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@TOYOZUMIKouichi

リズと青い鳥 良かったところの感想

リズと青い鳥の二回目を観てきた。今日は初めて川崎チネチッタのLIVE ZOUND上映を楽しんできた。僕はあまりネットの映画館の評価と合わない。例えば、評判のいい立川の極上爆音上映は耳が痛くてガルパンの映画を僕は耳をふさいで見ていた。けれども、LIVE ZOUND上映は非常に楽しむことができた。非常に聞きやすい音だった。行ってよかったと思う。設定集も買えた。

先日書いたリズと青い鳥 感想は久し振りに大勢の方にお読みいただけたようで、嬉しいかぎりである。

しかしブコメで、id:reijikan氏に「良いところの感想も読みたい」と言われ、id:spicychickenlike氏に「粗探しばっかり」と煽られ、id:synonymous氏もそれに同意されているようだから、よかったところを書いていこうと思う。

ただ、はっきり言っておきたいのは、粗探しはしていないということだ。初めてみる映画を眺めていて引っかかったところを記しただけだ。そしてそれは、良い映画を傷つけたと感じているところだ。ピクセル等倍で写真を眺めてわずかなピンずれや色収差を殊更に騒ぎ立てたわけではない。なんかこれ撮像素子に4つぐらいデカイゴミついてるよね、青空が綺麗なのにめっちゃ目立つよ、ちゃんと掃除するなりレタッチしろよ、という話である。粗探ししようと思えばたくさん見つかる。もちろん、好みではないから、やらない。

さらに良いところも書いた。ただ、ざっくりとしか書かなかったのは理由があって、それは自信が持てなかったからだ。見終わってから、ざっと感想を眺めたところ、僕とは全く違う映画の捉え方をしていた人が大勢いた。だから、トイレを我慢しながら観ていたし、何か勘違いしたのではないかと思ったのだ。

今日はそれなりにちゃんと追えたので、細かい見落としはあるかもしれないが、よかったところを書いていきたい。ただし、そんなわけなので、多分みなさんが「うんうんそうだよね」と同意して安心できる感想ではない。端的に言えば、不愉快になるかもしれない。どうやら、僕が普通じゃない見方をしてしまったらしい。

で、だから監督の意図と多分違うし、監督の意図を読むべき正しい読み方に従うべきだ解釈とはただひとつ正しい解釈があるんだみたいなハックルおじさん主義の人は読まないほうがいいですよ。忠告しましたからね。それでも良いなら読んで下さい。

僕はこの映画は、傘木希美という一人の少女の描き方が素晴らしいと思っている。この少女には、珍しい実在感があって、その心理が非常によく描けていると思ったのだ。

その心理描写を一番感じたのは、最初の登校シーンである。映画の始まりのあたりってどうしても記憶しづらい変わった性分なのでアレなのだが、多分希美はみぞれをほとんど気に留めずに通り過ぎていく筈だ。にも関わらず、羽根を見つけたら突然話しかけ、拾って彼女にわたしてやるのである。そして、妙に演技じみた話しかけ方をするのである。

(このあたり事実誤認と言うか書き忘れがあったので修正)

僕はこれを観た時「あ、やっぱりそうなんだ」と思った。そう、というのは希美にとってみぞれは負担なんだ、ということである。どうしようもない友人なので、そういう友人に対する特殊な距離感を取っている、という具合である。距離感を詰めなきゃいけないんだけど、実はあまり積極的にしたくない、みたいな揺れ動きだ。

どうして「そう」捉えていたかは、テレビシリーズから追うとわかりやすい。好きではないので放送時一度しか観ていないから、何か間違っているかもしれないけど、だいたいこういう話だ。

傘木希美という子が中学の吹奏楽部に所属していて、フルートを担当している。中学は吹奏楽のそれなりの強豪校で、フルートも親に買ってもらった。鎧塚みぞれという子を誘い込み、その子はオーボエを担当して、友達になった。ところが中学最後の大会で不本意な結果に終わり、高校でのリターンマッチを企図して、先輩方も多く進学している北宇治高校に入った。みぞれもくっついてきた。

ところが、その北宇治高校では、三年生がやる気がなくて、部活が成り立っていなかった。それに腹を立てた希美は退部を選択する。しかし、次の年はまともな顧問がついて、部がきちんと活動しはじめた。そこで希美は復帰を決断する。

ここまでは多分皆の見立てとあっていると思うが、僕はその先の話をこう捉えている。希美は自分が復帰するときに、自分が「虫が良い」と思われることが怖かった。復帰した北宇治高校吹奏楽部の面々が快く迎えてくれるかどうかは微妙である。去年の実績からしたら、北宇治吹奏楽部の女というのはやりはじめたら極めて陰湿だとわかっている。そこで希美は部長以上に人望があるあすかを味方につけることを画策した。ところがそのあすかは、私の許可なんかいらないと言い、しかし反対であるといい続けた。

