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六月の開発局

「業界の人」じゃないよ

グラスリップ、再び。そしてP.A.WORKSの良さ。(約9000字)

はじめに

基本的にP.A.WORKSの作品はチェックすることにしている。今期は一期目がP.A.WORKSの作品の中でも出来のよかった有頂天家族2、第一弾花咲くいろはが極めて高い水準だったお仕事シリーズ第三弾のサクラクエストと二作もあって、終盤戦になると制作体力の減少が顕著に露呈することのあるP.A.WORKSなのでやや不安だが、基本的にうれしい。どちらも始まっているが、楽しみに見ている。

今までのP.A.WORKSのテレビシリーズはほとんど本放送でみている。最初に本放送で見たのは花咲くいろはで、それ以前のは当然本放送では見ていないし、明確に途中で打ち切った、泉子さんがどうにも受け付けなかったレッドデータガールと怖そうだから最初から除外したAnotherがある。グラスリップも本放送で毎週見た。だが、グラスリップについては正直わけがわかんねえなんだよこれ、と思っていた。ただ「これちゃんと見ればなんかわかるんだろうな」と思い、最近改めて見直したところおもしろくなったので感想を書く。

先に書いておくが作品解説ではない。だから、百はなんで泣いていたのかとか聞かれても答えられない。未来のカケラとはなんだったのかとか、あの襲われる幻影はなんだったのかとかきかれても知らん。

それから、スタッフインタビューの類はほぼ読んでいない。たとえば、カゼミチアルバムは持っていないから、そこで語られたことなど知ったことではない。まあ、本作の魅力に気づいたので今になって欲しくなっているが。「正解」を望むなら、この文章を読む価値はない。

作品の解釈を書くが、それは僕の個人的な解釈に過ぎないし、皆それぞれが同じであれ違ったものであれ囚われず解釈を持つのが自然な姿だと思う。僕は「作者のひと、そこまで考えていないと 思うよ?」と言われたら「だからなに?」と答える。僕は作品を楽しみたいのであって、作り手の考えの当てっこをする超能力者のゲームに興じたいわけではない。

あと、細かい台詞を再度確認して書いてはいない。もう何周もしているので、大体覚えているから、その記憶に頼って書いている。論文ではない。

典型的な成長物語と定番の手法

どこをとっかかりにして書きはじめたらいいものかわかりかねるのだが、グラスリップというお話は、典型的な成長物語である。そして、その成長物語を描く時に定番の手法を避けたがために、別のやりかたを持ち込む必要があり、それが「定番の手法」を期待していた人間にとっては大変期待ハズレであった、と今は捉えている。だから、問題は期待ハズレであったことであって、別の期待を持ってみればかなり良い作品だということがわかった。

典型的な成長物語、が何を意味しているのかをまず説明しよう。それは「他者や環境によって与えられた条件によって成立していた時間の中で、いくつかの試練を乗り越えていき、最終的にはその時間自体が崩壊することになったが、そこからは先は自分自身で切り拓くものだ」というものである。例えば、P.A.WORKSの作品でもこの形が多く取られている。true tearsは「同じ屋根の下に大変魅力的な少女が住んでいる」という時間があり、その中で隠し子騒動とか乃絵の登場とかいろいろなことがあって、比呂美は家を出ていくことによって時間は崩壊する。そして、乃絵も慎一郎も比呂美も自分自身で先を開いていく、と終わる。死後の世界からかなでは消え去るし、喜翆荘は廃業するし、白浜坂高校は廃校になり、夜見北中学校3年3組はクラスメイトが大勢が亡くなってしまう。だが、音無は前に進むし、喜翆荘の従業員たちは新しい人生の時間を刻み始める。和奏は音大に進み、恒一も先へと向かうことがわかる。

そして「定番の手法」というのは「突拍子もないストーリィを導入してお話の豪華さを確保する」ということだ。デカイ家に生まれて素敵な女の子が同居していておまけに親父の隠し子かもしれない、というのは大分突拍子もない話である。多分、これを読んでいる殆どの人間がそんな異常な家庭で生まれ育ってはいないと思う。自分も友達もすでに死んでいるとか、母親が恋人と夜逃げして親戚の旅館に仲居として放りこまれたり、めっちゃ金持ちの学校に通っていてそこが廃校になったり、自分のクラスメイトがどんどん死んでいったりした人も多分いないと思う。特に最初の例について述べるのならはやく成仏してほしい。グラスリップが意味不明で成仏しきれなかったというのなら、これを読んだら安らかに眠りについてほしい。

