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六月の開発局

「業界の人」じゃないよ

ひるね姫:感想(約1万2千字)

はじめに

火曜日はシン・ゴジラBlu-rayが到着するのでさっさと帰宅して見たかったのだが、興行がコケて平日夜の上映がなくなると会社帰りに映画館によってTOHOシネマズの割引日に見られなくなる可能性があり、かといって通常料金で見るとハズレだったときのダメージがデカいので、昨日「ひるね姫」を見てきた。

とてもよかったので感想を書く。なかなか評判がよろしくないのだが、よくできている。神山監督の作品としては最高に出来が良いと感じる。感想を一言で言い表すなら「僕が思っていた神山監督の作品の嫌いなところがない作品」だ。細かく書こうとしているので、前フリが結構あるので、一番良かったところを知りたいのなら「ソフトウェアの映画」まで飛ぶといい。

いつものことながら、作品解説でも評論でもない。感想である。僕個人が見てどう思ったか、僕個人が自分の経験と重ねたり境遇に連ねたりして思うところを書いている。

それから、一回しか見ていない。何度か見たいのだが、今はグラスリップの感想と映画の脚本と小説と新幹線の記事と演技の技術解説と撮影技法の本を書いており、ビルの爆破のためのモデリング作業とコミケのためのお絵かきとそれから積んでいるガレキを作ったり部屋を片付けたりいろいろやることがあるし、シン・ゴジラBlu-rayまだ本編しか見ておらず、さっさと特典も見たいので今のところ2回目に行く余裕はない。ので、記憶違い事実誤認等あると思うが勘弁してほしい。あまり時間がないのでロクに推敲もしていない。例によってほとんど行き帰りの電車の中で書いた。

例によってネタバレ全開である。あと「とある映画に対するアンチな思い」が充満しているので心が狭い方や「飲み会でケタケタ笑いながらしゃべっている」のイメージが理解できない方は帰ったほうがいい。では始めよう。

神山監督の嫌いなところ

いきなり監督の嫌いなところを書き始めるのは感想だから許される。たぶん。念のため書いておくが「嫌い」なのであって「間違っている」のでも「悪い」のでもない。ひるね姫の話は先の「ざっとまとめて話すと」からメインになるのでお急ぎの方はそちらへどうぞ。

僕は神山監督の作品はミニパト攻殻機動隊S.A.C.三作、東のエデン、それから009RE:CYBORGを見たことがある。

僕がミニパトを除くこれらの作品の中で共通して嫌いなところを次に述べる。

まず、ヒロインだ。神山監督の今までの作品のヒロインはどれも共通してヒロインが嫌いだった。いっつまでも男を小馬鹿にしたような態度を取ってイキがる草薙素子、ぐだぐだやってて好きでもない男に思わせぶりな態度を取っていいように扱う森美咲、色ボケとしか思えない上に下着の趣味も体形も行動もババァくさいフランソワーズ(まあ実年齢ババァなんだが)、どれもヒロインとして認めがたい連中ばかりだ(田中敦子さんは好きです早見沙織さんも好きです斎藤千和さんも好きです)。

次に、延々と政治的信条や最近の情勢についての知識を披露するための設定やキャラクタが嫌いだ。「はい監督はお詳しいですねありがとうございました誠に結構なお考えだと思います次に行ってくださいまし」と言いたくなる。何より、神山監督の特徴として最新の技術を作品に取り込む、という点が挙げられるが、その取り込み方が、学部四年生がやるような「僕はこの技術を使ってみたいから研究テーマを定めました!」みたいな感じで、作品の根幹にならないところが嫌だった。

わかりやすい例だと東のエデンシステムだ。「いろいろARでタグ付けして楽しいのはわかった。でもお前が描いてるのは既得権益に対する反発からのこの国の革命に英雄は必要ないんだというシン・ゴジラの元ネタだろ!どこにそのARが必要なんじゃい!」と思ってしまう。押井守監督作品にも信条や思想を滔々と語るキャラクタが登場するが、それはその思想が作品の中心であるから僕は受け止められる。現代の日本における戦争ってなんなのか、という映画において現代の日本における戦争を描いて現代の日本における戦争について語るキャラクタが登場する。攻殻機動隊フチコマは出さない。ところが東のエデンの場合、既得権層に反発する連中の話に全く関係のない技術が登場して、描かれるのはテロだかクーデターだかよくわからないシミュレーションゲームじみたことと自分探しの旅みたいな話で、キャラクタは好き勝手この国がどうのなどと話しているから、どこを真ん中に据えたらいいんだ、と僕は捉えてしまう。

