六月の開発局

「業界の人」じゃないよ

演技についてのノート(約1万5000字:まとまっていない)

はじめに

立場柄、演技というものの向き合わずにはいられない。専門の教育を受けたわけではないし、受ける気もないのに、気づいたら演出の全決断権を有しており、さてどうしたものか、と思い悩むことを繰り返し既に10年近くが過ぎた。

素人が熱心に勉強と訓練を重ねてきた役者や、昨日まで素人だった役者の演技を指導し、映画を演出することの困難さは、難しいという言葉で言い表せるものではなく、どちらかというと闇が深いと表現したくなるものだ。そこには何か指標が存在するわけではなく(少なくとも僕は見たことがない)、頼るべき正義も見当たらない。難しいものは時間をかければなんとかなることが多いが、闇が深いものは自分が闇の中に入り何が正しいのかわからなくなってしまう。だから、僕は素人として信じられるもの、自分が理解できるものを積み上げて、それ以上のことは役者に任せることにしてきた。その積み上げた成果のようなものである。

本来なら「こうすべきだ」というのが固まった時点で、FILMASSEMBLER のサイトに記事を掲載すべきである。しかし、なかなかそこに至りそうにないので、とりあえず今わかっていることを書いてみようと思う。

だから、結論や答えはない。まとまってもいない。ただ、演技について考えていることをつらつらと書いた、メモのようなものだ。期待しないでほしい。ほとんど推敲していない。

念のため書いておくが、僕は基本的にソフトウェア開発で金を稼いでおり、前述の通り映像に関わって10年近く経つが、映像業界との関わりはほぼ全くない。したがって、用語の扱いは僕が普段用いているものである。「業界の人」と話をするときに、こういう扱いをするとトラブルのもとになるので、やめよう。それから、例によって、すべての資料を再確認している余裕がないので、うろ覚えで書いている。気をつけてほしい。ここは、そういう文章を載せる場所とはしていない。

なお、人間以外の例えば怪獣や、水や煙の演技、それからアニメにおける声優以外の演技についても書きたかったのだが、もう文章があまりに巨大になりすぎていた。ので、書いていない。

何が演技を構成するか

昨年夏に「君の名は。」を見た。演技について一番強く印象に残ったのは中に宮水が入った瀧の演技だった。神木氏の技術について特に書くことはないが、この演技で僕は決定的に宮水という女が嫌いになった。

理屈を説明する。瀧は、宮水が中に入ると、明らかに声色が変わる。なよなよした、さも「女の子ならこうだろう」という声を出す。これが、瀧がこち亀の両津のように「宮水と入れ替わったんです、という演技をしている描写」なら、これについて僕はすんなりと受け入れるだろう。だが、ここは「本当に瀧の身体に宮水が入っている」のだ。つまり、宮水三葉という女は「普段から"女の子のように"声を出そうとしている、キャラを作っている女」ということになる。

僕は、女性が普通に喋っていて、女性らしい声を出すのはそれは無垢な声だと認識している(30年近く騙されているのかもしれない)。例えば、徹の前での鶴来民子は「作っている」が、松前緒花の前では「素」だと捉えている。でも、どちらの声も、女性らしい声だ、と思っている。武部沙織だって、普段から信三郎の前の声ではないし、一年生に「先輩は今まで何人ぐらいの男の人と付き合ったんですか?」とツッコまれれば変な声も出ちゃうわけだ(茅野様の変声は最高である。最近だとあかりおねいちゃんがおばさん呼ばわりされた後の声が良かった)。黄前久美子だって、塚本秀一の前だとあからさまに声のトーンが落ちるが、それでも女の子らしいかわいらしい声である。そしてそういう声において意識して作っているのはあくまで「どーでもいいやつ」に対する部分で、女の子らしい高い周波数を作ろうとしてはいない。その声への偽りの愛を語りティラミーが土田香苗の追求を切り抜けたように、女の子の声にヤラれる男子は少なくない。女の子の自然な可愛い声は武器なのだ。

さて、宮水が中に入った瀧は、明らかに声の周波数を上げている。もちろん、男の中に入ってしまった宮水が、その違和感を解消するためにちょっと声色を変えている、という演出と捉えることもできる。だが、「カフェ!?」の声で「ああもうこれ完全に染みついてるわ」という印象が拭えなくなってしまった。宮水という女は日頃から可愛い声を努力して出力しており、それが予想外の喜びにおいても剥がれることのない鉄壁の偽装である。D機関の職員も真っ青の深層心理に染み付いた可愛い子演技である。「このカマトトが」以外の感想はない。