作品に求められるもの

「定番の手法」で描かれる「典型的な成長物語」とは、「人生とはかくあるものである」と、未来を生きる少年少女に向けて描かれるものだ。いつか花火を一人で観る日はやってくる、唐突な当たり前の孤独は現れるもので、そのときどうすべきかを描いてやるものだ。P.A.WORKSのアニメってそんなんだったの?と思うかもしれない。これは、歴史的な文脈の話だ。例えば、宮﨑駿監督のスタジオジブリ作品を想像してみれば良い。天空の城ラピュタ千と千尋の神隠しは「定番の手法」で描かれる「典型的な成長物語」で、宮﨑駿監督本人が「男の子のため」「女の子のため」と言っている。ある時好きな女の子を特務機関の少佐に拉致され手切れ金を渡されたとき、その唐突な当たり前の孤独に君はどう立ち向かうべきなのか。両親との言葉が通じ合わなくなったときどうすべきなのか。そしてその中で見つけた海賊一家や風呂屋の従業員たちとの関係もいつか喪失してしまう日が来るんだ。そのあとも進むんだと伝える、「そういうもの」なのだ。

さて、その宮﨑駿監督が2013年の引退会見のときに「この世界は生きるに値するんだ」と言ったこと、それを仕事の根幹にしていることを覚えている人はいるだろうか。調べればすぐ出るが、確かにはっきりとそう言っている。そこでちょっと宮﨑駿監督のフィルモグラフィを想像してみてほしい。彼が描いてきたのは常に「ここではない理想的などこかの世界」ではなかっただろうか。結局彼は「この世界は生きるに値するんだ」ということを描けていない、そう捉えることはできないだろうか。それはつまり「定番の手法」における「突拍子もないストーリィ」を作るための設定が、つねに「ここではない理想的などこかの世界」だったということである。

「定番の手法」はお話に観客を引き込み、興味をもたせ、快感を与えることで、満足感をもたらす。そこを僕らはグラスリップに期待していたはずだし、それはほとんどすべてのアニメ作品がそうなのだ。多分、カゼミチに集った6人の恋愛闘争や、未来のカケラの真相がわかる、といったものを望んでいたと思う。

ところが、グラスリップは、「ここではない理想的などこかの世界」を極限し、「定番の手法」を可能な限り薄め、それでもって「典型的な成長物語」を描こうとしたのである。だから僕らは期待を裏切られたと感じたし、そのショックから作品が本来描こうとしていた成長物語を見出すことができなかったのではないか、と今は思うのだ。

僕らは、映像作品を見るとき、期待して見る。そして、その期待が裏切られると、つまらないと感じることがある。例えば、多くの人は秒速5センチメートルで貴樹と明里が結ばれることを望んで見ていたようで、その結末に納得できなかった、という話をよく目にする。けれども、僕はそれを望んでいたので大変満足したし、逆に君の名は。はあまりに救いがなくてがっかりした。そういう部分だけではないが、人は自分の期待しているストーリィがないとつまらなくなってしまう、ということがあると思う。

未来のカケラに対する過ち

僕は、その薄められた「定番の手法」の中で、唯一残った「未来のカケラ」という単語に惑わされてしまった。それは二つの間違い、まず捉え方を間違ったこと、それからその意味を間違ったことと、一つの想像力の不足によって引き起こされた。

捉え方を間違ったというのは、僕らはそれが殺人事件のトリックのように考えていたが、実際はトトロだった、という話であるる。となりのトトロを見て「トトロとは何だったのか」という説明を求める人はかなり珍しいタイプだと僕は考えている。トトロはトトロである。子どものときにだけ見える妖精のようなものなのだ。そこからその意味や立場を知る必要などない。未来のカケラも「17歳のころに見える未来のようなもの」として神棚に上げるべきだった。でも「定番の手法」であると誤認して、一生懸命「あるべき結論」の捜索に注力してしまったのである。

そして未来のカケラの意味である。これに気づくのがとても大変だったのだが、これに気づいてしまえばグラスリップは大変わかりやすい話である。しかしいきなり未来のカケラについて話そうとすると、ワケがわからなくなるので、主人公深水透子についてまず書いてゆきたい。