それからエンディングのダラダラした感じが嫌いだ。「9課は壊滅してみんな逃げました。それから、二人でホテルにしけ込んで…トグサはうだうだ喋りながらAパート使い果たして…そこいらんわ!さっさと図書館行けや!」となってしまう。009も宮野氏が「神よ!」とか叫んでて狂気のマッドサイエンティストにしか見えねえなもうお終いかなと思ってたら延々とお話が続いたし(このときはだいぶマシになってた。念のため書いておくが神山監督以下スタッフも悪くないし宮野氏も何も悪くない良い島村だった)、「お前なんでうまく夜明けにして午前の激しい日差しの中に咲ちゃん飛び出して愛する滝沢くんを捕まえたのに、一生懸命映画一本かけて夜が明ける様子を描いたのになんで夜に戻すんや!」ってなっていた。

が、このひるね姫は違う。ヒロインは正直予告編を見たときブサイクだから「なんでこんなもんにしてもうたんじゃ……夏希先輩みたいに黒髪ロングで肩紐白ワンピ着たりお願いとウィンクしてくれるようなテンプレ女の子がワイみたいな30近い童貞は好きなんや……なんでわからんのや……」と思っていた。が、ココネ、見たらわかるがめっちゃいい子である。育ちのいいフリをして他人の財布から金使い放題やりたい放題で悪びれないどっかの女子高生とは大違うわこら何をするやめろ。

この作品は自動運転車が鍵になるが、この技術は作品が描いている「ソフトウェア」にしっかり合致する。この作品はソフトウェアのお話なのだ。

クライマックスを終えると、あっさり時間を立たせて何があったか最低限の情報をテレビでざっくり説明、めでたしめでたしなワンシーンをさらっと描いて、感動のエンディングへと雪崩れ込んで行く。

僕にとっては神山監督の嫌いなところが全部なくなっていて、大変よかった。

タチコマについて

神山監督というとどうしても攻殻SACになってタチコマの話題になるし、この作品は僕の見立てではタチコマの演出についてのもう一つの回答になるので、タチコマについて書こう。

結論から言うと僕はタチコマというキャラクタは可愛いと思うが、その描き方は嫌いだ。なぜなら人工知能を描こうとしてやれているのは「はい人工知能を描いてますよ」「はい可哀想ですねここで泣いてください」と言わんばかりのものだからだ。

第1シリーズのタチコマ御涙頂戴回も白けていたし、「手のひらを太陽に」も受け付けなかった。人工知能としてのタチコマを描くなら、こうして欲しかった、というのがひるね姫にはある。

神山監督の魅力とは

じゃあ僕が神山監督の作品で好きなところ、もしくは監督の尊敬できる点はどこかというと、時折見せてきたスパッとキレるような場面である。

攻殻SACで言うなら、やはり笑い男の初登場の衝撃は忘れられない。強敵の登場方法というのはいろいろあるが、僕が愛する名画「ダークナイト」のヒースレジャー演じるジョーカーでもあれほどの衝撃を持った登場ではなかった。平面に投影された笑い男のサイン、他人をハッキングして登場するそのやり口、完全に優位に立っていることが記号的でなく自然に紡ぎ出される台詞回し、音楽の使い方、全てが見事だった。自分が悪役を登場させるならこの水準に達したいと思わせるものだ。