本作における神木氏の演技の評価は高いが、先にも書いたように神木氏の技術について評価したいのではない。肝心なのは、僕の周囲の何人かがそうであるように、おそらく一部の人は「宮水が中に入っている瀧は"ああいう声"を出すのが当然で、普通に喋るなんて選択肢に理由が存在するとは考えもしなかった」ということだ。むしろ、僕の言うように、宮水が中に入った瀧が普通に喋ったら「なんで中身が女の子に入れ替わってるのに声色が一緒なんだ。神木氏の演技はダメだ」という評価がなされたかもしれないし、新海監督はそういう点も考慮して、神木氏に演技計画を伝えたであろう。でも、僕にはダメだった。もう、宮水という女に対して「ぶりやがって」という評価しか持てなくなった。好みの問題である。

「宮水が入った瀧の演技」についてここまで細かく書いてきたのは、ここに演技の評価を困難にする要素がたくさんあるからだ。ここには「宮水をどういうキャラクタとするか」という脚本の要素、次に「瀧の中に宮水がいるという状況をどう描くか」という演出の要素、その演出を技術的に実現できるかという演者の要素、そしてそれをどう受け止めるかという観客の要素、4つの要素がある。この4要素について分解した時、僕はどれも間違っているとは思わない。新海監督の脚本も演出も「宮水が中にいる瀧」の演出として真っ当だし、それを神木氏はプロとして忠実に実行したものと容易に想像できる。でも、見ている豊住は新海監督の例外(想定外ではないと考えている)の受け止め方をし、それを新海監督は初めから切り捨てている。一言で言ってしまえば「残念な話」である。

演技の問題に向き合うこと

僕は演技について考えなきゃいけない立場だから、こうやって自分の違和感を分析して、評価と感想を切り分けなければならず、結果的に作品に対する言葉は良いものも悪いものもむき出しになって分割して出力される。ところが、普通の人間はそうではない。自分がなぜ、そう感じたかということを「脚本」「演出」「役者」「自分」に分割して出力なんかしない。運が良くて「キャラがキモすぎ感情移入できないこんな映画に高評価なんて日本の映画は終わってる」、運が悪けりゃ★1で終了である。逆パターンなら「泣けました最高の映画です全人類が見るべき」と★5である。

が、これも問題ではない。どんな感想でも尊いものだからだ。映画の感想など個人の勝手、右へ倣えする必要などない。

「演技を決定しなければならない監督である僕」にとって問題なのは「一体、普通の人がいう演技が良くないとはどういうことなのかわからないので、良くしようがない」ということだ。最終的に受け手の問題であることはわかっている、けれども、受け手に届けなければならないのも事実だ。その結果をどうするかはともかく、新海監督がおそらくそうしたように「対象外の受け手を極限し、対象の受け手を最大化しかつ最大効果域で届けるにはどうしたらいいか」という問題を解いた方が良いだろう。

こうやって文章に起こすとそういう問題なのかと認識できた気がするが、実際のところ規格化され校正のなされた評価器は存在しないわけだから、事実上問題を認識できてもいない。問題とは認識できればあとは解決するだけなので、真の問題は認識が難しいのだ。長年問題になっていることでも、本当はその問題がどうして問題なのか認識できていないのである。

演技の問題は難しいため、ボールがゴールラインを割りそうなのでマイナスのパスを出したときに「なんで攻めないんだ!腰の抜けたパスを出すな!」みたいなことを言う頭のおかしい人間もめちゃくちゃ多い。単にその作品や演技が趣味に合わなかっただけなのに、「好き・嫌い」の問題を「いい・悪い」にすり替えるわけだ。そして、そいつの声がデカく、おまけにボールみたいに簡単に位置が見えないので間違いを指摘されても理解しないことが容易なのである。こうして演技をどう捉えたらよいかという問題は混迷を極めていく。

そして混迷が解決して書いているわけでもないので、この記事には結論がなく、僕は以下つらつらと「おそらくこれも問題に関わっているのだろうな」ということを記していくだけになる。

ただ、結論のようなものを記せるのなら「演技を構成する要素も評価軸もあまりに無数にあるので、そのすべては不可能だができるだけ多くを拾い意図的に取捨選択をすることが大切である」ということ、それから「もしあなたが誰か監督に協力する時があるのなら、自分の見ている軸を伝えることが作品の品質を高める手助けになるだろう」ということを記しておきたい。

