六月の開発局

「業界の人」じゃないよ

ダンケルクにはつらさの表現が足りなかった

ダンケルクダークナイトそして鋼の錬金術師のネタバレがあるので、未見の方は読まないでほしい。

ダンケルクはつらい映画だ。とにかくつらい。そしてそのつらい先にふとつらさが抜ける一瞬、ハンス・ジマーの緊張を強いる音楽が途切れた時、なんて無駄なことなんだという喪失感があって、その喪失感が下手な反戦描写よりつらい。

が、ダンケルクにはこのつらさの描写の点で僕の中で高い評価を得られなかった。ダンケルクには、文脈によるつらさがなかったのだ。

僕がクリストファー・ノーランの監督作を初めて見たのはダークナイトだ。僕がダークナイトに感じたのは文脈によるつらさの描写だ。

ダークナイトを思い返してみよう。まず強盗団が銀行強盗を始める。そしてこの強盗団の中で一番強欲で無慈悲な奴がジョーカーだ。これに対して、バットマンは偽バットマンを叩き、優秀そうな刑事と検事が仲間にいることがわかる。難しい戦いになるだろうが、バットマンは勝つだろう。

だが、ジョーカーはここから強烈な攻めを見せていく。まずバットマンをおびき出すためだけに人を殺めていく。人質を取るとかではないのだ。本当に殺すのである。そして殺しづらい人間を殺していく。さらにきっとバットマンと共同戦線を張ってくれるだろうと思えたゴードンをいとも簡単に殺害してみせる。

シン・ゴジラのすごさを岡田斗司夫が語った時、それを「強さを描くにはドラゴンボールを見習えばいい。つまり強いやつを描く。そしてそれより強いやつを描くんだ。シン・ゴジラ自衛隊がものすごく強い。その強さを表すためにこれからものすごい力が解放されるぞ!というのがわかるよう、何重にも政治のレベルから機銃を撃つ安全装置の段階まで丁寧にその力にかかるロックを描き、さらに全弾が命中する。それでも死なないからゴジラは強いというのがわかるんだ」と説明していたが、同じことをダークナイトはやっている。バットマンやゴードン、そしてデントの強さ、巨悪に屈せず身の危険を顧みない勇気をしっかり描き、そこに対して、はるかに上回る策略と暴力でジョーカーが襲いかかるから、ジョーカーの強さがわかるわけだ。だからこそ、ゴードンを失った時に、僕は「つらい」と思ったのだ。これが「文脈によるつらさ」だ。

これは鋼の錬金術師ロイ・マスタングがマリア・ロスを殺害した時も同様だ。そこに至るまでの経緯があるからつらくなる。いきなりマリア・ロスが殺されても何のダメージも受けなかっただろう。なんでもない人物をただいきなり殺されてもつらくならないぐらい、僕は創作物に慣れきっている。現実の世界と空想の世界は別物だからだ。いきなり空想の世界に自分を現実と同じように合わせられたら例えばファンタジィも楽しめるのだろうが、僕はそうではない。

僕がダンケルクで感じることのできることのできたつらさは、ひどい言い方をすれば一人で冷静に見ていれば全く笑えないコメディなのに、深夜テンションのところで周りが笑っていてさらに脇の下をくすぐられているから出た笑いのようなものだった。

画面がデカイ、音がすごい、不快感が溢れる音楽が流れる、そしてカメラが安定ので酔う。そういうものをあわせて「つらい体験」になったのだが、それはそういうものだ。

劇映画において明示的な、文脈に基づく表現を求めている僕には、前作インターステラーに続いて合わなかった。が、決して悪い映画ではない。人によってはタダすごいカメラを使って高画質で、それから特撮しているだけの映画ではないか、と思うかもしれないが、それが並んでいるだけでも素晴らしいというものだ。

念のため書いておくが、感想である。良い、悪い、正しい、間違いの議論はしていない。