そこの前振りであるインターセプターの使用が発覚する場面も見事だ。なんの変哲も無いプライヴェートショットに隠された恐るべき事実が暴かれて行く様は見事なものだった。

他にもアームスーツとの最初の戦闘の時間の長さを動かしてしまうような緊迫感の演出、HAWに対して勝ち目がないことを説明する剣菱の役員の言葉に宿る将棋で強敵に確実に詰められており自分の玉将に生き延びる手がないことを強制的に理解させられるような恐怖、ゴーダの暴言に反論するバトーの熱い魂や、そのゴーダが終わりを迎える時に現れた「奴ら」によって描かれる「彼の国」の恐るべき強大さなど、素晴らしい場面の構築技術をもって一瞬で時間を引きつけて輝かせるようなことを神山監督はやってきた。

全裸の王子様を捕まえてワシントンの街を駆け抜けるときに物語の始まる予感がしたし、水上バスに飛び乗るときには恋の予感があったはずだ。咲の悲しい告白に持つべきものの義務で答える滝沢に憧れなかったと言ったら嘘になるだろう。森タワーの屋上から飛び降りて行くときの流れるような映像と音響の連動によってゼロゼロナンバサイボーグが描き出す新たな戦いの予感に心を躍らせたし、3D立体上映の利点を僕が知る限りあらゆる映画の中で最も生かしたラストの水面周りはまさに神秘体験を作り出していた。僕が神山監督の作品を観るのはこういったキレ味の鋭いカミソリのような場面を期待しているからだし、尊敬しているのはそういう引き出しを持っていること、出してくることだからだ。

そんな神山監督の作品の中でも最高の流れだと思っているのは前述した東のエデン劇場版IIの「夜が明ける」ところだ。方々で書いているが、このシーンは本当に見事だ。物語もストーリィもドラマも夜明けを描いていて、美しい絵も夜明けを描いている。この演出を上回るものはほとんど見たことがない。作品が全力で何かを表現する、というのは簡単だが、ここまでやりきった作品は稀有なものだ。映画のすべてが夜明けというものを表現している。ひるね姫を観た後もその輝きは変わらないが、ひるね姫にはそんな監督の良さがたくさん詰め込まれているのでそれを記しておきたい。

「映画は全体である」という面もあると思うし、なんとなくよくわからなくてこの作品に落第点をつけてしまう人もいると思う。けれども小さな描写を読んで行くことで「アニメ映画のひるね姫」を楽しんでほしいと思うのだ。

ざっとまとめて話すと

ひるね姫という映画をぼくは「技術の映画」そして「ソフトウェアとは何か」というお話だと思った。

技術の映画であることは一度見ればわかると思うので、ここではソフトウェアについて書く。

ソフトウェアの生物性を描いたのが攻殻機動隊だが、ひるね姫においても親子三代の物語としてその部分が描かれる。

が、そこは作品全体を通して描かれていることではないと捉えている。最後にまた書くが、先にちょっとこのことを覚えていてほしい。

あと、ストーリィの語り口の上手さについてはパンフレットで作家の上橋氏が見事に語られているので、それを読んだほうが良い。

説明しないこと

僕は説明しないアニメが好きだ。昨年夏に発行した同人誌にいろいろ書いたが、最低限抑えるべきを抑えておいて、「あとはまあわかるでしょ」という態度の作品が好きだ。

ひるね姫はかなり説明しない方のアニメで、ここでこういうセリフを言わせておけばわかるよね、ここにこういう映像を挿しておけばわかるよね、という具合でストーリィを走らせていく。ここで脱落してしまう人がいるかもしれないが、ちゃんと描いてある。描いていないのは「昼寝とはなんだったのか」だけだ。

でもそれは映画の大きなファンタジィの部分であって、細かい部分は何度も正確にトレースしたわけではないがまとめられている。

日差し

本作でも夏の日差しは健在だ。

色々な場面があるが、特に印象に残ったのが警察署のシーンの外の陽射しと、サイドカーが帰還したあとのガソリンスタンド付近の日差しだ。

夏の日差しの描き方についてはいろいろあるが、本作もまた新しく良いものだったと思う。

階段を降りる

さて、映画が始まると、ココネが階段を降りてくる。この時、最後の数段をココネが飛び越えている。これは親父が作業テーブルとして使っているからだ。

このワンカットで親父が生活のことなどロクに考えていないちょっとズレた人間だということがわかるし、ココネもそんな親父に慣れきっているということがわかる。

そのあと様々な形でそれが描かれるが、大切なことは細かい描写を積み重ねてどういうものかをしっかり観客に伝えることだ。

よくあるミスとして、最初の方にちょっと描いた伏線をあとになって大々的に回収して作り手からしたら見事な作りなのだろうけれど、観ている側の大勢からしたら唐突すぎてわけわからない、というものがある。そういう事態を回避するためにひるね姫は3つの策を講じている。こういう細かな描写はそのうちの一つだ。二つ目はわかりやすく描くこと、三つ目は軽い伏線を軽く回収して慣れさせることだ。後で出てくる。