「お話」と「脚本」の違い

よく、作品を見て、そのお話が気に入らないと「脚本が悪い」という人がいる。でも、これは本当に脚本が悪いのかというと、実はそうでないことも多い。

演技がそうであると同じように、構成要素をひっくるめて「脚本」としていることはよくあることで、本質的に何が悪いのかわからなくなっていることも少なくないからだ。 例えば、こんなシーンを考えてみよう。

「昨晩、加茂島製薬の研究所が何者かに襲撃され、資料が奪われた」

「加茂島製薬、ツカパロス症候群に対する画期的な新薬を発表した企業ですね」

お気付きの通り「説明台詞」である。ちょっと気を使ってやると、

「昨晩、加茂島製薬の研究所が何者かに襲撃され、資料が奪われた」

「加茂島製薬?……あ、ツカパロス症候群に対する画期的な新薬を発表した企業、ですか?」

このように、さも「記憶を取り戻して確認した」というようになるだろう。しかし、もっとマシにすると、

「昨晩、加茂島製薬の研究所が何者かに襲撃され、資料が奪われた」

「加茂島製薬?……あ、ツカパロスの」

ぐらいになるだろう。あるいは

「昨晩、加茂島製薬の研究所が何者かに襲撃され、資料が奪われた」

「資料?なんの資料ですか」

「去年あそこが発表した、ツカパロス新薬のだよ」

なんて形にすることもできる。

このとき「加茂島製薬の研究所が何者かに襲撃されたことを二人が話している」というのが「お話」であり、それをどう表現していくのか、が「脚本」である。

そして、台詞の質は演技の難易度や受け入れやすさを左右する。説明台詞はそれ自体が違和感を持つことがあるため、前述の通り最終的な作品の断片を受け取った時に生じた違和感が断片を構成するどの要素によるものか判別できない観客にとっては、物語への没入を阻害する要素となりかねないのである。本当にひどい台詞の場合、極めてひどい例え方をすれば、スカートの上からパンツをはいているヒロインのような結果を導く。そんなヒロインが登場したらよほど変わった設定でない限り、どれだけ真剣な演技をしていても、まったく話に集中できないだろう。確かにパンツもスカートもはいているが、絶対におかしい。そんな事故が起きてしまう。次節に述べるが、説明台詞自体を否定するわけではない。けれども、台詞にはそれ自体の質が明らかに存在するし、説明台詞はその質を保つことが難しい台詞の一つである。

わかりやすさをどこまで求めるか

僕が脚本を書くのなら、前節の最後の方の形態にするだろう。そういう脚本が「好き」だからだ。最初の方の形態も「悪い」わけではない。なぜなら、そこには必要な情報がはっきりと短い時間内に収まっているという利点がある。だから、それを選択するのも十分ありだし、実はある作品の実際の台詞を元に書いている。プロが認めて世に出た由緒正しい書きぶりなのだ。プロの仕事に赤を入れる真似はあまり好きではないので、別の作品から実例を紹介したい。

小林さんちのメイドラゴン第1話における、小林さんの台詞だ。「あのプログラム、今日統合テストか」。この台詞は小林さんの独り言である。独り言としては「今日統合テストか」だけで限界だろう。けれども、ソフトウェア産業について知らない人間は「統合テスト」と言ってもなんのことだかわからない。ここに、多少不自然でも「あのプログラム」と一言入れることで、一時に小林さんの仕事を表すことができる。

しかし、台詞に載せる情報量を少なくし、他の情報で補っていくやりかたには、映像作品の醍醐味がある。そういう魅力を究極的に追求した作品には、拙著「Scout Report1. 勝つことは、すべてだ。(コミケ受かったらまた持ってく)」にも記した通り「アルドノア・ゼロ」「WXIII 機動警察パトレイバー」「ジャッカルの日」などがあげられる。また、押井守監督は「台詞」と「映像」と「映画」を並列に扱って豊穣な時間を作ってくるので、難解と称されがちな一方で熱烈なファンを獲得しているのはひろく知られている。さして難しいお話ではないが、その内容を丁寧に制御して、一つのフィルムに厚い体験を作り出そうとするわけだ。

「説明台詞は悪いものだ!」「日本の映画は説明台詞が多すぎる!」と憤る人はよく見かけるが、説明台詞を排除して画面で説明しまくったWXIIIを評価している人はなかなかみない。台詞に情報を載せず絵で描くことで、高い評価が確実に得られるわけではないと注意しておきたい。

