映画を撮ったり、写真を撮ったり。絵を描いたり、小説を書いたり。コードを書いたり、感想を書いたり。

@TOYOZUMIKouichi

今さらだけど、「映画 聲の形」感想(約1万5000字:Netflixにも入ったから見れば?)

先日、WOWOW映画 聲の形が放送された。とても良かったので、感想を書く。佳作、秀作、傑作、名作の並びで言えば、傑作であると言える。最近Netflixにも入ったようだから、未見の人は見ると良いだろう。

いつも書いていることだが、感想である。評論や、解説ではない。僕がどう思ったかだ。正しいかどうかを書いてはいない。僕が映画を何度か見て、感じたことや想ったことを記す。

それから、公開から大分経った映画だ。僕は公開当時の感想などをほとんど読んでいないから、もしかしたら散々語り尽くされたことばかりかもしれない。時間はたっているが、特に監督インタビューを読んだりといったことはしていない。そして、監督やスタッフの意図を推論するものでもない。それらと僕の見立てがズレていようと、知ったことではない。

さらに、本作は傑作である。しかし、単体でその傑たる所以を言い表すことが難しかった。そのため僕は他の作品を引き合いに出さざる得なかった。ただし、それは各個の表現において本作が他の作品を上回っていると僕が評価するだけの話であり、全体的な話をしていない、ということに気をつけてもらいたい。

色々と書きたいことはあるのだが、ものすごく長くなりそうなので、最初にいちばん記しておきたいポイントから書く。だから、この話題だけ読んでいただければ、それで良い。

いじめや障碍者の話題になると、常に現れる原則があると思う。障碍者についてはおいておいて、いじめをサンプルにしよう。それは、0か100かという極端な話だ。例えば、僕はこの映画を最初に見た時に「いじめはするほうが悪い。善悪の比は0:10だ」と記した。それは今でも変わっていない。けれども、原因の比はそういうものだとは思っていない。こんなことを書くと、多分こう言いたくなる人もいると思う。「いじめられる方にも原因があるなんて、なんてことを言うんだ」。でも、僕はそれを撤回するつもりは今のところない。原因は、原因だ。それ以外の何者でもない。良いとか、悪いとか、正しいとか、間違っているとか、責任があるとか、ないとかではない。単に、原因だ。理由と言ってもいい。

本作であれば、いじめの原因の一つは硝子が聾唖者であったこと、だ。硝子が聾唖者でなければ、本作のお話は始まらない。もちろん、石田という少年に問題があったことも原因だ。けれども、それをどうしても0か100かにしなければならないと思っている人たちがいると思う。つまり、石田に問題があったことが原因のすべてであり、硝子が聾唖者であったことは原因ではない、と捉える人だ。原因という言葉に宿っている、悪という印象を持ってそれを否定するだろう。それはどんな話題にも垣間見えることだけど、いじめは0か100にしたがる人の多い話題だ。僕もそうだし。

その論陣が保証したいのは硝子の無謬性と絶対悪としての石田だ。ところが、この映画はお話の流れからして、絶対悪「であるべき」石田を絶対悪とは描かずに転がっていく。だから、僕が散見したレビューにも「いじめた子がいじめられた子と恋仲になるなんて許せない。ありえない」みたいなものが見受けられた。僕もいじめられていたクチであるから、そういう気持ちがわからないでもない。ただ、これはまた別の話題なので、あとに回すとしたい。まず書きたいのは、この映画が「0か100ではない」ということを懇切丁寧に描いた映画だということだ。

その描写を気づいた限り記していくことにしよう。序盤、硝子が怒って石田と取っ組み合いの喧嘩をするシーンがある。この時、硝子も石田も決してグーで殴ろうとしない。本気でリミッタを外せば一番力があるのはグーだ。子供のケンカでグーパンチが使われない理由は怖いからだ。少なくとも、常日頃ああいう取っ組み合いをしていた僕はそうだった。本気を出して殴ることには一線があり、そこには決定的な攻撃力がある。ノックアウトさせてはいけない、という考えがそこにある。

なぜノックアウトがいけないか、僕は正確に説明することはできない。子供なので、死ぬかもしれないとかは考えていなかった。ただ、決定に対する恐怖がある。相手がやっているから自分もやっていいという安心感をノックアウトは決定的に損なってしまう。ノックアウトされたら相手をノックアウトすることは、できないからね。