また、この動きを難なくこなしているココネの運動に関する制御ソフトウェアの良さがわかる。バランス感覚が良いのだ。これは後半の大アクションにおける伏線だ。

飛び乗る動き

ひるね姫の魅力の一つがアニメ作品としてのレヴェルの高さだ。僕はこの部分を見に行ったのだが、期待に違わない出来だった。

一つ目にあげるのはエンシェンがサイドカー(ハート)に乗り込む時の動きだ。人間が飛びのろうすると、ああいうふわっと飛び乗る運動はしない。あの動きをするにはハンドルをしっかりと握り、相当力を込めて身体を押しとどめていかないとベタッと落ちてしまう。つまり、嘘っぱちの動きである。

が、その嘘っぱちの動きが気持ち良い。良いアニメートだと感じる。もちろん、夢の中だから気持ち良さ優先と捉えても良いだろう。

それから、エンシェンの運動能力の高さ、つまりイクミも運動能力が高いということがわかる。

自動運転車のディスプレィ

モモタローが老人に自動運転車をセットアップしてやる場面には二つの見所がある。

まず見せ方だ。目的地を設定しているときに、まだカーナビの説明が必要な老人がいるんだな、となんとなく捉える。老人が右に座っているから運転席についていることがわかるが、ハンドルが自動で切られるのであれ?っとなるが、今度は外から老人が運転席についていることが再び描かれるので、やっぱり運転してるのか、となって、モモタローのセリフで自動運転であることが確かになる。なるほど、カーナビの説明ではなくて自動運転の説明だったな、ということがわかるわけだ。

軽く伏線を引いて軽く回収していて、そのことによって伏線を張って回収する作品だと観客に慣れさせていく、という二つの作用があるし、もちろん自動運転が認可されておらず一方でモモタローはそれを持っている、という伏線の張りどころにもなっている。

また、ここで登場するシステムの画面デザインが非常に良い。今までこういったディスプレィは妙に洗練されすぎていて「なんで無骨な業務用システムなのに色数豊富で線にアンチエイリアシングがかかっていて、グラデーション彩色までしてて、アニメーションは無駄に滑らかなんだ」と思うことが多かったが、色数少なく実用一点張りのデザインで大変よかった。まあ、今ならAndroidあたりに雑にコンポーネントをペタペタ貼り付けたインターフェイスになるんだろうが、まあそこらへんは目を瞑ろう。

ココネの投球モーション

掃除をサボって逃げ出そうとする男子生徒たちに、ココネは何か投げつける(何かよくわからなかった)。ココネの身体能力の高さ、特に足腰の強さが描かれるシーンだ。

野球をやったことがないとわからないかもしれないが、足腰が強くないと芯が定まらないので、遠投したときに自分の振る腕の遠心力に煽られてコントロールが定まらなくなる。肩の回転による角速度は人体の中でもスピードが出る部分だから、その遠心力はかなりある。移動予測をしながら投擲に入ってあのコントロール、ということは身体能力が高いということがうかがえる。

さらに、時をかける少女の真琴は「女投げやめろよな」と注意されていたように、肘で投げる女投げである。対してココネは肩で遠投する本格的な投球姿勢であることにも注目したい。

また、ココネのように身体の軽い女の子はタイミングを合わせるとよりコントロールが安定する。ああやって助走をつけているときは特にそうだ。ココネは投球モーションに入る前に片足でつっかけてリズムを取る。見事な作画だ。