脚本はお話を伝えるための道具であり、そのお話をどれぐらいわかりやすく言葉で率直に伝えるか、というところの脚本上の裁量が好みの範疇と言って良いだろう。

わかりやすさとその好みの裁量は、脚本のなかだけにあるわけではない。演技にもある。例えば「雲の向こう、約束の場所」におけるサユリの「すごい、飛行機」だ。この台詞はパイロット版にも本編にも入っているが、明らかに本編の方がわかりやすく「可愛く、彼らのプロジェクトに興味と好意を持ってくれている女の子」という演技をしている。パイロット版の演技を僕は好むが、これを「淡白だ」「棒読みだ」と忌避する人もいるだろう。

雰囲気をどう作るか

文法的に、あるいは文脈的に正しくない台詞は、「スカートの上からパンツ事態」を容易に引き起こす。特に流行りのファンタジィにおける「文語調なんだけれど明らかに間違っていて、何を言っているかわらない」事故などはよく見かける(実例を挙げることは避ける)。

ただ、正しくないことがよくないわけではない。例えば、ガールズ&パンツァー最終話における武部沙織の台詞を思い出してほしい。マウス出現に対し「こんなんじゃ戦車が乗っかりそうな戦車だよ」という彼女の叫びは、とても文としては奇妙な台詞である。しかし、この台詞は彼女の動揺を見事に表している。びっくりした人間が正しく喋らなくても、おかしくはないはずだ。

また凪のあすから第20話におけるまなかの台詞「ひーくん!女の子そんなに怒っちゃダメだよ!」もこの種の上手い台詞だ。まず助詞が抜けているし、怒っているのではなく、怒鳴っているのだから、かなりおかしい台詞である。けれども、まなかというキャラクタをよく表現していることは、見ればわかるはずだ。

上手いと思われやすい脚本

シン・ゴジラの俳優陣の演技の上手さについては、以前散々書いた。巷でもなかなか評判が良かったので、多くの人がそう思ったということだろう。

だが、あえて書くが、シン・ゴジラの脚本は「演技が上手いと思われやすい」ということを演技を作る側としては知っておきたい。というのは、シン・ゴジラは脚本が上手く、台詞がそれらしいからだ。

シン・ゴジラには、誰かが自分の思いを語ったりするシーンが極端に少ない。また、キャラクタを作る演技も非常に少ない。事務的に伝達事項を淡々と述べるという演技が極めて多い。このため、この内容に「納得感」があればそれだけで演技が上手く見えるのだ。

例えば、自衛隊の指揮官が「朝のナパーム弾の香りは格別だ」「石器時代に戻してやる」とか、言わない。「CPより各車戦闘陣に移行せよ」とか言われると、ほとんどの観客は自衛隊員として訓練に参加したことなどないのに本物らしく聞こえて「現実感がある」と錯覚する。現実なんか知らないのに。

だから、一番かわいそうなのは石原氏である。脚本を読んで泣きそうになったと言っていたそうだが、当たり前だ。自分だけ異様に難易度が高いのである。感情を口にして、個性的なキャラクタを表現することを求められる。そして、映画がコケたら間違いなく吊し上げを喰らうのは自分の演技である。だが石原氏はそれに対して真っ向勝負を挑んで見事にやり抜いた。

僕は尾頭さんも好きだし、市川氏もかわいいと思うけど、市川氏はやりやすいキャラを割り当てられているのが事実だ。無表情、事務伝達型、最後にちょっと笑って、いいとこを持っていく、演技の観点で言えば美味しいキャラクタである。他のキャラクタも大体そうで、だからシン・ゴジラの脚本は優れているのだ。

けれども、庵野総監督はあの脚本を「演技が下手な役者でもやりやすい簡単な脚本」として作ったわけでもないはずだ。あの脚本は「日本人役者の演技の上手さを最大限わかりやすく表現する」脚本である。このことについては、あとで説明したい。

ガメラ 大怪獣空中決戦

ガメラ 大怪獣空中決戦」は伊藤氏という稀代の脚本家が、その脚本能力の高さを最大に発揮し、また金子監督がそれを見事に演出した映画である。この映画の台詞を通じて、脚本と演技の関係を記して行きたい。

まず、ヒロイン長峰真弓が姫神島に赴き、荒らされた民家近くに謎の半固体を見つけるシーンである。長峰はこれを鳥の未消化物の塊に似ているが大きすぎると言いつつ、その中から万年筆を取り出し「平田先生のです」と呟く。この脚本はすごい。この一つの台詞で「おそらく平田先生は何者かに食われて死んだ」ことがわかるし、長峰が万年筆だけで平田先生を判別できる間柄であったこと、そのつらさが伝わってくる。そして、流れ出てくるメガネのフレームは、平田先生がメガネを掛けていたことも教えてくれる。