気づいたと思うが、同じような描写は他にもある。硝子に石田が怪我をさせてしまうシーンだ。皆が硝子をいじめていたのに、彼女が血を流した瞬間に、やりすぎなどと石田を批判し始める。担任に石田が叱られた時も同じで、全く立場が変わってしまう。

これらのシーンは0か100かに傾いた時に、自分にとっての社会が崩壊する様とそれを防止しようという思いを描いている。聲の形という映画は、0か100かに傾くことの愚かさと、それにより引き起こされる崩壊を阻止するために何をするか、という映画だと言ってもいいと思う。

登場人物の初期ポジションは基本的に極端な位置に偏っている。

まず主人公の石田自身が「罰を受けるべき」とか「生きてちゃいけない」とか実にくだらない極端な発言をする。友達に資格とかバカみたいなことを言い出して、長束にくだらないと窘められる。

メインヒロイン硝子も大概な女で、極論の王者である。私がいなくなればいいなどと思い込んで自殺しようとする奴は0か100かの究極形態である。石田とお似合いである。

長束も親友は俺だとか俺に何の断りもなくなどとすごくうっとおしい。親友か否かの0か100かの尺度しか彼にはない。

石田が中学に上がった時、島田が「あいついじめっ子だから」と言いふらす描写がある。石田という人物がいじめっ子という一つの属性でしかない、ということはあり得ないと島田自身よくわかっているはずだ。彼もまた0か100に島田を置くという極端なポジションを取る。

他の連中も、どっちが悪いとかとか謝ったら許してあげればとかもう全日本極論選手権常連選手ばかりである。状況がきな臭くなると直花もてめーどっちの味方なんだよとか0か100かの極論大会に参戦してしまう。ただ、みよこはそこに行かない。これは重要なポイントだ。けれども、みよこの中では彼女も当初は0か100かだったことがあとでわかる。

なぜ彼ら彼女らがああいうことになったのか。それはお互い歩み寄ろうとせずに、自分のポジションを固持することにこだわったからだ。川井を見ればわかる。自分が可愛いだけだとは別の言い方をすれば安全な位置にこだわっているということである。

では、0か100かの馬鹿げた価値観にどう立ち向かうか、だ。簡単だ。石田が言っている。「もっと話がしたかったんだ」これだ。

石田は最終盤、文化祭周りたい、と言って手話をする。

一緒に、と。

0か100かの左右の両端に立たせた指をお互い近づけていって、真ん中で合わせる。これである。落とし所を見つけよう、極端な場所に立たないでいようと描くのだ。

よく誤解されているけれど、コミュニケーション能力と言うのは相手の思いを汲んで自分の意見を引っ込めたり、表現を選択することだけではない。和気あいあいとした雰囲気をつくることではない。実現したいことを実現するために、言いづらいことを言うことも含めて、伝えたいことをなんとか伝える能力のことだ。

直花は、話そう、落とし所を見つけようと早い段階で言い出した人物である。直花は手話を提案された時に「ノートに書くんじゃダメなんですか」と口にする。この質問は素朴な疑問を偽装した拒否だ。けれども、直花は最初期に「自分は書く方が楽だ」と自分の意志を伝えることができた唯一の人間なのだ。あそこで「空気を読んで」誤解を助長し破滅を招来する人間のどれだけ多いことか。落とし所を見つけようとする、生来の態度がある。

そんな彼女は色々な場所に顔を出して硝子と石田のバカコンビを誘導する。観覧車はその好例である。「わたしはあなたへの理解が足りていなかった、でもあなたもわたしのこと理解しようとしていなかったよね」と、歩み寄ることの大切さを説く。さらに「空気を読んでもらえない」と察すると、無視したり、悪口を言ってもう近づかないでと、別の手段をとって伝えようとしたことを伝える。落とし所がお互い嫌いな者同士でもいいだろうと、少しでも極端さから離れることを求める。何かあったらごめんなさいでは縮まる距離も縮まらないのだ。「私と話す気がないのよ」と怒りに震え、病院の前でただ待っているだけの西宮の訴えを拒絶し、同じやり方でその馬鹿馬鹿しさを表現していく。そして最後の最後にさらに一歩踏み出して、手話を繰り出すのである。

直花と同時期に落とし所を見つけようと動き出したみよこは言う。「怖いかどうかは乗ってから決める」と。かつで自分も0か100だったが、今はまず歩み寄っていこうという姿勢を描いている。クラスの中で自分が手話を学ぶという落とし所になろうとしたみよこでさえ、まだ距離を縮められるはずだと思っているのだ。