深水透子の物語

端的に言うと、深見透子とは「作り手」である。ガラス工芸における作り手でもあるが、もっと大きく「作品」の作り手である。グラスリップの作り手、というわけではない。あくまで一般的な「作品」の作り手だ。そして、それと同時に、深水透子は17歳の女の子であり「典型的な成長物語」における主人公であるから「自分の人生の作り手」である。

また、透子の両親も作り手であったり、かつて作り手であったことが示唆される。「かつて僕はこんな人生という作品を作ったのだ」という自慢話を夕食時に父はしているし、また、母がかつて作品を作っていたことや、父の作りたいという情熱にほだされて透子達を授かる道を歩んだのだ、ということも描かれている。また、陽菜からは、やなぎに服をもらったり、記録を作ったりして自分の人生を作っていく様と先に人生を作っているやなぎへのあこがれや透子への応援が描かれていることがわかる。陽菜は人生の作り手の一人でありながら、その作り手に対するファンや観客でもあるのだ。透子の母はその作り手に対する観客や時にパトロンとして様々な有益無益織り交ぜた意見を与えてくれる。

グラスリップにおける成長物語とは、作品の作り手である深水透子の成長によって描かれていく。それはいわゆる守破離の流れであり、友人たちと築き上げてきた今の環境や関係を守りたいと願っていることから始まる。だから第一話では「高校を卒業したら友達じゃなくなっちゃうの?やだよそんなの」と言うわけだ。「典型的な成長物語」における「時間」を守ろうとしているのである。ところが、その時間を守ろうとした幸の「恋愛禁止」という言葉を衝動に任せて破壊することで人生を前に進め、その結果として互いの忖度で成り立っていたカゼミチグループの危うい関係は崩れ、その甘美な時間から離れていく。確かに「良いことばかりじゃないよ。気づくってことは」。でもそれによって、透子は成長していくのだ。

ハーモニィ処理と蜻蛉玉

さて、作り手には欠かせないものがある。それは、想像だ。自分が何かを作るとき、これを作りたいんだと想像して作っていくのは自然なことだろう。自分の人生なら、あの子と映画に行って、こんな時間を過ごしたい、とか想像するはずだ。小説を書いているのなら「こんなセリフを書きたい」マンガを書いているのなら「こんなコマを描きたい」というように、自分の想像した素晴らしいものがきっとあると思う。だからできたとき「思ってたのとちょっと違う」と修正を施していったり、そこに近づけていくすべてを身に着けていく、それがなにかを作っていくということである。

それがグラスリップだと「ハーモニィ処理」として使われる。ハーモニィ処理は動きが止まって、絵を見せるカットだ。見せたいところだから、そこを止めているのである。

例えば下世話な話、あなたがエロゲーを作ることにしたとしよう。そうしたらエロシーンはあなたの好みの女の子と趣味にあったプレィをするところを絶対に入れるし、一番最初に考えるだろう。例えば妹系の女の子を可愛がるのが夢のあなたが、お姉さん系にしばかれるところを最初に考えることはないはずだ。これがハーモニィ処理で描かれるシーンである。映像作品として思いついた「決まっている」ショット、それがハーモニィ処理で描かれている。

そしてここからが大切なことなのだが、君は森の中で妹系の女の子が可愛くて仕方なくなり歯止めが効かなくなってしまい致し始めるシーンを描いていたのに、やはりするからには乗っかってもらうのもいいな、と思い描いてしまったりはしないだろうか。これが蜻蛉玉である。蜻蛉玉つまり未来のカケラは「これもいいな」というブレーンストーミング状態である。

未来のわたしがぜーんぶ解決してくれますように!

だが、ちょっと待ってほしい。森である。自分が寝転がって女の子にお乗りいただいたら、背中がすごいことになるだろうとか痛くないかとか、相手も膝が痛いだろうとかマムシがでてきたらどうしようとか、終わった後いろいろ拭き取るティッシュもねえなとか、いろいろ考えてしまう。そういうの全部無視したい……。

「絶対に描きたいシーン」のハーモニィ処理と「こんなのもいいな」の蜻蛉玉だけ並べて作品をでっち上げたいのに、どうしてもそのままだと上手くいかない。ので、しかたない燃え上がって行為に及んだわけだけど、おもむろにブルーシート敷くか、みたいなことをやったり「たまたまそこに偶然新品のブルーシートが敷かれていました」みたいにしたり、普通はそうやって妥協する。