また、この台詞は、ただ神妙に言いさえすれば、その衝撃を伝えてくれるのである。機械的に言っても、小声で涙をこらえながら言っても、呆然と言っても、認めたくないように絞り出しても、台詞の機能は損なわれない、根本的な強さがある。監督や役者が長峰真弓というキャラクタをどう描くかの裁量が極めて大きく、技倆に左右されない。にも関わらず、必要なことはちゃんと入っている優れた台詞だ。これが例えば「これは平田先生の万年筆ですね」になった途端、その説明性は強まり、意味やキャラクタの性分が固定されてしまう。さらに、この台詞を演じた中山氏はあまりに理解しがたい、鳥が人を丸呑みにしたのかもしれないという出来事を前に驚愕していることが伝わる種別の演技をしている。

この作品には、本当に優れた台詞がたくさんある。実は気に入っている台詞を書き出してみたことがあるのだが、平成ガメラ3部作のうち、もっとも切れ味のある台詞が多かったのが、この大怪獣空中決戦だ。「平田先生のです」と同じ種類のものなら、ヘリのパイロットが発する「行きます」がそうだ。ただ一言なのに、これを演じた役者の演技も相まって、このパイロットの勇気や覚悟が描かれているし、そこに続く長峰の「お願いします」には彼女の性分がよく出ている。詩的な台詞なら「最早太陽も我々の味方をしてはくれないのか」は、とても芝居がかった台詞だが、この後の怪獣映画史に残る美しいカットとあいまって、この映画を代表する台詞と言っていいだろう。むき出しの説明台詞だが「――その場合でも、敵による攻撃がなければ、こちらから攻撃することはできない」は、斎藤という男の役人らしさを表し映画の現実感を補強する。「ないよね」は長峰をとても可愛らしく描き出したし、「一度やってみたかったんだ!」も僕らが感情移入できる優れた台詞だ。これらの台詞はもちろん、それぞれの役者はものすごくよく演じきり、怪獣映画の歴史に大きな一歩を刻んだ。

それから、僕が個人的に最大の名台詞だと思っている「いつか、怪獣のいない東京を案内するよ」についても書いておきたい。この台詞は、一見、口説き文句のように思える。けれども、これはそんな単純な台詞ではない。そもそも、この台詞は「いつか君に怪獣のいない東京を案内するよ」だったそうだ。この台詞に米森を演じた伊原氏は「こんなときにこんな台詞を言うか」と苦言を呈し、これに対し中山氏が「わたしにはこの気持ちがわかる」と反論したそうである。そこで結果として「君に」を削って「自分の愛している東京」という意味を前に押し出した、のだそうだ。

その結果、この台詞には「本当にひどい事態になってしまったことに対し、ヤケクソになりつつも自分の暮らしている街への愛が溢れた」といった意味が出た。このヤケクソ感が伊原氏の演技の良さであり、そこには「ただ壊して映える巨大な建物が多い」や「人の数が多いだけ」の東京でなく「誰かが暮らしているだけでなく、愛している街」という、怪獣映画どころか邦画でも珍しい要素が表れたのである。怪獣映画は、映画の中でもとりわけ巨大な嘘でできている。その嘘を成立させるには現実感という背景が必要だ。その背景を見事に補強したのがこの台詞であり、その下手をすれば「取ってつけたようなキザな台詞」になりかねないこの台詞を自然に溶け込ませたのが伊原氏の演技である。

が、ガメラ大怪獣空中決戦という映画が、演技の面で本当に興味深いのは実はこれらの点ではないのである。これも後に説明する。

ザ・マジックアワー

怪獣映画の話ばかりじゃないか、と思われそうだから、三谷幸喜監督の「ザ・マジックアワー」を例にしよう。

この映画は「映画の中で映画を演じる人間」や「映画の中で欺くための芝居をする人間」そして「映画に登場する人間」が入り乱れる映画である。カッコイイお兄さんから渋いおじさん、きれいなお姉さんから素敵なオバちゃんかわいい女の子まで出てきて、笑いあり涙ありアクションあり最後はスカッと爽快という映画の一つの完成形のような傑作だが、それはおいておこう。

主人公、村田大樹という男は「映画の中で映画を演じる人間」である。そして「人前でカッコつけたい人間」でもある。だから、映画の中でどんどん「演じる」。素の村田大樹、謎の殺し屋デラ富樫、お姉ちゃんにいいとこ見せたい村田、大好きな俳優の前でかしこまった村田そして一世一代の大芝居を打つ役者村田大樹、といった具合である。演じる佐藤氏の技術がよくわかるのは、その切り替えだ。人間は一枚岩ではない。いろいろな面がある。その切り替えを見事にこなして、別の人になってみせる。「演技が上手い」というのは、ある意味「切り替えがはっきりしている」ということでもある。それでいながら「村田大樹」という男から離れてはおらず、その裏側に佐藤氏という人物がいるのだ。そうみると、演技を楽しむ面から見てもこの作品の豪華さがわかるし、より楽しくなるだろう。