この比較的高いコミュニケーション能力を持つ二人の女子に対して、メインヒロイン硝子はもうまるでダメである。まず、相手の認識を確認する作業を怠っている。その好例がガーデンピックである。わかるわけねえだろあんなもん。せっかく手話を習得して話しかけてきてくれたのに、無理に声で会話しようとして伝わるものも伝わらない。お前がポニィテイルにしたことでそれが告白の覚悟だと伝わるのは、京アニ時空の中だけなんだよ馬鹿野郎。

話すより先に行動に出るタイプであり、その次にごめんなさいである。話すより先に行動に出るから、橋から飛び降りて、ベランダからも飛び降りる。相手が記述することの面倒臭さが想像できないから、ノートに書いてくれとやってしまって、嫌われる。自分が歌った時に周りの反応を見られないから、立場が悪くなってしまう。病室に入れてほしいなら言えばいいのに、黙って察してもらえるのを待っている。

その妹の結弦もそうだ。最初は石田と話そうとしない。けれども、話していくことによって石田を理解していく。理解していなかった頃より、幸せになっていく。彼女は、石田がいなければ祖母が死んだあと、どうなっただろうか。少なくとも「俺に勉強教えてくれよう」と言える人はいなかった。

では石田はどうか。石田も話す前に飛び降りようとしたりする。顔を見ない、相手をフレームアウトさせる、傘の向こうに隠すなど、人と話す以前の問題である。でも、そもそも聲の形というお話が、結末に向かって大きな転換を迎えたのは、石田が硝子に会いに行って、話しに行ったからだ。

この映画は、よい脚本の流れを持っている。映画は、歩み寄ること自体を認識していない、言ってしまえば社会性がゼロに近い連中からスタートする。そして、その道をひた走りに走った末路が描かれる。担任の先生は全然問答無用で石田を追求する。コミュニケーションがない、とは、最終的にああいうことになるのだ。「これはもう戦争ですよ」というやつである。

そしてそこでめちゃくちゃにされた主人公が、話してみようと思い、話し始める。様々なエピソードを通じて、たまに寄り道したりもするけれど、概ね話すことで救われていく。自分の中で何をすべきか、どうしていけばよかったのかに気づく。最終的に指先でそれを描く。

歩み寄ろうとというとき、話そうというとき、使えるのは言葉だ。言葉は、0か100かではないこと、歩み寄ること、社会性を獲得すること、つまり子供がおとなになっていくときに重要な要素だ。それを、子供がおとなになっていく思春期の様子を通じて、描いていく。

誰かを好きになり、それを伝えたいと思う。そこには期待があり、一方で恐怖がある。それは思春期の一般的な作用だ。そこには好きという言葉の怖さと、それを行使することでその先が0か100に振れる恐れがある。この作品は恋愛アニメだが、その特性もまた描こうとするもののために利用されている。

最後に石田は落とし所を見つけることを指先で表す。ここで映画が結末を迎える。手話を知らない人でもわかる最も一般的な手話の一つによって、映画が描いてきたそのすべてを、聲の形を描くのだ。これが僕が本作を「傑作」と評した所以だ。

この映画には明確な思想がある。0か、100かではないんだ、落とし所を見つけていくことなんだ、という意志がある。そしてその意志は「世界は0か100かでなく、話すことによって少しずつ近づき、それにより照らされ、輝くはずだ」という世界観になっている。もっと短く言い表すのなら、この映画の世界観は「話すべきだ」だ。この映画が「世界」をどう「観」ているか、ということがわかる。世界観という言葉の格好良さを借りるだけで、実態は世界設定や美術設定である偽りの世界観ではない。世界を総体的にどう捉えているか、という本物の世界観だ。そしてその世界観が観ている世界の輝きの美しさはとてつもないものだ。

さて、ここまでで一番大切なことは書けた。だから、もうやんなっちゃった人はここら辺で離脱すると良いだろう。

以下、しばらく構成を考えるのが面倒なので、シーンを順番に追うことにしよう。これによって、いかにこの映画で描かれている「世界」が美しいものなのか、そして、それが僕らの傍にあるのかということを示していきたい。