その後は希美にとっては悪夢のような展開だったろう。虫が良すぎると陰口を叩かれるどころか、ソロ担当者のメンタルケアつまり部活の成功に関わる問題を背負わされたのだ。自分が嫌だから出て行くときに、そのプライドに付き合わせるのは悪いと思ってみぞれに黙ってやめたのに。嫌な先輩もいないし、困ってないし、みぞれは好きにやってればいいじゃん。相談したってみぞれが事態の打破に役に立つことは期待できないのだから、むしろ黙って辞めるのがベストの選択肢だったはずだ。

地獄の展開は続く。みぞれは自分に依存することでその能力を発揮し、部は全国大会に進んだのである。つまり、部の目標達成は自分がいかにみぞれのご機嫌をとるかということにかかっているという状態が事実上成立したのである。さらに、その状態を皆が是としたのだ。次期部長格の優子はその状況に追い込んだ張本人である。もはやあすかという存在がいなくなっても、中学の時成し得なかった最後の戦いで勝利を収めるという自らの目標を達成するには、みぞれのご機嫌をどうとるかが至上命題になったのだ。

それでもまだ希美が水を運ぶことを得意とし、好む存在であれば問題は小さかった。ところが、傘木希美は自らもフルートの名手であり、まわりからもみぞれと共に木管のダブルエースとして認められていたのである。

ワールドカップで得点王に輝いたにもかかわらず、バルサではリオネル・滅私メッシ奉公を強いられることになったダビド・ビジャのような立場に希美は立たされた。そしてその苦境を理解する人間は誰もいない。さらに輪をかけてひどいのは、このみぞれという友人がほとんど意思表示をしない、察してちゃんのオリンピックでメダル争いに絡めるような存在なのである。授業に参加しないことが先生からも事実上許されるようなお姫様なのである。

やってらんねー。

しかし傘木希美はとてつもない大きさの度量の持ち主であり、人気者になれる人格者だった。だから、校内のほぼ全ての場面において明るくて優しくてフルートの名手の人気者であり、親友のみぞれと仲良く一緒にいる、という存在を演じ続けたのである。しかしそれが偽りの関係であると映画は最初のシーンで描いてしまった。そしてその微妙なズレが大きくなり、崩壊していく様を描いていく。

この状態の描写の成功に強く寄与したのが種崎氏と東山氏を始めとする声優陣と高い演技力だ。種崎氏が生っぽい落ち着いた演技をし、脇を固める声優陣も高い技量で同質の演技をするので、東山氏の「人気者を演じているのではないかと疑いを持てるような微妙な演技」が際立ったのだ。偽りの人気者希美の驚きと、本当の高校生希美の驚きを微かだが明確に差異をつけて描く演技を、はっきりさせたのだ。

また、音響もいい作用をしている。最初の構内を歩くシーンでは、足音がまるでハイヒールを履いているかのような硬質な音だ。一方「パート練行ってくる」と駆けていくとき、その音は上履きの音だ。希美にとってはみぞれといることが極限の緊張感で、パート練にいくときは救われているのだ。

さて、この後希美は様々な形でみぞれとの距離感を測ったり、広げることを画策する。自分が後輩たちとファミレスに行くことを伝え、やんわりと君もパートの子と仲良くしなさいとかやってみる。ところが全然うまくいかない。離し過ぎて調子を落とされても困るからプールに誘ってみると、他の子も連れていきたいと言い出すからちょっと安心する。

そんな中みぞれが音大行きのパンフレットを持っていたので希美は言ってみたのだ。私音大行こうかなあと。これは希美にとっては期待だった。あのみぞれが自ら音大行きを考えはじめたのだから、回答は最低でも「希美も受けるの?嬉しい」だと思っていたのだ。しかし現実は残酷で「希美が受けるなら私も受ける」だったのである。

練習中、希美はもっとみぞれの声を聞け、手を差し伸べてやれとも言われてしまう。もう八方塞がりどころの騒ぎではない。制空権も奪われ、立っているのは汚染土の地雷原。詰んでいる。

この絶望ばかりの状況で、希美が明確にリラックスして話すシーンがある。それが夏紀との教室での会話だ。いつも背筋を伸ばして相手をまっすぐみて明るくハキハキ喋る希美が、このときは背中から力を抜いてしなだれながら話すのだ。この時点で夏紀は「ダブルエース」と言ってしまう。しかしそれに対する希美の反応を見て、夏紀は事態のマズさに気づいていく。

