六月の開発局

「業界の人」じゃないよ

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?:感想(約3000字:未閲覧者の閲覧はお勧めできない)

夏は残酷なものである。僕らはつい、7月あたりから夏がはじまり、8月にその最盛期を迎えると思っている。けれども、実際は6月の終わりに夏はその頂点を極めており、僕らはその名残を追い続けるしかない。その、純粋無垢な気持ちの危うさを丹念に描いた、割れたガラスの輝きのような映画である。

YouTubeなどでPVをみて、ヒロインが気に入ったので鑑賞しようと思っていた。房総が舞台というのも気になっていた。いつ観に行こうか迷っていたのだが、金曜日の帰り道、どうにも暗い気持ちが剥がれないので空席を検索したら、ど真ん中に一席空いていたのでポイントで見てきた。

なかなか良い出来で、なるほどそう来たか、と感動するようなシーンはなかったけれど、とても感情移入できて優しい気持ちになれる良い作品だった。例えば、ひるね姫と比較した時にアニメとしての楽しみは落ちるし、お話の出来に驚くこともない。けれども、感情や感覚の面で、この域に達した作品はあまりないと思える。

気になっている人もいるだろうから、先に書いておくが、この評で演技について書くつもりはない。第一に、最近、映画を肯定したり否定するために、客観的な評価が難しく印象論で断定可能で反論し難い、演技という評価軸を乱用する人間が散見され辟易しているからだ。第二に、演技については今じっくり考えているところなので、またの機会にしたい。

いつものことだが、一度しか見ていないので、記憶に欠落や間違いがあるだろうし、コミティアの行き帰りの電車の中で書いた。ほとんど推敲していない。ご了承願いたい。

まずはこの映画が何を描いたものなのか書こう。わざわざ書く必要もないと思うが、この映画の重要なシーンは病院で診察を受けるシーンだ。

祐介の父がゴルフの練習をしているが、その球は何度繰り返しても、本を見てやり直しても入らない。つまり「もしも」を何度やったところで行き着く先にあるのは失敗、即ち失恋なのである。それがすべてだ。この映画のまだ序盤とも言えるシーンで結末は暗示されている。

だから、見るべきところは他にある。 それについて、少しずつ細部について書きながら書いていきたい。

次にヒロインについて書こう。この映画はヒロインに頼った映画だからだ。

映画の根幹になるために、及川なずなは重武装で登場する。映画における重武装とは即ち「勝ったことがある」ということだ。

メインウェポンたる容姿は戦場ヶ原ひたぎである。そしてサイドアームである衣装にニーソ制服、白ワンピース、スクール水着そして浴衣と確実にポイントを狩りにいく選択を行なっている。その潔さは好むところだ。

そしてなずなはその登場するすべてのカットにおいていかに魅力的に見せるかを考えられて現れる。海岸に立つ立ち姿が「秒速5センチメートル」の雪原に立つ誰でもない誰か、つまり作中における最強キャラクタのそれであるのを始め、あらゆる場面において構図を確固たるものにする最後の部品として配置され、その重要度を印象付ける。

少年達に比べ、明らかに長身である意味異質なものとして描かれていることも大切だ。価値とはある意味希少さだからだ。その価値を描くために必要なことを全てやっている。

そして最も大切なのが、一枚岩ではない、ということだ。つまり、なずなという女の子は「誰が好きで性格はこうで、覆い隠しているが本当はこうである」といった、アニメキャラクタ的なはっきりとした正体が描かれないということである。なぜこれが大切かというと、それはこれが片想いと失恋の作品だからである。これが両思いであったり、そうなる作品であるならはっきりさせる価値もあるが、これはそうではない。

「女心がわからない」という言い回しがあるが、この物語においてなずなはわからなくなることで「できるだけ多くの人の片想いだった人」になるための足掛かりを作っている。はっきりしすぎたキャラクタは「こいつはあいつじゃないよね」と断絶を生み出してしまう。様々な断片を見せることは、キャラクタの現実感を高めると同時に、存在の余地を生み出す。それは同時に、作品の主線である「もしも」の可能性を喪失させる。

そもそもは「もしも」自分が勝っていたら、と始まっているのだ。ヒロインが固定されていては話が始まる余地がない。

この映画はなずなに映画に割ける全資源のうちのほとんどを割り振っている。豪華さを担保する衣装から、考えの余地まで。だから、残りの部分は可能な限り簡略化されている。これで他を複雑にすると、映画は容量超過になり、見るのが困難になってくるからだ。根幹に全力を尽くすという態度もまたこの映画の良さである。