鴨居の低さ

渡辺が森川家に入ってきたところで顕著になるのが、森川家の鴨居や天井の低さだ。高度経済成長期あたりに建てられた家の中にはまだこういった作りの建物がある。

長いこと使っていたことが感じられていて良い。自動運転装置のディスプレィと同じでデザインの良さがある。

足音

渡辺が森川家に侵入したとき、ココネは足音で自分の存在がバレかける。その後高松空港でジョイ奪還を目指す時にはバレないように靴を脱いで接近する。

これも軽く伏線を引いて軽く回収しているし、さらにココネの「知能」水準を見せている。前に起きた事象から次に起きる事象を予測して、さらに不本意な結果にならないように事前に手を打っているわけだ。

田圃の夜

二人が逃避行して社で夜を明かす時、ココネが畦道に立つ姿を遠くに捉えたレイアウトがある。明かりのない夏の夜に星空が見えてとても綺麗だ。この空気感はこの写真を撮った時と同じなので「ああ、やっぱりいいよな」と思った。素敵な絵だった。 f:id:TOYOZUMIKouichi:20170213223259j:plain

かな入力

社でタブレットからSNSに書き込んで連絡が取れるかもしれないと思ったココネが書き込む時、ココネはかな入力を行なっている。ここは、他のシーン、つまり志島自動車を知らないとかいったことと合わせて、ココネの「知識」水準を描いていると捉える「こともできる」。ココネはおそらくローマ字を覚えておらず、かなでしか入力できないのだろう、というわけだ。そう読んでおくと後でおもしろくなるのでそう読んでおこう。

他人の財布

モリオが新幹線に乗る金がないと言ったココネに対し、渡辺の財布から拝借したらどうかと提案するとココネはそれを否定する。他人の財布に手を出してはいけないという「良識」や「規範」がココネの中にあるわけだ。ここも抑えておきたい。

マルス

新幹線に乗りたいと書き込むと、JR西日本の職員がやってきて、ココネにマルス券を渡してくれる。このときマルス券がアップになるがC席である。東海道新幹線を二人で移動しているのにC席を割り当てる、ということはグリーン車を手配してくれた、ということだ。実際、二人はグリーン車に乗車する。

グリーン券かどうか見ればいいじゃんと思ったあなた、その通りである。僕がグリーン券の表記があったか覚えていないのは、昨年の夏に3人がけを山側に設定した東海道新幹線というとんでもない映画を観てしまい、どちらに座るのかが気になったからである。

「金にある程度余裕のある人間だな」ということがわかるし、ココネに対して本当に好意的な人たちか、もしくはかなり悪辣な罠であることが予想できる演出である。

幕の内弁当

乗車して腹が減ったココネはまたSNSに書き込んで弁当のデリバリィを受ける。これは新幹線のチケットを入手したことによって「前例」を得たココネが「知能」を発揮するという伏線回収シーンであり、伏線の新規設定でもある。

どんな育ち

渡辺に対し、ココネはどんな育ちをしているのかと非難する。ココネのオヤジは元ヤンでココネも徹マンするような女子高生でまったく良い育ちではない。やり返して盗ろうとは思わない。

字面通りに捉えるなら大企業で役員に上り詰めている渡辺の方がずっと育ちは良いだろう。

が、ココネはここまで説明してきたように、「マトモ」である。盗られたもんは取り返すが、だからと言って報復するような捻じ曲がった根性はなく、ただ謎をときに行くだけである。ここも抑えておきたい。

走るココネ

ココネは走る。この走るシーンは見事な作画で「あ、多分カリスマの担当はここだな」と思っていたのだが、本当にそうだったらしい。

走りは難しい。望遠平面投影横位置ならともかくこんな3Dガイド合わせでアングルもパースも変化するところに人間らしい動きを載せるのは神業と言って問題ない。

作画も見事だが、ここでも伏線が回収されている。前半に描いてきたココネの運動神経の良さが現れているわけだ。

スジと配慮

ココネは終盤、着地後にこっそり抜け出して「連絡を取らない」という筋を通そうとした親父を捕まえて会長に引きあわせる。これはココネの「こうした方が良かろう」という「知性」による行動だ。べつにそうしろと言われていたわけでも、前にそういうことがあったから学習したわけでもない。ココネの知における性分から「こうした方が良かろう」となったことが想像できる素晴らしいアニメートだし、良いシーンだ。