まずはじめに書いておきたいのは橋から飛び込む硝子だ。無言で黙って飛び込む、この時の太ももである。最高だ。すごく柔らかそうなのに無駄なたるみがない。片方の足を欄干に乗せた時に描かれる光景の尊さは筆舌に尽くしがたい。その間に挟まれる一瞬を夢見ると、生きる力が湧いてくる情景だ。アニメーションの技術が存分に生かされている。序盤の観ていてよかったと思えるシーンである。

そして硝子が飛び込み、石田が飛び込むと水の中が描かれる。タルコフスキーを評して誰かが言った。物体を水に沈めることで時間はゆっくりと流れ出し、別の世界を描き出す。制御された時間の中に、揺蕩う制服スカートの動きを君は観たか。僕は観た。愚かな女神の放つ希望に溢れた世界を。その高貴なる光景に石田は目を逸らす。彼はアホなので、こんな眩しいものを生きるに値しない自分が見たら目が潰れると思い込んでいるのか。どんなに辛い人生であったとしても、春の陽射しが降り注ぐ、青の世界に揺れ動く、脚線美の輝きから目を逸らすべきではないのに。

太陽女子学園に向かう駅の切符売り場で長束が万札三枚取り出して言う。「交通費、お食事代、ラブホ代」。これほど鮮やかな友情があるだろうか。どんなに大きな声を出したり歯の浮くような台詞を並べたり涙を流したりして確かめ合うよりも、確かな友情の形がそこにはある。

電車の中で硝子がメールをくれるシーンは、本作で僕が唯一感動したシーンだ。

硝子はLINEなどでなく、電子メールをくれる。僕は懐かしさで胸がいっぱいになった。僕が恋愛ができるようになったのは今から11年前だから、すぐにiPhoneが発売された。そしてそのとき好きな子の名前がアンチエイリアスされた美しいヒラギノフォントで書き出されることに喜びを覚えた。このシーンはあの時の感動を呼び起こしてくれた。

そして、件名だ。あの頃の僕らは件名に悩ませていなかっただろうか。少なくとも僕は悩ませていた。今はもうほぼ失われた文化だ。あのころの僕らは件名に読んでもらいたいという思いを込めたり、簡単な返事を入れたり、好きな子への件名を大切にしていた。一方で硝子がそうであるように家族やどうでもいい友人への返信はRe:が重なるだけになったはずだ。そういう遥かなるもう取り戻せない栄光の日々への憧憬があのシーンにはある。

列車が駅に到着し、エスカレータを下るとみよことの再会シーンが発生する。身長172の女をメインヒロインに据え付け、179の女をサブヒロインのトップに置く長身フェチの俺が、石川さんの演じる長身女子高生を見逃さずにいると思うか?軽やかに一段飛ばしでエスカレータを降りてくる動き、大きな手、「確かめてやる!」と戯れるかわ由衣ヴォイス、輝くシークエンスの一つである。

続いて直花が再登場する。意味ありげな視線は「気づいた」証明だ。だがまだここではわからない。いかがわしい店に勤めているのかと一瞬疑った僕らは騙されたとわかることになり、「ヤバい、本当に来た」の一言で知ることになる。彼女が恋する乙女だということを。

次に直花が現れるのは横断歩道待ちのシーンだ。石田が振り向いた時に見えるその表情の可愛らしさといったら!続く「ごーごー!」にはまさに「萌え」という表現が相応しい。そして短すぎるスカートから伸びる美しい脚。尊い

直花が硝子をから補聴器を奪い取った後の石田は素晴らしい落ち着きを持っている。そこには怒鳴りつけて争う幼さはもう見られない。嘘でも綺麗事でも構わない。目先の落とし所を見つけて凌ごうという潔さがある。端的に言えば、大人だ。二人の少女の退路を確保して、場を収めようとしている。無理無理と無理に笑うその撤退を遮ろうとはしない。この行為があるから、直花はそのあと話を回し始めるのだ。

ポニテ硝子の告白シーンがあるがそんなことよりお前の妹どんだけ食い意地張ってんだよ。結弦、君は姉にどんな認識をされてるんだ。食べちゃったのかなはないだろう、食べちゃったのかなは。

遊園地のシーンが始まる。皆の私服姿が披露されるが、ここで何を見るべきかはすぐにわかるだろう。ジーンズのショートパンツで限界までその持てる兵器を露出した植野直花の姿を見るべきだ。その威力たるや、全盛期のエメリヤーエンコ・ヒョードルのパウンドに匹敵すると言っても過言ではない。川井の女の子らしいふんわりワンピースを一撃でKOする破壊力がある。Tシャツの短い袖から伸びる腕も見逃してはならない。ぺーろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろ。

