧塚みぞれの気持ちは理解できない。田中あすかや黄前麻美子に対する黄前久美子の気持ちもわからない。だから、感情移入できないし、現実感を感じられない。したがって、お話を楽しめない。特に、最終話なんか「なんでここまであすかに久美子は執着するの?」と思ったし、そうなので「この役員決めのシーンも、秀一のシーンも、追い出し会のシーンもいらなくない?というか2期の秀一はなんのために出て来たの?」と思ってしまい「果てた」という印象が強く残ってしまった。特殊化が悪く出た一例だ。

けれども、それまでの話に比べて軽いという評も見かけたが、僕は、高坂麗奈の気持ちがよくわかる。だから、彼女のお話には共感できたし、一期の彼女の気持ちもわかったが、二期の彼女の気持ちはもっとよくわかるので、彼女がもっと好きになった。一期の彼女は「好きなタイプのアニメキャラ」だったが、二期の彼女は「可愛い女の子」になった。

好きな人にかつて伴侶がいた、ということは、今の自分にとっては実は大した問題ではない。それなのに、そのことを知らなかったことがまるで決定的な問題であるように誤認してしまい、その誤認を誤認だと理解しているはずなのに動揺してしまう。「ヤバいぐらい動揺して」というあの台詞を、「え、今の麗奈に関係ないでしょ」と思う人の気持ちはよくわかる。「奥さんもう、いないんだよ」。その通りだ。

けれども、僕はその動揺がわかる。だから、麗奈の話が一番おもしろかった。繰り返すが、わかるから偉い、わからないから間違っているという問題ではない。そういうものなのだ。

墓石を見に言ったところで何かが変わるわけではない。けれども、自分の向き合わなければいけないつらい現実を少しでも惨めに受け止めないために、あの行動を選ぶその気持ちを想像できるし、静まり返ったホールでプライマコードのように神経が発火し、情動に突き動かされて思いの丈を叫び伝えてしまう、その恐怖を知っている。そして一度初めてしまった戦いの決着を知りたいと、泥沼に足を踏み入れていってしまう衝動もわかっている。だから僕は麗奈が特別に好きだ。

他の観客を置いてきぼりにしていたとしても、それは僕にとって、つまり鎧塚みぞれや田中あすかや黄前麻美子にまつわる黄前久美子のお話に共感した人たちにとっても素晴らしいもので、一期の手堅い文芸との間に、客観的な優劣をつけられるものではない。

優劣をつけられるものではないけれど

一般的な1作目と特殊な2作目、という組み合わせは珍しいものではなく、例えば、機動警察パトレイバー the Movie平成ガメラ三部作、魔法少女まどかマギカのテレビシリーズと叛逆の物語などが該当する。そして、一般的だからといって必ずしも一般的な作品の多数決の評価が、概ね高いとは言えないことが、平成ガメラ三部作からは言えるだろう。また、一般的なお話を再演しつつ、お話の部分は手早く簡単に済ませ、観客が期待している部分を徹底的に描いて評価を獲得した劇場版ガールズ&パンツァーのような作品もある。

では、個人的な想いを置いて、響け!ユーフォニアム2の文芸は欠くところがなかったのか、と訊かれれば、残念ながら「いや、あの四つのストーリィを維持しつつ一般的なドラマを入れる手はあるよ」と僕は言うだろう。心からそう思っているからだ。

とくに、何度か目にした「一つ一つの話がぶつ切り」という評判はやりようがある、と思っている。元々一期がスポ根ものだった、と言う人が、一体何を指してスポ根ものと言っているかわかる気もするので、そこについても、こうすりゃそうなったんじゃない、みたいなのは、わかる。

じゃあそれをどうやったらいいのか、と言う話なのだけれど、まあ実はあんまり書きたくない。それに、「プロの仕事(パターソンジェスチャ)」に「素人(同じく)」があまり大きな口を叩くべきとも思わない。それに、多分作った人たちは、僕が気づかない、何かやりたいことがあってだからそうしたのだと本当に思っている。それが伝わっていないのは、前述の通り諦めるしかない。でも、だからといって、それを無視して外野が「こうすべきだった」と素面で、真面目に、強くいうのも野暮だ。

したがって「生中二杯後」のニュアンスがわからない人や、そういうつもりで読んでいない人はこの先を読むべきではない。本来なら呑みながら話す内容だが、元々友達が少ない上にユーフォニアムを見ている奴はもっと少ないので話し相手がいないのだ。

例えばの話

一期も一つ一つの話はしっかり区切られている。入学と入部、方針決定、滝による指導、サンフェス、葉月の話、葵脱落、あがた祭、オーディション、再オーディション、久美子の話、となっている。それが「ぶつ切りになっている」という印象を受けないのは、「受け入れやすい自然な話の流れ」があるからで、それは誰もが知っているといえる4月から始まる部活の一般的な日程である。部活の日程に乗っているから、話が全体で流れているように感じるのだ。

ところが2期になるとあとは大会を突破していくだけなので練習するだけである。オーディションも終わっている。日程に起伏がない。もう前の手は使えないのだ。ではどうやって大きな話の流れを作るのか。

一つの手は、マルチスレッド作戦、いわゆる群像劇である。それぞれはぶつ切りの話を同時並行させ、切り替えていくことで「小さなぶつ切りの話たくさん」を「大きな一つのお話」に誤認させる方法である。ところが、響け!ユーフォニアムの場合、基本的に黄前久美子の視点で描かなくてはいけないのでこの手法が使えない。

だから、ちょっと変えて、前の問題が解決する前に次の問題を起こして、問題を同時進行させてやればよい。こうすることで「どの問題を先に解決するか」という久美子の悩みが現れて、久美子が強くなりすぎた印象を抑えることができる。

具体的にはどうするかというと、田中を早い段階で部活から退場させればいいのだ。そうなると、音量の問題が早期に出現して中川を昇格させなくてはいけなくなる。

すると、オーディションで落とされた他のメンバが不満を持つことを描写できる。さらに、傘木の復帰をあすかが握る違和感を引き起こすことができる。ここであすかが傘木の復帰を否定することで、自らの復帰を狙っている伏線を張れる。

田中が模試で好成績を納めて、復帰という体勢になると、技術が低下していることを確認され、今度は元の技量がある田中をとるか、今調子を伸ばして来た中川をとるか、という話にできて、久美子の葛藤を引き起こせる。さらに滝としては完全に初期のプランが狂っているし、中川の下克上はオーディション脱落組にさらに不穏な動きを起こさせることができるだろう。あすか派の中世古も自分対あすかの対立に、当然小笠原も思い悩むはずだ。

ここで麗奈を滝の側につかせて、久美子の優柔不断さを責めさせることによって、さらなるドラマを作り出すこともできる。この混乱によりコンクールが楽しいものでなくなるし、久美子自身があすかか中川のどちらかを見捨てなければならなくなるので、傘木の話に説得力が出る。自分がやりたいことを後になって蒸し返すということで中川と麻美子が連立し、あすか自身やあすかへの久美子の思いも温存でき、麗奈の話も影響なく進め、かつ、1期のスポ根と称された性質も実現できるのではないかと思う。

でも、そうはしなかったのが、作り手の選択で、それが尊重されるべきだとも思うのだ。

最後に

僕は、良い作品とは、終わった後いろいろ話せる作品だと思っている。だから、響け!ユーフォニアム2はこんなに書けたので、いい作品だったと思っている。3ヶ月間楽しませてもらった。これからも、作品を見て感じたことを、Twitterにも、ここにも、書いていくつもりだ。もちろん、自分もそういう作品を作っていきたいと思っている。