主題歌とエンディング

まず主題歌について書こう。

僕は昨今の「主題歌悪玉論」に異議を唱えたい。主題歌というものは本当にハマれば良いものだ。僕が最初に感じたハマりきった主題歌は「ガメラ3邪神<イリス>覚醒」の主題歌「もういちど教えてほしい」だ。その映画がどういうものであったか、何を描いたか、つまり主題それを歌にしたもの、それが主題歌だ。 ハマりきった主題歌がエンドクレジットに演奏されれば、映画の余韻をさらに良いものにする。

テレビアニメだと「シュタインズ・ゲート」の「Hacking to the Gate」なんかがこれに該当する。「なんとなく雰囲気があってる」程度ではダメなのだ。「THIS IS IT」が必要なのだ。

ひるね姫の主題歌デイドリーム・ビリーバーは、かなり高い水準で「主題歌をしている」と僕は思えた。

まるで白昼夢を見ているような親父にとってのクイーンの姿が描かれるエンディングに、この曲はふさわしいと思える。

が、あえていう。この映画の最悪のシークエンスはエンディングである。

これほどのアニメータの技倆を見せつけられて、エンドクレジットを追わない気になれるだろうか。その裏で西尾さんの情感たっぷりの原画によるアニメが映し出されているのは悪魔の所業としか言いようがない。そもそもエンドクレジットの時間ぐらいのんびりさせてほしい。ちょこまか細かいネタを仕込んで伏線回収祭りにしているので、情報過多である。例えば親父のバランス感覚が良いことがわかるので、エンシェンつまりイクミの身体能力が高いことと相まって、ココネに運動神経のソフトウェアが生きていることがわかる。そこには攻殻機動隊と同じソフトウェアと生物のつながりが描かれていて、それは後に書く僕が思う本作の最大の見所において大切な役割を果たしているのだ。

賞賛したいのだけど、出来がいいから賞賛すべきなのだろうけど、僕のこの気持ちをわかってほしい。

欠けていること

ちょっとナーバスなことを書いてきたのでここで書ききってしまって最後は良かったことを書いておきたい。

ひるね姫で一番残念だったのは、何かが始まるドキドキする感じがなかったことだ。さらさらと物語が流れて結末にたどり着いてしまったので「映画館に来てすげえ楽しそうな映画がはじまったぞ!」というところが僕には感じられなかった。

去年の7月29日、蒲田くんが大スクリーンに現れたときの衝撃や、新幹線N700系電車が突撃してきたときのとてつもない希望、会社を上がって満員の劇場で夢灯籠を効いたときの「イケる」という感触、前々々世がはじまった時の「新海監督の伝家の宝刀が炸裂するぞ!」という高揚感、そういうのが残念ながらなかった。 確かにビジュアルは素晴らしいし、アニメートも最高なのだけれど、すべてのレベルが高すぎて「おーすごいすごい」「うんうんそれでー」みたいな感じで盛り上がりに欠けたように僕には感じた。繰り返すが感想なので正しい間違いの問題ではない。

だからと言って映画館で観る価値がないかといえばそんなことはない。暗い部屋、大きな画面で隔離されて全てを映画に集中してたゆたう時間は大切なものだし、それに耐えうる強度を持っている。集中し続けないとすべてを堪能できないほどによく作り込まれている。映画館という環境を生かす別の方向で作品が作られているだけの話だ。

ソフトウェアの映画

さて、いろいろ書いてきたが、そろそろソフトウェアの映画としてのひるね姫についてまとめよう。

いくつかカッコ書きで書いてきた「知能」「知識」「知性」「規範」「前例」「マトモ」というキーワードをこうして列挙すれば気付くかもしれないが、これ、自動運転に全部必要なのである。