恐ろしいほど晴れ渡る空の下、過ちを犯した天使が惜しげもなくその美を晒している。神々しさに溢れ、世界は輝いている。その輝きは考え、状況を自らの力で打破し、勝利をつかもうとする意思の強さだ。子供が大人になろうとする青春の煌めきだ。再び立ち上がろうとする健気さと覚悟がそこにある。

続いて観覧車の中のシーンだ。ああ京アニよ、なぜ君達はこの世界の美しさをフィルムに焼きつけようとしたのか。僕はこのシーンをVRで体験したい。彼女の足のすべてをこの密室で満喫したい。結弦データよこせ。

さて、そろそろまとめながらこの後をたどったほうがいいので、少し時間を戻そう。

石田は言う。良いのか?俺がこんなに楽しんで、と。この映画に対する批判の一つが、この質問に対する「よくない」だった。いじめを行なったものは断じられるべきだ、徹底的に制裁されるべきであり、幸福を享受する姿など描くべきではないーー

と、このあといろいろ論じようかと思ったのだが、映画に関係ないのでいじめについては語らない。この映画は、それが他人から良いとか悪いとか裁かれることではなく、当人達がどう生きるかという話だからだ。裁くことはまた0か100かの世界観に戻ることに他ならない。

0だと信じていた石田は言う。君に生きるのを手伝って欲しい、と。0じゃないんだ、でも100でもないと思う、そこを一緒に探して欲しいと。それは自分勝手かもしれない。けれども、それを自分勝手だと拒否するのは西宮硝子だけに与えられた特権だ。他人が裁いて良いものではない。

なにより、自分の人生、自分が主人公の物語で、御都合主義を望んでなにが悪い。望むことを誰も責められはしないし、それを望むのならそれを望むと口にして伝えなければならなかったのだ。どんなにみっともなくても言葉を尽くして伝えなければならなかったのだ。人によってはカッコよく生きるために生きているかもしれない。でも、カッコ悪い生き方を否定する法はない。概ねカッコわるい「僕ら」のために、この映画はどうすればいいかを説いたのだ。

僕は、山田尚子監督がこの作品を傑作にするにあたってした良い仕事は、ここにも一つあると考えている。「自分が主人公の物語」ということ、つまり観客を感情移入させることについて、地味だけれど確かな仕事をした。話すことによって輝く世界を、僕らの生きる世界に一生懸命近づけたのだ。

多くのアニメ映画ができなかったことで、例えば宮﨑駿監督も押井守監督も細田守監督も新海誠監督もやらなかったことだ。おそらく宮﨑監督や押井監督はそれを取るに足らないものと捉えていたり、むしろ嫌っている。細田監督や新海監督は同じことに手をつけて、ゼロ年代の「僕ら」から支持を獲得した。

僕は宮﨑監督を批判するときにこう言ってきた。「『この世界は生きるに値するんだ』と言ってきたのに、彼は一度として僕らの生きている『この世界』を舞台に選んでは来なかった。彼がやってきたのは『この世界ではない別の世界は生きるに値するんだ』という話だ」。

この点、細田守監督や新海誠監督は、現代のありのままの東京を舞台にしてお話を描いた実績がある。荒川の河川敷や新宿駅、渋谷のセンター街や東京駅は生きるに値するんだと作品で示してきた。

けれども、その二人も時を巻き戻す力や、世界最高水準の頭脳を持っている自分を必要とした。雨の日の一限に授業をサボれる度胸から連続する、小さくても特別な力の数々がなくてはならなかった。或いは主人公にはある種の無謬性や、悪を咎められない特別な地位がなければならなかった。

真琴は高瀬という少年を糞のようにゴミ箱に叩き込んでも何の罪にも問われなかったし、心を痛めて彼の名誉を回復するそぶりすら見せず、己の恋愛事情や友人の体のことしか考えない畜生の精神を持っていた。それでも彼女は何のお咎めもなしに救われたのだ。

小磯には世界を救うチャンスと数学オリンピックに出場する能力が必要だった。遠野貴樹には親の転勤で日本全国を振り回され、種子島まで行ってしまう特異な家庭環境と、そこに彼の落ち度は何もない無謬性が必要だった。孝雄は雨の一限を毎度サボれる特殊な度胸や、内申点を考えなくていい特別な才能や目的が代償なしに備わっていた。

