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六月の開発局

「業界の人」じゃないよ

ラ・ラ・ランド を見て考えたこと

感想ではない。ほとんどポエムである。

同僚のミュージカルが好きそうな人物に「ラ・ラ・ランドを見たか?」ときいたら「みたよ。ミュージカル好きだから楽しみにしていて、初日に見た。つまらなかった」と言われた。「豊住も見て、感想聞きたいから」と言われたから見たのではなく、先日、シン・ゴジラを見たときに予告編を見て、撮影が良さそうだし主演のおねえちゃんも気に入ったので品川のIMAXで見た。DOLBY ATOMOSの劇場で見た方が楽しめると思う。

そもそも、ミュージカルというものをほとんど見たことがない。完全なミュージカルで見たことがあるのは、ウエスト・サイド物語の冒頭、サウンド・オブ・ミュージックの一部、それからヘアスプレー、学校の音楽の授業で見せられほとんど内容を覚えていない(確か黒人の女の子がデカい家で働いてトントン拍子に出世して舞台に立つ話だったはず)アニーぐらいである。歌詞を覚えているミュージカルなナンバは映画クレヨンしんちゃんブリブリ王国の秘宝の「ああ果てしないジャングルの中で」しかない。「私のささやかな喜び」もミュージカルと言えるかもしれない。そんなんだから雰囲気とイメージしかない。

見終わってなんとなく同僚がつまらないと言った気持ちがわかった。繰り返すがミュージカルという形式にはイメージしかない。それでも、ヘアスプレーの「You can’t stop the beat」のようなクライマックスの最高に盛り上がるナンバーはなく、演奏であることには違和感を覚えた。

ラ・ラ・ランドの冒頭は実にミュージカル、という感じだった、突然歌い出し、歩きながら歌い、華麗なカメラワークとダンスが広がり、周囲の人物もショウを形作っていく。

なのに、なぜこのクライマックスは演奏なのか。そこから少し考えたことを書く。

繰り返し念のために書いておくが、これは考察でもなければ、監督をはじめ製作陣の意図や思想を想像するものでもない。ただ「こう捉えることもできる」というだけの話だ。

この作品の最大の意外性はもちろんセブとミアが結ばれないことにあるだろう。ここを取り出して秒速5センチメートルと同質であると評価する人がいるが、僕はまったく違うものだと感じた。秒速5センチメートルには顔に恵まれた主人公が、自ら失態を繰り返してあらゆる物を失い落ちぶれていく、僕のようなスクールカーストの下位に位置するブサメン非モテにとっては胸がスッとするような爽快感と同時に、今まで幸せになることしかなく感情移入できない作品しかなかった青春アニメ、例えば前年に公開された時をかける少女なら真琴に感情移入なんかできず、高瀬の気持ちがよくわかる「俺たち」がかろうじて感情移入できるアニメを作ってくれた、という喜びがあった。これが秒速5センチメートルの特異性であり、新規性だ。ところが、本作にはそういったものはなく、セブもミアも成功を収めている。

成功を収めているのに上手くいかなかった、と捉えることができるのは二人の仲だ。クライマックスに描かれる「もしも」の世界に歌のない曲が奏でられることには何かの意味があると考えてよいだろう。

二人の仲を隔てる最大の要因は「パリ」だ。大西洋によって二人の仲は分断されてしまう。僕はロサンゼルスにもパリにもいったことはないので、大西洋の広さというものをあまり感じたことがない。ほとんどの映画は飛行機で軽く飛び越えてしまい、その搭乗時間がどれほどかもわからないからだ。

なにかその距離感を感じられる作品はないだろうか、と思いを巡らした時、思い出したのはトニー・カーティス主演の「グレート・レース」だ。

こち亀でパロディにもされ(コミックス第67巻収録、ザ・グレイト・レースの巻)、おそらく両津勘吉絵崎コロ助教授の元ネタは同作の悪役「フェイト教授(文字通り、悪さをしようとする度にひどい運命によりひどい目に会う)」であろうと想像できるこのコメディは、トニー・カーティス演じる主人公(金持ちであらゆる乗り物を乗りこなし、冷静沈着、つまり中川圭一である)とフェイト教授が、ニューヨークからパリへ向かう「グレート・レース」に出場し、その珍道中を描いた作品である。