以上の二点でほぼこの映画は終わりである。重武装のヒロインを相手に描かれる、失恋の結末を持った「もしも」の映画だ。

中盤から典道は何度も「もしも」を繰り返し、失敗をキャンセルして物語を先に進めようとする。

あの時レースに勝っていたら、あの時パンチを躱していたら、あの時見つからなければ……。

この「もしも」は奇跡でもなんでもなく、失恋の後悔が生み出す妄想に過ぎない。そして、にも関わらず、彼は中学生で、彼女をあまりに尊く見過ぎている。だから、一線を超えるどころかそこにまでたどり着くことすら叶わない。彼女は自分に好きとは言ってくれないだろうと諦めているし、彼女の働き方も線の手前側にあり、彼女のその尊さだけで稼げる仕事としてアイドルを思いつく。もちろん、彼にとって彼女は偶像だからでもあるが。

彼女を追い詰める状況が僕と彼女の距離を阻めてくれたら、そういう想いでしかし確実な終わりの時へと妄想は紡がれていく。でも、だからこそ、儚く美しい。僕は二人の逃避行とそのときに2人の心が通う様子を見るとき、天体のメソッドのエンディングアニメーションで、ノエルが満面の笑みを浮かべてVサインをする様を思い出していた。

典道は彼女と東京に行くことができない。なぜなら、列車は館山もしくは銚子に向かっているだけでなく(千葉県と考えたとき日の方向からすれば内房線で館山方面、海の位置関係からすれば銚子方面である)、トランクを喪失したなずなと祭りに行くつもりの典道にはおそらく路銀がほぼないからだ。どうしてもやってくる改札を突破することができない。たとえ誤乗扱いにより改札内で銚子や館山での方向転換を成功させたとしても、東京駅等での自動改札を犯罪によって突破しない限り二人に東京に逃げる未来はないのだ。尊い彼女の尊さを守らなければならないのだから、彼女に罪を与えるその選択肢はありえない。だから電車は母の待つ次の駅を通過せずポイントを切り替え、ここではないどこか二人を受け入れてくれる理想の国へと向かう。

ではどうやってこの終わらせたくない妄想に結末を持ち込むのか。残された課題はそれだけである。

なにか外的要因で終わることになるのなら、それは彼女の手を引く必要がなかったということに等しい。彼女にフラれる終わりはもっての外、自分が見捨てるわけにもいかない。二人がわかりあえる結末が必要だ。それは次への期待のみであり、そのつらい終わりをせめて美しくするために、花火は空に輝く。

僕は、映画を楽しむために、感情移入はいらないと思っている。例えば、僕は実写映画版進撃の巨人を前後編を楽しみ、高く評価しているが、まったく登場人物に感情移入などしていない。

けれども、本作については、感情移入だけで映画を見切ったと言っても過言ではない。自分が失った恋や(正確にはほぼすべての恋を失っている)、その後の「もしも」を想っていた無駄で無意味で無価値な時間と重ねて見ていた。だからその破滅へと向かって行く小さな旅路がより尊く感じられたのは事実だろう。そして救いを感じられたのも確かだ。

「もしも」によって時間を巻き戻せたら幸せになれる、という話はあまりに絶望的である。僕らは何か失敗して失う度にありえない現実になる「もしも」の不在を呪わなくてはならないからだ。そこには、夢も希望もない。だから、好きではない。少なくとも夏休みに映画館で見たい映画ではない。けれども、本作はそうではない。ここには「もしも」を思う愚かさを優しく受け止めてくれる広さがある。

ただ、ひとつだけ、この映画について「もしも」と思っていることがある。

僕はほとんど映画の内容を知らず、上映開始に辿り着いた。だから、この先の彼の「妄想」がどう紡がれるのか、知らずにその次を待てた。彼女が「瑠璃色の地球」を歌い出したときには、中学生だったころを思う懐かしさを抱え、優しい気持ちでその丁寧な歌い方を眺めることができた。

だが、どうやらこのシーン、すでにテレビなどで公開されていた、一部の人間には既知のシーンだったようなのだ。「もしも」僕がそれを知っていて、あのシーンに辿り着いたとしたら、僕はあそこまで映画に浸れただろうか。そう、思うのだ。