もちろん、石田将也も特別な力や特別な幸運を持っている。が、それは前出した人物たちのものからすればとても小さい。彼は無謬性から程遠い。罪と引き換えに力を手に入れたという話をしたいわけではない。特別な力が「僕ら」の物語に対する乖離を引き起こすのなら、無謬ではない設定は「僕ら」の方に物語を引き寄せてくれる作用があるといいたい。

小さな現実的な設定の積み重ねが現実感を高めるのと同じように、小さな非現実的な設定の積み重ねは現実感を薄れさせていく。

僕は「Just Because!」を見始めたとき、「月がきれい」に似ているという評をいくつか見たので、そちらも見た。けれども、「Just Because!」が持っている思い出の中にあってもおかしくないような現実感に、月がきれいのそれは到底追いつかなかった。

とり・みきさんは、WXIII機動警察パトレイバーの脚本についてこういった趣旨のことを述べていた。「映画の中で嘘は一つしかつけない。レイバーという大嘘に怪獣という嘘を重ねるなら、怪獣を徹底的に現実的に描かなくてはならない」。

月がきれい」は決して非現実的な作風ではない。例えば異世界に飛ばされたり魔法を使ったりしない。隕石の衝突から逃げ回ったり、宇宙で戦う女友達とメールしたりはしない。主人公は中学生で、世界一の頭脳を持っていたりしない。

けれども、普通の中学生は純文学に傾倒しない。出版社に呼び出された時点で異常な中学生である。おまけに近所の広く知られた祭りでのお役目もある。そこに普通の中学生が体験しない恋愛の嘘を積み重ねて、結婚出産まで持って行ってしまう。嘘のタワーが建立してしまう。

対して「Just Because!」はもう少し夢があってもいいだろうというぐらい、現実的である。おそらく最大の嘘は「中学の時に引っ越した友達が高校3年の終わりにだけ帰ってきた」というポイントである。地味すぎて涙が出てくるような嘘だ。「出版社に呼び出されてラノベ作家への転向を勧められた」よりだいぶ控えめな嘘である。

聲の形が優れていることの一つは「生きるに値するこの世界」を描くために人間関係以外の珍しい出来事を「聾唖者である西宮硝子とそこから派生して起きたトラブル」に絞ったことだ。さらに、そのトラブルについても突飛なものは出来るだけ丁寧に描いた。最大の懸念点であった「いじめられていた人間がなぜいじめた人間と恋仲に堕ちたのか」という問題を「誰もが彼女を腫れ物のように扱うだけで同じ視線で向き合って話し、お互いを理解し合おうとはしなかった」という形で収めようとした。

くわえて、原作にはあった成人式まで続けられた関係とその先の示唆もカットして、不要な描写で違和感を育てる真似をしなかった。ついでに世界観を表現するにあたって不要な映画製作のエピソードを切り捨てた。

こういった細部の手つきの丁寧さは「特殊な家庭環境を持った、靴職人を目指して自作モカシンを履いた、料理得意な高校生が、雨の日は学校サボって、新宿御苑に入り浸り、既に退職した美人の、味覚障害で酒とチョコレートの味しかわからない女教師と、家に上り込む関係にまで達したのに、ジェダイパダワンのように禁欲的な行動をとるものの、敵に対してなぜか即物的に暴力で挑んだ」という一つ一つは対して異様な出来事ではないけれど、全体として見たらかなり異様な話にある違和感と同レベルかそれ以下に落とし込んだ。無関係で不要な嘘が大量に並べられることで作られる違和感を削りきったのだ。

端的に言えばこうだ。聲の形は世界観を伝えるための作用成分以外のものを、丁寧に削り落とした。それは完璧ではなかったかもしれないが、明らかにわかる態度があった。

そして、そのストーリィを実装した映像表現の技術力が極めて高度であった。さらに、全編にわたって均一な密度だったのだ。

確かに「転校したやつが帰ってきただけ」というJust Because!の嘘に比べたら、「障碍者をいじめた男が、いじめられて自殺を考えたその障碍者と、再会することで魂を復活させ、彼女を自殺から救い、崩壊したクラスの仲間と、歪ながらも新たな関係を築くことに成功した」という嘘はかなりデカい。しかしマズイのは嘘をつくことではなく、嘘によって違和感を生じさせ、それによって「僕らの人生の物語」でなくしてしまうことだ。もちろん、「映画 聲の形」はそこでうまくいかなかった観客も多く抱えている。