彼らはお互いの相棒に加え、女性の権利を主張する女新聞記者(全身ピンク、男勝りなつまり秋本麗子である)とともに南極を経て大西洋を渡り、ロシアを経由して中欧の謎の国で政争に巻き込まれて壮絶なパイ投げを繰り広げ(絵崎コロ助パイ投げを習得しており、両津に圧勝し「リーチの長さが違う」と豪語する)、パリへと向かう。要はアタマ空っぽ、薄っぺらで楽しいコメディだ。ラ・ラ・ランドの冒頭で歌われた「テクニカラーで彩られた世界」の一つだといっていい。

けれども、こんなコメディが今作られることはないだろうな、と思う。キャラクタは皆ステレオタイプ、ただバカをやり続けるだけの話だ。中欧の国の描写など、今ではできないと思う。僕はあまり映画を見ないので、詳しくないが、こういった作品の予告編も見た覚えがない。

ラ・ラ・ランドの中盤、セブとミアがプラネタリウムで踊る時、周囲はおそらくコンピュータグラフィックスで描かれた美しい銀河になる。あのロサンゼルスの夜景を見下ろすマジックアワーも輝いている。

ところが、理想の世界であるべきはずのクライマックスに描かれる「もしも」の世界では、星ではなく電球のようだし、パリは絵である。物語は明るく楽しく夢があるのに、それを支える背景は明らかに手が古い。

ラ・ラ・ランドを作るためには、セッションが必要だったという(僕は見たことがない)。誰も知らない歌の流れるミュージカルなんか作れないからだ。勇気を持って新しい作品を作ることがハリウッドにはもうできなくなっていて、求められるのはあらゆる作品のいいところを組み合わせたインドミナス・レックスのごとく怪獣のような映画になっているのではないか。もちろん、それが悪いとは言わない。僕は黒澤明のように「カツカレーの上にハンバーグを乗せて卵でとじた映画」を作りたいと心から思っている。

けれども、ハリウッドの優秀なスタッフなら、まだ誰も見たことのない組み合わせ、誰も試していない食材で美味しい料理を作れるし、そういった料理も並べられることがハリウッドに「多様性」をもたらすのではないのか。声高に多様性を叫び、映画のキャラクタの設定に拘るのに作品は固さを求めていってしまっているのではないか。背景のコンピュータグラフィックスは確かに映画に臨場感と現実感を作るために進歩しているかもしれないが、テクニカラーで彩られた世界、憧れた夢の世界、ヒーローがヒロインと出会い、お互いが高め合って結ばれる単純で薄っぺらで軽い幸せな物語を作ることはもうできなくなってしまった。別に電球バレバレの星空だって、絵に描いたパリであっても描けた素敵な夢の世界なのに、その魂の部分はもうない。ジングルベルと自分の演奏したい曲を100対0で演奏しなければクビを切られる。

それを口にすることははばかられ、だから歌のない音楽と映像で叫び伝わることを待つしかない。成功しても、何かが欠けているーー

正直、IMAX料金を払って見るような映画ではなかった。ただただ退屈で、エマ・ストーンが好みのタイプなので彼女の姿を眺めること以外にすることがなかった。ただクライマックスのシーンが奏でられはじめた時に「ああ、こう捉えればなかなかの傑作だな」と思っただけだ。だから、今書いたことに間違いがないかすり合わせるためにもう一度映画館に行こうとは思わないし、衛星放送で何シーンか録画するだけだろう。影響といえば、その日の夜の夢は昔好きだった女の子が二人も出てきて、片方には無視され片方には食事しながら苛烈になじられ、こっちも言い返して言い争いになる内容だった、ぐらいだった。

自分の趣味に合わない映画なんかたくさんある。けれども、その映画の価値を見つけ出すこと、作り出すことは自分でできることだと僕は思っている。どんな映画にだって輝く一瞬があるはずだ。そういうものを見つけ出せば、映画はもっと楽しくなるだろう。それを教えてくれたのは、今春、幕を閉じる日曜洋画劇場で解説を担当していた淀川長治だ。

もう一度書く。監督をはじめとした制作側がそういう意図で作ったとは一言も言っていない。映画を観ることは、監督の意図を当てるゲームではないと僕は考えている。