だが、グラスリップは一切妥協しなかったのである。それぞれの色が違っても全然構わない、とにかく綺麗な未来のカケラを集めてUHFの電波にのせて夜空にポイっとなげて、花火のようにきれー、とやりたかったのである。その燃えかすが観客に直撃するほど至近距離だろうが、でかすぎて認識不可能だろうが気にしない、そういう態度がグラスリップである。そして、それは「未来のわたしが、ぜーんぶ解決してくれますように!」」だ。

なのでやなぎは全裸で屋内を闊歩したり、競泳水着姿の女子中学生がいきなりチャリできたり、突然季節が冬になったり、転校生の役どころが駆から透子になったり、出会うタイミングがズレたり、百さんが病室から出てきて泣いたりするのである。

人生の物語を描くために

作品の内容と作りを混ぜて書いているのではないか、と思うだろう。混ぜて書いている。グラスリップは作品の内容と作り方が完全に一致していて融合してしまっている。言行一致である。だから、気づかないと本当に意味不明になってしまうのだ。

だって、人生を作っていくって、そういうことではないだろうか。「あの子と付き合いたい」「きらわれたくない」でも「隙あらばヤりたい」。「あの学校に行きたい」でも「ゲームもしたい」。「いいところに就職したい」でも「ゴロゴロしていたい」……。そんないろんな「こうだったらいいのに」があって、それについて「未来の自分」はなんとかするように折り合いをつけていく。矛盾をできるだけ小さく納めて解決していく。

そして、この「こうだったらいいのに」が、想像ではなく「未来のカケラ」というある意味僕を混乱させた、よくない手段を講じて描かないわけにはいけなかった理由もわかる。もし「未来のカケラ」を使って描かなければ、その想像は妄想になってしまい、ギャグになってしまうので流れが壊れてしまうのだ。

グラスリップにおいてギャグは古典的にわかりやすい擬音などと共に描かれる。それは、息抜きのようなもので、しっかり休憩するためだ。やなぎのいう「休憩所」である。なぜなら、グラスリップというアニメは他でもないP.A.WORKSというスタジオが作っている。このスタジオはこの作品に必要な情報をしっかり注ぎ込める。グラスリップの成立には「この世界ではない理想的などこかの世界」ではなくするための「現実感」を実現するための情報量が必要不可欠だ。そして、だからこそその情報量に頭がヤラれないように、休憩が必要だ。エンディングも「今回の情報」を整理するための息抜きの時間だと捉えたほうがいい。

現実感とは、何か

僕は一般的に「現実感」と呼ばれているものを「現実感」と「納得感」に分けて考えている。例えば、僕はシン・ゴジラに現実感があるとは思わなくなっている。僕は首相官邸に入ったことはないし、官僚と仕事をしたこともない。だから、今からそこに行っても、そこに現実感は感じずむしろ非現実感を感じるだろう。僕は、シン・ゴジラの公開当時「東日本大震災を思い出した」という人がたくさんいたのでびっくりした。僕は首相官邸内部の動きなんか知らないから、思い出しようがないし、地震にはあったが津波にはあっていないので、まったく東日本大震災とは関係ない作品として見ていた。よくある「怪獣映画の災害描写」と思って見ていたし、今も見ている。

けれども、シン・ゴジラの登場人物たちの行動や発言がお伽話のように見えるということはない。「きっとこういうことになったらこういうことになってしまって、テレビの向こう側で見ている僕たちにはこんな風に見えてしまうんだろうな」という感覚がある。それは現実感ではなくて納得感だと思う。

僕が現実感と納得感の話をする時、現実感の例として松前緒花の東京北陸間の移動手段を挙げる。緒花は資金を提供されたときは快適な新幹線と特急で東京北陸間を移動する。一方、個人的な事情の時は高速バスだ。そして、仲間とともに行く時は喜翠荘のバンで移動する。東京北陸間でなくても、ある程度の距離を移動する時、こういう移動手段の選択をする、という人は結構いると思う。そういう人にとってはそれが現実感だ。

街を丁寧に描いて、そこにキャラクタ達を迎え入れ、そして現実感のある描写を積み重ねていく、そうすることで「典型的な成長物語」の伝わりかたは強くなっていく。だから透子は「駆くんがこの街に来てくれてよかった」と言うのだ。