ただ、絵によってそこを支えられていたし、少なくとも、大変申し訳ないが、Just Because!とは比べ物にならない絵の強さがある。テレビシリーズと劇場版という基礎条件が違うので比べてはならないのだが、結論として言えばそういうことになる。

そして、その描いた景色の選択が見事だった。「映画 聲の形」が描いた「生きるに値するこの世界」は、風光明媚な田舎でも、世界有数の大都市でもなく、特に有名な観光資源もない、東海地方の地方都市である。関東だと鉄道マニアが「ムーンライトながらで出かける時の乗換駅」として認知しているのが一番大きな共通認識ではないかと疑いたくなるような都市である。

でも、じゃあ「僕ら」は、新宿御苑に簡単に入り浸れるような街に住んでいただろうか。観光地のようなところに、住んでいただろうか。「僕ら」にとって一番生きるに値していてほしい「この世界」は、飛騨高山でも新宿区でも呉でもなくて、岐阜県大垣市のような、自己紹介のときに「〜ってところなんですけど、ご存知ですか?」と言いたくなるような都市じゃないだろうか。まあ、呉も知る人ぞ知る、と言われればそうかもしれないけれど、名所の強さは大垣を上回るだろう。

映画 聲の形の聖地はほとんどが「そこらへんの景色」である。確かに硝子が鯉に餌をやっている橋はとても素敵だ。けれども、著名な観光地ではない。でも、あの場所は美しく描かれている。あの場所に限らず、すべてが美しく描かれている。だからこそ、僕はこの映画は「この世界は生きるに値する」と描けた特別な映画だと思うのだ。「この世界」を「僕らの生きているこの世界」に丁寧につないだ映画だと思うのだ。

もちろんハレの日にナガシマスパーランドに行くのは、近くに遊園地のない場所に住んでいる人からしたら大嘘かもしれない。けれども、それは「雨が降ったら新宿御苑」よりはずっと小さな嘘だろう。

映画 聲の形」には、小さな日常の輝きが詰まっている。それはふとした瞬間に見えた異性の友人の太ももかもしれないし、初めて送られてきたメールのアンチエイリアスされた文面かもしれない。友人と映画を観に行った帰りに寄ったショッピングモールのフードコートであったり、夏の夜に響く虫の声でもよかったのだ。その丁寧な美しさが「話すべきだ」という原始的な世界観を支えるために多く寄与していると思う。

石田ほどではないにしろ「昔、やっちまった」記憶がある人はいると思う。小学校の頃、あるいは中学校の頃でも、犯したミスに苛まれている人はいるはずだ。僕もその一人だ。この映画はそんな「僕ら」に「話すべきだ」と手を差し伸べてくれる。そしてそのミスによって生まれた自分を救うためには特別な力も、特別な場所も必要ないと教えてくれる。

西宮硝子は確かに聾唖者だが、石田将也と西宮硝子は時を飛び越えて、絶景の特別な場所でお互いの関係を修復したわけではない。ただ「そこらへん」で話しただけなのだ。確かにそれは夜の病院から脱走した先の幸運かもしれないけれど、時を巻き戻すよりはずっと身近にある。やり直せなくても、続けることはできるという希望がある。

ある意味夢がないかもしれない。もしも時を巻き戻せたらという大きな夢に比べたら小さな夢かもしれない。けれどもそれは、強く硬い夢だ。そして僕はもしも時も巻き戻せたら上手くいく、というあり得ない絶望的なお話より、話せば距離を縮められて救われるという希望のあるお話の方が好きだ。

僕はこの映画を劇場で見たかった、見るべきだったと思う。大きなスクリーンと精緻な音、なによりあの暗い空間には人を一人にしてくれる力がある。その中で石田の「もっと話がしたかったんだ」という一言を聞きたかった。生きるに値するこの世界の様子を感じ取りたかった。

生きていけばたくさんのミスを重ねていく。そしてそれを繰り返すこともあるだろう。しかしそれでも前に進もうとする意志の力がこの映画にはある。察しのいい方はもう気づいたかもしれないが、これはヱヴァンゲリオン新劇場版の開始に際し庵野秀明総監督が提示した世界観の別実装なのだ。