一方優子は部長であり、部活の表面の取り仕切りで処理能力を使い尽くしており、全然希美の状況に思い至らない。夏紀もマズいとはわかっているけれど打開策がないので状況を強いることになってしまう。そこで希美は麗奈と久美子の戯れを見て思う。

なぜ自分達はあんな関係になれなかったのかーー

もう勝手にしやがれ。吹っ切れた希美は自分は普通大学に行くと言いだし、みぞれにも言ってないという。ところが優子は部長職に精一杯なので、表面的な友情しか見ていない。彼女の批判に事態を察した夏紀は、なんとかクッション役になることを試みる。

「でも今は」とみぞれと希美の声がユニゾンする。そして「たくさんの鳥」が飛び立つ。二人の間に残されていたお互いの確かなものだった音楽における認識も、決定的にズレたのだ。解釈が発散してしまったから、たくさんの鳥がはばたく。

今まで青と緑、黄色、と僅かなオレンジ、そして明度の高い明るい色で彩られていた世界が、紫色に深く染まる。丘で希美は一人佇んでいる。夏の風が吹く場所で。どうして世界はこんなに美しいのに、自分は、と。

僕はこのカットが一番好きだ。鮮やかな色彩が今まで積み重ねてきた絵によってさらに際立っている。ここまでの絵作りが報われるシーンだ。希美の心象がよく描かれている。ポスタにしてほしいと思っている。

練習においてみぞれは言い出す。第三楽章を通してやりたい、と。その演奏を聞いて希美は悟ったのだ。「自分のことを考えずに自由にみぞれはやるようになった、もう大丈夫だ」と。涙が流れたのは、これで開放されるという喜びもあるだろうし、それでも今までの努力を誰も認めてくれないのだという絶望もあるだろう。一言では言い表せない涙がそこにある。

このシーンでキャラクタデザインの変更が効いてくる。TV版のデザインだと、どうしてもみぞれがオーボエを吹いていると「おもしろい顔」になってしまうのだ。しかしここでおもしろい顔になってしまっては困るのだ。その理由はこのあとわかる。

皆がみぞれの周りに集まり、希美はああ、こうして捨てられていくのだな、と気づく。誰よりも部活のために自分を殺して来たのに。

それから、彼女は生物学室で一人佇んでいる。そっとしておいてほしかったところにみぞれがやってきてしまう。

そしてみぞれは彼女に抱きついて言うのだ。これで終わったと思うなよ、と。永遠に閉じ込めてやる、と。二人の間の絆は文字通り絆、家畜を拘束し逃げることを防止する道具だったのだ。この作用のためには絶対に「オーボエ吹いてるおもしろい顔のみぞれ」ではこまるのだ。愛した人を呪い殺す幽霊の表情である必要がある。

死んでいく希美の目。最後に「みぞれのオーボエが好き」と言ったのは、それでもその演奏だけは好きだったからだ。

なぜ自分が吹奏楽部に誘ったときのことを覚えていないと嘘を言うのか。決まっている。「あんなこと言ったばっかりにとんでもないことになってしまった」からだ。そして、そう思っているからだ。だってみぞれのオーボエはそれでも好きなんだもの。嫌なことだから忘れたことにしたいのである。

人間ってそういうものではないですか?あいつは好きとかそんな簡単なもんじゃないですよ。ああいうところはこうしたいけどでもまあがまんしてこれさえとれればいいやとおもっていたけどそれにもしっぱいしてあれなんでわたしそもそもこんなことしちゃったんだろうああでもそれかんがたらいやなやつだなでもじぶんがいやなやつかどうかよりじぶんがしあわせかどうかではみたいな感じできれいに切り分けづらいものではないですか?そういう実在感がこの映画の傘木希美というキャラクタには存分にあって、そこをしっかり描いているから、良い映画だと思っているわけです。

煉獄の中で希美は生きていく。青い鳥はカッコウだったのだ。落とされた自分は問題集を解いて今後の人生を生きて、なんとか這い上がってコンクールに間に合わせるしかない。でもまあそんなことだから、多分北宇治は今年のコンクールでろくな成果を出せないであろう。最後の最後で守りたかった願いも潰えた。その最後の表情が見えないのも簡単だ。そんなもん観客見たかねえよ。

って言う風に僕は初見で見ていたので「確かにこりゃ絶望だし泣くわ」と思ったのである。これホラーだよ。だから山本寛監督が「三途の川を渡った」「厭世観」とか言った理由もなんとなくわかったのである。

ほらねー?良かったところなんか書かないほうがよかったでしょう?ただ、そうすると前回僕が批判したところもよりなんで批判したか伝わるかも。

聲の形の感想も大分書けてきたからそろそろ上げるし、またなんか思いついたらTwitterにも書くので、よろしくお願いします。