この映画の登場人物の演技について語ろうとすると端役まで大物がいて大変なことになるので、もう一人の主人公備後を見守る女の子「なっちゃん」について語ろう。なっちゃんは口にはしないが、明らかに備後のことが好きである。そしてものすごく心配していて、けれどもその気持を明らかにしようとはしない。この健気な女の子がささやかな期待を得られた時の屈託のない笑み、こういう笑みの破壊力はそれまでの演技、つまり「備後のことが好きなんだけれどもそれを秘めている。しかし秘めきれてはいない」という演技の積み重ねがなければ発揮されない。お話を作る段階で導火線の演技の機会を与え、きちんと発火させなければ機能しないわけだ。当然、名脚本家でアテ書きの三谷監督である。周到に準備していることは間違いないし、それが見事に活かされた作品だ。

笑いという演「技」

ここまで重点的に「脚本」の要素と「観客」それから「演出」の関わりが深い演技について説明してきたが、ここでは純粋な「演者」の技倆が問われる演技の話を書こう。

今、一番わかり易い、演者の技倆が問われる種類の演技はアニメの声優における「笑い声」と「怒鳴り声」である。もうこればかりは口で説明することができないので、確認してもらいたいのだが、素人にはあの笑い声や怒鳴り声を出すことがほとんど不可能なのだ。例えば、タレントが声優起用されたときに一番違和感が出るのがここだ。アニメ声優の作る笑い声は実際の笑い声とは全く違うもので、例えばアニメのキャラクタは笑いを押し殺して排気音だけで笑いを表現することはまずない。でも実際のクスクス笑いはほとんど鼻からの排気音である。クスクス笑いは「クスクス笑いの声」を出す。実際の人間は「高笑い」をすることは滅多にないが、アニメのキャラクタはいとも簡単にやるし、それをアニメの中で大勢が何の違和感もなく見ている。

具体例を上げれば、ごちうさの一話でココアが「くすぐったーい」と笑うシーン(おまくす)があるが、あんな笑い方をする現実世界の人間はあまりみかけないだろう(例によって、本業声優ではなくアニメらしくない笑いの例はあげない)。そして、僕らは「ああ、ココアが笑ってるな」と何の違和感もなく受け入れている。声優の「笑い声音」を共通認識として持っていて、それがアニメに実装されているときは「普通の演技」として認識しているわけだ。不自然な音なのに。

ここには、僕らが「見た目」によって求める演技を替えているし、演技に対する評価軸が「甘くなっている」と言っても良い。

その他の演「技」

台詞周りばかり書いているが、立ち居振る舞いも演技においては重要だ。この点について語るなら、三船敏郎をはじめ黒澤組の面々の演技力は只者ではない。居合術はもちろん、馬乗りにも秀で、世田谷の自宅に秘蔵したタイムマシンで昔の人物をそのまま連れてきたんじゃないかと思うような現実感を与えてくれる。歩き方一つに何度も注文をつけたというが、本当に見事なものである。こういった「技」の数々は、演技の傾向が変わっても色褪せることはない。昔は録音技術が低かったし、画質も悪かったから、役者はややオーバなアクションをすることが求められたのだろう、台詞回しという面においては古臭いな、と思うことも少なくない。しかし、立ち居振る舞いについては今の時代でも十分どころか最前線で通じる。

佐藤と菊千代、西と権藤社長、そして中島老人をわずか十数年の間に同じ役者が演じたと思えるだろうか。それどころか、新米刑事から野獣のような男、真面目な青年に中年の実業家、そして哀れな老人を「新米野獣老人青年中年」の順番で演じているのである。「技」の究極形態といっていいだろう。

では最近の邦画にはそんな見事な演技を見せる俳優はいないのかというと、そんなことはない。超高速!参勤交代の佐々木氏の居合は素晴らしい。僕は居合を知らないから、初歩的なものなのかもしれないが、十分「剣客」の迫力を見せてもらった。