つまり法律や車の制御に関する「知識」、今起きている事象を捉え用意されているケースに落とし込んで行動に変換する「知能」、なんだかわからないけど生き物っぽいものがいたらそれを轢かないようにするという「規範」、人通りが少ないからといって傍若無人な走行をしない「良識」、「前例」を覚えておいてより良い方向に近づけようとすること、追い越し車線を走行して渋滞で詰まったからといって少しずつ流れている走行車線に割り込まない「マトモ」さ、こういうものが全部揃わないと、ハンドルフリーで自動運転なんかできないのである。とくに問題なのが「追い越し車線を走っている自分が外側になるカーブで内側の走行車線の先に故障車がいたら、並走するまだそれが見えていない車相手に強引な幅寄せをして減速させてやる」というような「知性」である。

もうわかったと思う。この映画、モモタローとイクミによってこの世に生まれたもの、つまり自動運転とはココネ本人なのである。だから親父がハンドルフリーにしても勝手に目的地に行ってやるべきことをやったのだ。そしてそれは子供が大人になっていくということは知を育み養っていくということなのだ。ココネは素性の良いソフトウェアであって、その経緯は夢の中であろうが現実なのかは関係ない、良い結果になったということが重要なのである。自動運転は単なるギミックでなく、作品の芯として、ソフトウェアを育てていくことを描くために作用しているものなのだ。

ここまで書けば僕がタチコマについてどうあってほしかったと思っているかわざわざ説明する必要はないだろう。そういうことだ。

ハードウェア屋がソフトウェア屋に頭を下げる日が来たら

いろいろ書きたいことはあるのだが、すでに一万字を超えており、そろそろ収束させようと思う。最後に志島の会長が喋るこの台詞について書いておきたい。

自動運転が大きな題材であることから、冒頭のシーンを含めてこの作品を日本の自動車業界に対する風刺だと捉えている意見を見ている。否定するつもりはないが、僕は別の話と捉えることができることに気づいた。

肝心な話を書くから、先にしっかり断っておく。「神山監督がそう思っている」と書いているのでもない。「豊住はそう思っている」と書いているのでもない。誰の意見を想定してもいない。これはオタクの楽しみ勝手解釈を披露しあって「なるほどそういう風にも読めるな」と見せあいっこする楽しみのひとつなのだ、とよく理解して読んでもらいたい。

渋滞が続いているから稼働時間が少なくなり、だから日当が下がっていて、常に新しい車に乗り換えることを求められる、というのは線数が多すぎるから作画の生産量が落ちていて、だから作画の実入りが減っていて、常に新しい絵柄に乗り換え続けることを求められている――つまり今のアニメ業界を描いている、と読めると思うのだ。

それで、だ。プログラムを持っている方はちょっと開いてもらいたい。真ん中のページが自然と開くようになっていると思う。左に捲ろう。つまり、助手席の側だ。そこには監督につづいてキャスト陣のコメントが掲載されている。続いて右に捲ろう。運転席の側だ。レビューや解説に続いて、作画スタッフなどのコメントが掲載されている。

運転席の反対側が助手席とされているのは、助手が地図を読んだりして運転を支援するからである。例えば、ラリーなんかだと「世界最高クラスの助手席」が揃っていて、恐ろしい速度と正確さで運転手に指示を与えていくさまがわかる。が、技術の発達で、助手席の仕事はコンピュータであるカーナビに回されて久しい。自動運転は運転席の仕事がカーナビに回されるようなものなのだが、大事なことは地図上における目的地を設定するという最低限の任は人間に任されるということであり、それはそもそも運転席の仕事ではなく助手席の仕事だったということだ。運転手自らがカーナビに入力することは多いが、そもそも地図上で行きたい場所がどこなのか指定するのは助手席の仕事だ。

助手席の側、つまり演技の仕事の一部はアニメでは運転席に変わっている。アニメータという演技者がいるからだ。アニメータが絵を作り、キャストが声を吹き込む。絵をハードウェア、声をソフトウェアと読み替えた上で「その台詞」を聞き直してほしい。

単なる「時代の変化についていけない老人のテンプレ台詞」ではなくなるはずだ。

だから、僕はこの作品がとても良くできている、つまり、いろいろ深読みして楽しめる耐性を持っていると思うのだ。

最後にもう一度書く。神山監督以下スタッフの見解を想像しているわけでもなく、僕の意見を表明しているわけでもない。誤解のないように。「心持ち一つで映画は変わる」ということを伝えたかった。