P.A.WORKSの持っている力

P.A.WORKSの特徴を語る時に「現実の地域を元にした舞台設定」と「美しい背景」を取り上げる人は少なくないだろう。それは現実感や納得感の補助であり、P.A.WORKSはそれを作ってきた技術と実績がある。現実の写真をそのまま背景にするということではなくて、作品に寄り添うように改変していく確かな技術がある。現実そのままであれば、現実感は生まれるかもしれないが、映像作品としてのおもしろさを失っていってしまう。それを巧みに避けていく歴史に裏打ちされた強い力をP.A.WORKSは持っている。

設定も同じで、すべてが現実的である必要はない。僕だってカゼミチのような溜まり場はなかったし、あんな恋愛に発展するような高校生活でもなかった。でもそれによって描かれたグラスリップの「憧れの世界」は僕らにとって絶対にありえない「ここではないどこかの世界」というわけではないはずだ。それはグラスリップという「典型的な成長物語」が「定番の手法」でなく描かれた稀有な作品としての下支えになっている。そして作品の作りはハーモニィ処理と未来のカケラ、つまりP.A.WORKSが描けるものを精一杯書いて、不用なブルーシートを敷いたりすることなく、夜空に放り投げて花火のようにきれいだと楽しみ、その結論を未来のわたしに託している。だから、グラスリップP.A.WORKS史上最もP.A.WORKSの良さが出た作品だったのではないだろうかと今は思っている。

花咲くいろはの傑作回「微熱」と「プール・オン・ザ・ヒル」にもあった、なかなか深夜アニメではお目にかかれない映画的なゆったりとした時間の流れを作り出す映像技術と、その尊さを評価し、それを許してくれる衣付きの製作が、P.A.WORKSにはある。だから、こんな作品が作れたのではないだろうか。

おわりに

真夏のプールから見上げた空に舞う戦闘機がファントムからイーグルに変わるような、確かな、でも穏やかな違いを丹念に描くことで、「典型的な成長物語」を「この世界は生きるに値するんだ」と描けた作品である、そう捉えてもう一度見れば、きっとグラスリップは輝く作品だと思う。

その少なく幼い台詞や、細やかなふとした仕草、舞台を包む光や風や色からは、高校生活最後の夏の儚い輝きとその喪失、そして僕らが自ら切り開いていく未来が確かにあると思えたら、それはとても素敵なことだと思える。「今度の明後日開いてる?」という現実感のある不自然な問いかけ、「雪くんにひどいことしてるのかな?」という具体的でもさほど深刻でもない微妙な不安、「カッコ悪くならないでください」という拙くしかし切実さの伝わってくる訴え、「僕、帰るね」という大切な人に向けての譲れないラインの提示、「やっぱ、お前と話すと落ち着くわ」という不器用で恋から始まったのではない愛から始まった恋愛につながる言葉、それは「なんでもない」ことかもしれないが、それは大切なことだと思えるかだ。同じ意味の言葉は確かにあるが、違う意味で言っていると思えるかだ。

逆に、そこに価値を感じられないのなら、多分、グラスリップは「合う」作品ではない。

「私って、わかりやすい?」と今きかれたとしても、やはり「そうでもない」と答えてしまうだろう。でも僕は、偶然この魅力に気づいたわけではない。この作品の魅力を「見たいと思ったから見えた」。そして自分が「俺は透子が見たかった」ともう一度思えるなら、ぜひ見てほしい。僕は、本当の透子の美しさ、僕らの生きるこの世界が生きるに値するのだと示してくれた物語の主人公の素晴らしさを伝えたくて、この文を書いている。透子は「なんにもしてあげられてない」と言うのだが、僕らは彼女の人生の物語を見て、それで十分なのだ。そこからどうすべきかは、自分で考えることなのだし、星がないのなら、今度は自分で自分の未来のカケラをつくり、星を作れば良いからだ。

見始めても「お前、なーんも変わらないな」と思うかもしれない。普通そうだろうと思う。けれども、僅かな沈黙の後に、その可愛らしい純粋無垢な表情を前にして「……変わったのか?」と僕は思えた。そういう、作品の内側と外側が柔らかくつながり、揺蕩う快感を得られる、そんな作品だと今の僕はグラスリップを評価している。