川井は言う。「辛いから死ぬなんてどうかしてる」「生きていれば辛いこともある」「でもみんなそうでしょう」「そういうところも愛して、進んで行かなくちゃ」。これは「映画 聲の形」の世界観を如実に表している。山田尚子監督は実に優雅な判断で、映画の芯に直結するセリフを川井に言わせることで、胡散臭さを制御可能な範囲内に収めた。この優雅な判断は要所で生きていて、「生きるのを手伝って欲しい」なども石田自身にツッコミを入れさせることで、現実感の乖離を抑制した。それにより「西宮と話がしたかったんだ」という核心の台詞を際立たせつつ、印象深いものにしたのだ。

生きるのを手伝ってほしいとは、あくまで比喩表現である。この映画においては話を聞いてほしい、思いの丈を話してほしいという意味がある。この映画は話すことの大切さをすべてにおいて説いてきた。そして、なぜ話すべきなのか、距離を縮めていくべきかなのかという動機を、石田が西宮と話すことで世界が輝いて行く様で示した。話せば世界は輝くのだ。石田も西宮も世界が輝くことで、死から離れていく。「この世界は生きるに値する」のだ。だから、生きるのを手伝うとは、話をしていきたい、ということになる。

生きるのを手伝って欲しいと言った後に、石田は西宮ともっと話しがしたかったんだ、という。比喩表現という聲の形で伝わりきらないと気づいたから、もっと直接的な言葉をぶつけていく。

押井守監督は言った。「耳をすませば」を見て、アニメを見ているような子どもたちが、生きようと思えるのか?と。ヴァイオリン職人目指してイタリアに渡ってしまう男が、中学生にして結婚しようと言う物語に「僕ら」は一体なにを参考にすればいいのか。そういう御本人も、結局の所ヨーロッパで戦闘機に乗って戦う物語しか描いておられない。「僕ら」に必要なのは、東海地方でただ話そうとするお話だったんじゃないだろうか。

僕は「山田尚子監督作品大っ嫌い」と公言してきたし、御涙頂戴も嫌いなので本作を劇場で観なかった。そのことをすごく後悔している。本作は山田尚子監督作品における僕の嫌いな点が全くなかった。僕は、彼女の「ほら、可愛いでしょう?」「ほら、考察してくださいよ」という手付きが嫌いだ。だから、「リズと青い鳥」は「映画 聲の形」よりも評価が低いのだ。あの映画は、映画として何も考えずに見たときに手放しで手に入るものがあまりにも少ない。見ている人間は、頭のいい人間、心優しい人間として振る舞うことを強要される。けれども、「映画 聲の形」はそうではない。かわいい女の子のふとももを見て喜び、結弦かわいいなあとニヤニヤしていても十分楽しめるのである。さらに、「映画 聲の形」は御涙頂戴映画ではなく、純粋なヒーロー映画だった。もしかしたら、この病院脱出後のシーンが「御涙頂戴」のシーンだったのかもしれない。けれどもそれは僕にとって「ほら素敵な話でしょう御涙頂戴」ではなかった。ヒーローが最後の戦いに勝利する様を描いた、熱い戦いの物語のクライマックスだった。

誰にも何も話せなかった少年は、自分で言葉を選んで話すまでに成長し、一人の少女を救うことで自らも救済される。そういうシーンだ。

ヒーロー映画とはヒーローが敵を倒すことがメインなのではない。ヒーローが困難に立ち向かって打ち克ち、誰かを救うこと、そのことによって自分自身が救われることが大切なのだ。

ウルトラマンは護送任務に失敗し、業務上過失致死の被疑者となった男だった。しかし彼は地球を救うことで、上司から二つの命を空輸してもらい地球の守護者の最初の一人になったのだ。仮面ライダーも改造人間にされたオートレーサを目指す学生だった。しかし彼もショッカーの魔の手による危機から世界の平和を救うことで、自らをヒーローとして再定義できたのだ。ダークナイト・トリロジーバットマンも、ジョン・マクレーンも、カリオストロの城ルパン三世も、皆自らを誰かを救うことで救っているのだ。

石田将也は最初はいじめの加害者であり、いじめによって自殺一歩手前まで追い込まれた男だった。しかし彼は西宮硝子を救うことで自らをも救ったのである。

最後に純粋に感想を述べよう。僕は「話すことで縮まる距離がある」と経験から知っている。それは僕ですら体験できたような青春にもあることだ。多分大勢の人には取るに足らないようなできことだ。でも僕には確かにあの時のことだと言いあらわせることだ。十年以上ずっと大切に思えていることだ。だから、その大切さを描いた映画があること、その映画がこの世界は生きるに値すると描いてくれたことを嬉しく思っている。