洋画における演技

さて、よく聞く話「日本の俳優の演技はダメ」について書こう。

僕は、こういう意見を聞く度に感心する。洋画の俳優の演技の良し悪しがわかるのか、と思うからだ。

多くの洋画は英語音声だが、まず僕には英語だと何を言っているかわらない。字幕がないと、台詞の意味がわからないから、演技を評価する以前の問題である。何を言っているかわらないのに、どう言っているか、という評価ができる筈がない。もちろん「If so powerful you are, why leave?」ぐらいの中学生英語なら理解できる。しかしそれは「いふそーぱわふるゆーあー、ほわいりーぶだからつまりそんなに強いのにどうして逃げるのと言っているな」という変換を働かせて理解しているのであって「If so powerful you are, why leave?」を理解しているわけではない。

こんな状況なのに、台詞に基づく演技の良し悪しがわかるわけがない。そりゃあ、怒ってるはずなのに笑いが溢れている、とかならわかるだろう。けれども「平田先生のです」のような台詞をどんな調子で、つまり、呆然としているのか、認めたくないように絞り出しているか、といった違いが、わかるだろうか?僕には、わからない。日本語なら、普段よく聞いて、耳慣れていて、あらゆる感情の状態と共に日本語をやりしているから、そういう微妙な機微に気づく。だから、洋画の俳優の日本語以外の演技の良し悪しがわかる人は純粋にすごいな、と思う。

でも、本当にそうか?みんなそんなに英語がわかるのなら、なぜ英語ネイティブ音声字幕も吹き替えもないという上映形態はみないのだろう。日本語翻訳なんてない方が作る側にとって安上がりでいいじゃないか。だから、僕はこう思っている。「日本民族やそれに近い人種以外が日本語以外を喋ると、とたんに演技に対する要求はアニメにおける笑い声に対するもののように甘くなる」。

この仮定は、日本人は普段見慣れない外国の景色に外国人が並ぶとそれだけで異世界感を感じるので、細かく気を配らなくていいのだろう、という仮定につながる。また、日本人は「西洋人が出てくる視覚的優位性がある映画」と「自分たちの日常の風景の延長線上で動く映画」を同列に比較して大量に観るため邦画に対する演技の要求が高いのだろう、という仮定につなげることができる。そしてそれらは多分あっている筈だ。

もちろん、演技は台詞を言うことだけじゃない。表情や身振り手振りも演技の一つだ。けれども、例えば日本人とアメリカ人ではまったく非言語対話の傾向が違う。それを同列に語ることに無理があるから、無視して良いだろう。

以前Twitterにも書いたが、僕は呪怨とthe grudgeの同じシーン(そういうものがあるか知らないが)を並べて、日米の演技力の差を解説したところなど見たことがない。今まで書いてきたように、演技には演者だけでなく脚本や演出の要素が関わるのに、印象論だけで「日本の俳優」という藁人形の演技を叩く人間が後を絶たない。呪怨はどちらも清水崇監督だから、かなり純粋に演技力の良し悪しを問うことができるはずだ。だから、僕は「日本の俳優の演技はダメ」論は仮に正しかったとしても、それを言っている人の言葉には納得することができないでいる。

僕はシン・ゴジラのときも石原氏の英語の演技がおかしいと言われても、理解できなかった。僕にとっては、石原氏は大変よく「英語ネイティブが日本語を喋る時」「アメリカの女優のはっきりした演技」を再現していると評価できたし、おかしいおかしいという人も、具体的に、技術的に、そのおかしさを言い表さなかったからだ。例えば、僕が最初に瀧の中に入った三葉の演技に対する違和感を説明するように、言葉で理解できるように説明すべきじゃないか。もちろん「ネイティブスピーカからならわかる」という話もあったが、ネイティブスピーカではないので知ったことではない。グローバル云々のたまうのなら、まずはジャンジラについての意見を聞こーじゃないか(CV高橋李依)。

平成ガメラ三部作における演技の飛び道具

さて、もう気付いた方もいるかもしれないが、平成ガメラ三部作は、怪獣映画最大の難所「怪獣が出て来る嘘っぱちに現実感を持たせる」という点において、今となってはもう使えないだろう飛び道具を使っている。

本物のアナウンサを使ったニュースシーンを挿入したのである。

当時はインターネットが普及していなかったから皆がテレビを見ていた。テレビを見ず、家ではほぼNHKからチャンネルが変わることのなかった僕でさえ、おじいちゃんちで見ていた僅かな日テレの映像で見て覚えているアナウンサたちが登場して、怪獣が来た状況を演じ始めたのである。96年の夏、サッカーの練習に行った時「とよ、昨日のガメラ、見たか?すごかったよな!本物のアナウンサが出てて、おもしろかった!」と、基本怪獣映画になんか興味のないチームメイトに言われたことを覚えている(なお、放送自体を知らなかったので、僕は見ていない)。

このアナウンサたちの起用には「洋画の外国人俳優」や「アニメキャラ」と同じぐらい効果がある。登場するだけで「報道の現実感」を表すことができる。これ以上の方法はない。そして、演技は普段の行動をそのままやっているので、違和感もへったくれもない。もし危険があるとすればそれは台詞の内容だが、当然協力があるし、そもそも脚本は伊藤氏である。

日本の役者の良さを最大限に引き出す

またシンゴジの話に戻るが、シン・ゴジラが公開された時「日本人の役者は演技が下手だから早口で喋らせて演技させないようにした」といった意見を何度か観た。僕は違うと思う。日本人の役者は演技が下手なわけではない。庵野総監督は「ハリウッド映画に出演する、視覚的優位性を持つ非日本民族系俳優の非日本語演技に負けないように、あらゆる手を打って彼らの良さをより強く引き出した」というのが事実だと考えている。庵野総監督は映像の演出力にとてつもない能力を持っている。それを用い、さらに前述した強力な、日本民族の役者が実行すると途端に厳しい目で見られる明確に感情的な演技要求を可能な限り排除した脚本を投下して、結果を掴み取ったのだ。

ではその演技を補強する「視覚的な強さ」とは何か。それは、美術や衣装などが作り出す背景である。僕らが海外旅行に行った時「映画の中みたいだ」と思うことがあるだろう。そこでカメラを回して友達の姿を撮るだけで、映画のような時間が流れ出してしまったことがある人もいるだろう。非日常の世界に現実感と納得感を与える視覚的な衝撃は「外国人の顔」と同様に強く機能する。ひどい言い方をすれば、貸会議室に量販店のスーツ姿の人間が並んでいても、どこかの中小企業の会議にしか見えないだろう。あの素晴らしい演技を支えて、映画に現実感を与えているのは、恐ろしくよく作り込ませたセットなのだ。面構えが飛び道具にならないのなら、他を全力で固めるしかないのだ。

そして、俳優の「技」ははっきり画面に残っている。基本的なところで言えば、あれだけ歯切れよく早口で発音しているところがもうすでに「技」だし、同じシーンを何度も撮影してそれを違和感なくつなげるものにしていること、つまり再現性があるというところがすさまじい技である。これは実際やった人でも気付かないかもしれないが、ああいうシビアな演技になればなるほど、別テイクのカットは繋がらなくなるのだ。そして、感情が乗っていないわけでもない。早口の上に、どれだけこの事態に真剣に立ち向かっているかを見事に演じ載せていることは、見ればわかる。

思えば、平成ガメラ三部作も、背景の力を多分に借りていた。ニュースキャスターたちがその破壊力を最大限発揮したスタジオセットが、彼らの飛び道具としての強さを高めたことに異論はないだろう。福岡ドームに閉じ込める作戦は怪獣と戦うことを現実に繋いでくれたし、地下鉄構内の持つ不気味さがレギオンの恐怖を倍増させ、ファミレスの前を戦車が行くことが決戦の印象をより強くした。奈良の祠の持つ雰囲気があの妖艶な時間をより色濃く描き出したし、今も多くの特撮怪獣映画ファンは京都駅ビルを見て心を踊らせる。

もちろん、ザ・マジックアワーの背景がものすごいことは映画のエンドクレジットを見る前にわかる。

おわりに

僕らはつい、演技というと、役者個人の技倆の責任にしがちだ。でも、そうではない。脚本、演出、背景となる美術や衣装、すべてがあって、その演技は描かれる。前も書いたが、宮崎駿監督は「創りたい作品へ、造る人達が、可能な限りの到達点へとにじり寄っていく。その全過程が作品を作るということなのだ(もののけ姫はこうして生まれた。より。句読点は僕による。)」と述べている。同じことだと、僕は思う。

最後に、ちょっと書いておきたいことがある。THE NEXT GENERATION パトレイバーを観たことがあるだろうか。僕はこの作品を「自主映画野郎は観るべき」と思っている。なぜなら、この作品には、映画を作る上で参考になることがたくさんあるからだ。予算や、編集や、さまざまなことの大切さが、わかる。演技と背景の関係も、この作品は見事に見せてくれる。おすすめは、エピソード1とGRAY GHOST(首都決戦ディレクターズ・カット版)だ。3つの出動シークエンス、全力出撃603のあたりと、「エンジンスタート!」、そしてゲートブリッジの袂におけるデッキアップが、教えてくれるはずだ。